箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
167 / 385
モスクワ編

炎と氷の昼

しおりを挟む
 さて、『武器庫』を離れ、『大聖堂広場』を訪れる。件の『インペリアル・イースター・エッグ』について、さすがのメイドは引き下がったが、幼女に関しては駄々をこね続けていた、が、なんとか男の背におぶさることで納得したようである。

「ところでハク様」

 ふと、メイドがそう、男へ声をかけた。先日から――というより、EBNAより解放されてのちずっと――どこかのはずれていた彼女ゆえに、男も少し半信半疑に視線を向けて応えたが、どうにも今回は真面目な様子であった。

「例の、『異本』についてはどうされるおつもりです?」

 そう、問う。それは重要な問題だ。

 先日、『本の虫シミ』のふたりから入手した――借り受けた『異本』。その性能について、男はすでにメイドや、他の家族へ話してあった。だから、確かにその力をもってすれば、かの狂人、ネロに対しても、一部的に有効に働くだろう、ということを、彼女たちは理解している。

 それゆえに、それを扱わせるための紳士、ヤフユの存在は大きかった。その紳士が音信不通で、その助力を得るのが困難となった現状、いったいいかにしてその『異本』を扱うのか? あるいは扱わずとも狂人へ対する策があるのか? そのことに関するメイドからの、しごく真面目な問いだった。

「ああ、それな」

 男は一言、応答する。
 大聖堂広場に堂々とそびえる、聖天使首アルハンゲリスキー大聖堂、生神女就寝ウスペンスキー大聖堂、生神女福音ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂をなんとなく見上げながら。どこか、近い過去を思い起こすような視線で。

「問題ない。解決した」

「はい?」

 メイドは、自身の耳を疑った。

 男の言葉を疑う気はない。いや、仮に男の言葉が嘘であろうと、メイドには喜んで騙され、とことんまで共に歩む覚悟がすでにあった。だから、男の言葉を疑う理由が、もはやない。

 が、自分自身の耳はまだ、疑うに足る。だからメイドは端的に語尾を上げ、問い質したのだ。

「大丈夫……とまでは言い切れねえが、たぶん、まあ、問題ない」

 男は歯切れ悪く言った。その理由を信用しているような、信頼できないような、曖昧さで。

「ぶっつけ本番にはなるがな」

 そう、小さく付け加える。

        *

 大聖堂広場の中心にある、『イワン大帝の鐘楼』を眺める。総重量70トンもの『ウスペンスキーの鐘』を含めた21個の鐘を内包し、また、建設には300年もの歳月をかけたという途方もない建物だ。だが、それだけにとどまらず。
 イワン大帝の鐘楼の前には重量200トンにもなる『鐘の皇帝ツァーリ・コロコル』が安置されている。残念ながらこちらは、あまりに重すぎて持ち上がらず、また、火災が原因で一部が欠損し、一度として鳴らされたことがない。

 さらに、イワン大帝の鐘楼裏手には、『大砲の皇帝ツァーリ・プーシュカ』と銘打たれた、口径は、ギネスも認める史上最大の89センチ、重量40トンにもなる化物大砲も置かれている。こちらも一度として使用されたことがない。どうやら軍事力の誇示こそがこの大砲の役割であったそう。

 と、これら、さきほどの『インペリアル・イースター・エッグ』と比べ対照的に、男子が好きそうなロマンある作品であるが、ちょうどその、『鐘の皇帝』の前に見知ったような後ろ姿を見付け、男は声をかけた。

 いや、見知ったような、というより、基本的に間違いないだろう。こんな、中では。

「よう、待たせたか? シュウ」

 その、茶髪が半分ほど白髪に染まり、メッシュのようになっている頭へ、声をかける。

「……いえ、いま来たとこッス」

 丁年は振り向き、そう言った。その、いつも通りに寄せられた眉根に、なぜだか男は違和感を覚える。

 そして、よくよく見れば服装もだ。艶のある、白のスーツ。節々に通う金糸の刺繍。どうやら内に着込むシャツも同様のエナメル質な真っ白だ。だが、なぜだかネクタイだけ真っ黒に、よく見なければ解らないペイズリーの柄が入っている。
 どう見ても煌びやかに宝塚にかぶれた装いだが、それでもなぜか、それは喪服のように感じてしまう。それは丁年の顔に似合わないからなのか、あるいは、彼の雰囲気に合わないからなのか。

「……つうか、おまえって金髪じゃなかったっけ?」

 EBNA地下施設にて見た印象との乖離を拾い上げて、男は言った。

「ああ、あれは仕事用ッス。師匠に言われたんッスよ。仕事とプライベートを切り替えるのに、なんか自分ルールを決めるといい、って」

 こっちが地毛ッス。と、いまにも泣き出しそうな悲哀で、丁年は笑った。……ように、男には見えた。

「そういや、シャンバラから戻ってこっち、ずっといろいろあったからな、よく考えたらおまえともあんまし話せてなかったが、……ああ、……」

 だから、なにかを聞こうと思った。だが、聞きたいことが多すぎて、言葉に詰まる。

「その、師匠ってのは、なんなんだ?」

 そうして出た問いは、直近の言葉ワード。その引用にしかならなかった。

「いまさらッスね」

 やはり、泣き出しそうに笑う。

「……まあ、ちょっとした殺し屋ッスよ。本人は『殺したことにしよう屋』とか、シャレっぽい名称で騙ってるッスけどね。……ちょっとしたで弟子入りして、いろいろ教わってたッス」

