箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

決意と信頼の夜

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 とりあえず、それ以上はできることがないということで、『本の虫シミ』のふたりにはお帰りいただいた。僧侶からの進言、『女神さま』に会う、というものについては、『保留』という形で。

『いまは、ネロを追うのが先決です。彼がこの地に留まるというのも、どれだけの期間か断定できませんから。ヤフユのことは心配ですし、いないと困るのも事実ですが、そのために割く時間や人手は、いまはない』

 きりのいい段になって、男の子がスマートフォンの先でそう、お断りを告げた。男と紳士の関係性を悟られぬようにすること、そして、男が『女神さま』とやらを訝しく思っていること、それらをしっかと読み取ったうえでの最適な方策である。それに、確かに狂人・ネロを相手取るに、これ以上、時間や人手を外に割く余裕はなかった。

「とはいえ、本気でどうする……? あの『異本』は対ネロ用の必須アイテムだ。扱えなきゃ、割と困るんだが……」

 誰かに問うでもなく、男はぶつぶつ呟く。思案のため、ホテルの部屋をくるくる歩き回りながら。
 その点に関しては、『本の虫シミ』のふたりに相談することもできなかった。なぜなら、失踪した『ヤフユ』が、この世のほぼすべての『異本』を扱うことができるチートアイテム、『箱庭百貨店』を受け継ぎ、それを所持している者であるとは、彼らに知らせていないし、知られたくもなかったから。

        *

「ハク様。とにかく落ち着かれては? 美味しいダージリンが入りましたよ」

 ふと、メイドがメイドらしく、うやうやしい動作でティーカップを置いた。紅茶といえばイギリスやフランスが思い浮かぶが、ロシアも負けないほどの紅茶大国だ。ジャムとともにいただく『ロシアンティー』は有名だろう。ちなみに、ロシアではこのジャムを『ヴァレーニエ』と呼ぶ。もちろん今回、メイドはこのヴァレーニエもともに提供した。

「のは、いいんだけどよ」

 男はとにかく座り、落ち着く。が、どことなく落ち着かない。

「それはなんだ?」

 と、落ち着かない理由を指さす。テーブルの上、そこそこのサイズで存在感を放つ、豪華な装飾の施された、壺のようなもの。

「こちらは『サモワール』でございます。ロシアではごく一般的な、端的に申し上げて『湯沸かし器』ですね」

 そう言って、メイドは改めて一杯、紅茶を入れた。確かに、そのサモワールの下部には蛇口がついており、そこからお湯が出るらしい。

「最近では電動のものが主流であると聞き及んでおりましたが、こちらは伝統的なアナログタイプです。興味深い」

 説明口調にメイドは言う。サモワールの内部、中央には円筒形の空間があり、そこに炭を入れ、その周囲の空間に入れた水を温める、というシステムである。

「確かに一般的なんだろうな。ホテルの部屋にまで常備されてんのか」

 男は言いつつ、ティーカップを持ち上げた。口元に近付け、少し、躊躇う。

「いえ、どうやらインテリアとして飾られていたようですが、勝手に使わせていただきました」

 しれっと、メイドは言った。
 確かに、このサモワール、インテリアとしても素敵な装飾である。ロシアの一般的な家具であるなら、現地民にも、旅行者にも嬉しい一品であろうし。

「……まあ、べつにいいだろ」

 少しだけ思うところがあったが、大丈夫だろうと判断。メイドにこういうところがあるのも知っていたし、ホテルの部屋も最上級のスイートルームだ。破損したりしない限り、これくらいの自由は黙認されるだろう。

 それより、男が訝しんでいるのは、淹れられた紅茶自体である。いまさらメイドの用意したものを疑う気はないが、なにやら嗅いだことのない匂いだ。いや、その表現は言い過ぎにしても、どうにも紅茶らしくはない。
 とはいえ、さすがに男は、一瞬の躊躇だけで、口に含んだ。きっとロシアの――あまり慣れ親しんでいない紅茶の匂いなのだろうと納得して。

「ああ、……うまい」

 正直、よく解らん。男は紅茶は好きだが、特段に味に造詣が深いわけではなかった。ただ、少なくともまずくはない。なれば、メイドのために『うまい』と言っておく方がいいだろう。