「教わってた?」

 そのわずかな過去形を聡く拾って、男は問い質す。

「こないだようやく、免許皆伝ってね。というより本来の目的はこっちで――」

 と、丁年はなんの気なしに一冊の『異本』を取り出した。

「『ベェラーヤ・スミャルチ』。総合性能Dの、特段たいしたことのない一冊ッスけど、持ってる相手が悪かった。まあ、うちの師匠のことなんスけど。ナゴー・ブエル・サファイア。……ああ、仕事人としては『ルガーシ』とか名乗ってましたっけね。男爵バロンの爵位を持――っていた、元貴族なんスけど、零落したとか、なんとか。ほら、メイさんの――EBNAのときも、ちょっと手を借りたんスけど……まあ、それはいいッスかね」

 丁年は少しだけメイドを見て、曖昧にぼかした。現代ではそのメイドと同じくらいの背丈になった、目線で。

「ともあれ、いろいろ交渉の末、この『異本』を譲り受けるために弟子入りした感じッスね。『ベェラーヤ・スミャルチ』。視覚のみをわずかに向上させる、ちょっとした身体強化系『異本』ッス。……汎用性Bッスから、ハクさんでも使えるんじゃないッスか?」

 言って、丁年はおもむろに男へ、その一冊を差し出す。条件反射に手を伸ばす男だったが、すぐ、嘲笑のように少し鼻を鳴らした。

「……だめだな。やっぱ俺には使えねえわ」

 落胆などない。自身の義兄である若者が、『異本』を扱える力に優れるという指標、『親和性』が極端に高い人間であるとしたら、逆に自分は、その『親和性』が極端に低い。そう、男は自覚していたから。
 彼に扱える『異本』があるとしたら、『異本』の評価点のひとつ、『汎用性』がAのものだけだろう。それすなわち、基本的に全人類に扱えるもの、という意味だが。

「そうッスか」

 特段どちらでもいいというように、丁年はその『異本』を自らの懐にしまう。男は少し眉をしかめるが、

「ああ、この戦いの間は使わせてくださいッス。俺はこれ、使えるんで」

 そう、丁年は笑った。

        *

 それよりも。と、丁年は申し訳なさそうに切り出した。

「すみません。うちの姉どもが加勢に来られなくて。ちょっと、まあ、いろいろあるんスよ……」

 俯き、丁年は自身の、あまりに華美なスーツの襟元を、少し正した。そして、そこでようやく、メイドは気付く。なにか、おかしい? と。見抜いたうえでの疑問形で。ただただ、その気付いた。

「いや、いいさ。どちらにしてもせいぜいが後方支援だ。あの……規格外の『殺気』に直接立ち向かうには、それを体感した者じゃねえとな。慣れるってことはなくとも、気構えくらいできる」

 男は答える。その、一挙一動を、メイドは見た。男を。ではなく。丁年を。

 この場所にはない、どこか遠くを思う、罪悪感。なにかを大切にして、なにかを粗野に扱う、矛盾を両立した理屈。覚悟の中にある悲哀。それらは決して、少女の身を案ずるばかりではないだろう。

 いや、もうすでに、なにかが終わっているような感覚――。

 いろいろ思索を巡らせど、ここでメイドはその答えに辿り着けず終わるのであるが、実際に丁年が隠していたのは若者の、死。男からしては義兄にあたる、稲雷いならいじんの死亡、そのもの。この状況で余計な感情の波を荒立たせぬための配慮。そして、その死を乗り越えたからこその、人間として、本来立ち入ってはいけない領域に踏み込んだ、暗い、目。

「それでも『アニキ』にだけは声をかけたんスね」

 責めるような言葉を、無感情に。素っ気なく。相手の心を侵食しないようにとの、理性で。

 だから、それにだけはメイドも、気付いた。
 まったく、相変わらずですね、シュウ様は。と。いつかと同じ、誰を相手取るよりもよほど、軽蔑に近い見下す感情で。

「結局あいつの力は借りられそうもないがな。……まあ、他の手は用意できてる、問題ない」

 男は、そんな丁年の賢しい優しさには気付かずに、言葉に対して言葉を返した。血の通わない、無感情に。ただただ愚直な、会話のひとつとして。

「まあ、メインはお任せするッス。支援は任せてください」

 だから丁年も、落胆のように肩を落として、力を抜いて、そう、眉根を寄せて、笑った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

Re:コード・ブレイカー ~落ちこぼれと嘲られた少年、世界最強の異能で全てをねじ伏せる~

たまごころ
ファンタジー
高校生・篠宮レンは、異能が当然の時代に“無能”として蔑まれていた。 だがある日、封印された最古の力【再構築(Rewrite)】が覚醒。 世界の理(コード)を上書きする力を手に入れた彼は、かつて自分を見下した者たちに逆襲し、隠された古代組織と激突していく。 「最弱」から「神域」へ――現代異能バトル成り上がり譚が幕を開ける。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

処理中です...