「それはようございました」

 メイドは笑った。六年前の彼女とはだいぶ変わった、少しだけ、口元が緩んだ、だらしない笑顔で。

「しかし、土地柄なのかね? どこか薬草のような、薬っぽい風味があるな」

 それが悪いというわけではない。が、あまり味わったことのない風味に、男はそう言ってみた。決して不快ではないことを示すため、もう一口含みながら。

「ですよねえ……うふふ……」

 ほんの少し、逆流する。メイドの含みがある笑いに、男は鼻の奥を、逆流した紅茶で小突くこととなった。

「……なんか入れたのか?」

 男はカップから口を離し、言う。
 正面に座っていたメイドは、ティーカップを持ったまま立ち上がり、ゆっくりと男の隣へ、腰を降ろした。

「なんでしょうねえ……?」

 男の耳元で、甘く囁く。
 どうやら、なにかを入れたらしかった。

        *

「入れる、といえばハク様。お砂糖やレモンのご用意もございますが、いかがいたしましょう?」

 内緒話のように、男の耳元へ顔を近付けたまま、囁き声でメイドは問う。身を寄せるために男の膝へ、片手をついて。持っていたティーセット――カップを受け皿ソーサーに乗せ、それを反対の手でまとめて持ったまま。やや、危うく。

「つまり、入れたのは砂糖やレモンじゃねえんだな。じゃあ、ジャムとか」

ジャムヴァレーニエはお好みでどうぞ。ちにみに、ご存知でしょうが、本場のロシアンティーでは、ヴァレーニエを直接お紅茶に入れることは致しません。……本日は、ラズベリー、ブルーベリー、そしてオレンジのヴァレーニエをご用意致しておりますよ」

 やはり囁き声で、メイドは言った。男の耳をくすぐるような、声で。そして膝へ乗せた右手、その指先は、まさしく男の肌を、スーツ越しにくすぐりながら。

「メイ……」

 男はメイドから身を離すように前屈み、ここでようやくティーセットをテーブルへ置き、切り出す。

「俺はおまえを信頼している。だから、変なものを入れたとは思わねえ。が、なにを入れたかは気になる。解るな?」

 ぴたり、と、メイドのくすぐる右手は、止まった。

「ハク様。……好きっ!」

 とうとうメイドは感極まって、そう言ってしまう。男の首へ手を回し抱き着く。だから彼女の手にあるティーカップから、熱い紅茶がすべて、零れた。

「ぎゃー! あちゃあちゃ――!!」

 さすがの男も、馬鹿みたいな声を上げる。

「ぎゃー! ハク様っ!!」

 そしてメイドも、それに追随した。

        *

 その粗相を片付けてから、なんとか落ち着く。だからメイドの『告白』はお流れになった。
 いや、そもそもメイドはで言っていないだろうし、男も、に捉えてはいなかっただろうが。……たぶん。

「で、結局、なにを入れたんだよ?」

 まだ乾いていない服を気にしながら、少しだけ強い語気で、男は言った。メイドが着替えを勧めたが、そろそろ入浴の予定だ。そのときでいいと男は断った。

「ロシアの薬用酒、バリザムでございます。ほんの少しですが。お紅茶に入れるのも一般的ですし、この気候ですから、風邪の予防にもなるかと思い」

 なぜだか申し訳なさそうに、メイドは言った。男としては特段に怒るような理由も思い付かなかったのだが、なにか引け目があるのだろうか?

「なんで黙ってたんだ? 別に変なもんじゃねえんだろ?」

 男は問う。そして、なにも気にしていないというふうに、改めてその紅茶を一口、飲んだ。

「ええ、申し上げました通り、ロシアでは比較的一般的な飲み方でございます。ウォッカでもよかったのですが、やはり健康に配慮し、今回はバリザムを、と」

 ただ。と、メイドは少し俯く。

「ハク様が、お酒を控えていらっしゃるのかと思いましたので。ラグナが一緒でしたことも理由なのでしょうが、ノラ様が、……こんな状況ですから、ご自身を律していらっしゃるのかと。……ですが、少しくらいはよいと思うのです。気分転換にもなりますし、なんというか、少し、……楽しんでいただければと」

 そう言って、メイドは言葉を閉じた。少しだけ躊躇うような閉口だった。はっきりとした意図を伝えきらず。言い淀んだままの終わり。

 男は、メイドの言葉に、自身の内面と向き合う。自分を律している。そうかもしれない。楽しんでいない。そうかもしれない。しかし、それは無自覚だったし、決して、少女を理由にしていたわけじゃない。と、そう思う。
 だが、そういうふうに周りに思われていたかと思うと、申し訳ない気持ちにもなる。そしてそれは、少女へ対しても、同じ感情になってしまう。

「大丈夫ですよ、ハク様」

 メイドが男の両手を、自身の両手で包み込んで、言う。男の目を、その双眸を、まっすぐ見据えて。

「どのような困難があろうと、あなた様なら大丈夫です。ハク様なら――わたくしたちなら、必ず」

 言い終えて、メイドは深く、首を垂れる。忠誠を誓うために、意思を述べるために、決意を示すために。そしてなにより、男を安心させるために。

「ああ、俺はおまえを信頼してるよ、メイ」

 仮に自分を信じられなくとも。そう、男は思って、決心を新たに。


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