箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

炎と氷の昼

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 さて、『武器庫』を離れ、『大聖堂広場』を訪れる。件の『インペリアル・イースター・エッグ』について、さすがのメイドは引き下がったが、幼女に関しては駄々をこね続けていた、が、なんとか男の背におぶさることで納得したようである。

「ところでハク様」

 ふと、メイドがそう、男へ声をかけた。先日から――というより、EBNAより解放されてのちずっと――どこかのはずれていた彼女ゆえに、男も少し半信半疑に視線を向けて応えたが、どうにも今回は真面目な様子であった。

「例の、『異本』についてはどうされるおつもりです?」

 そう、問う。それは重要な問題だ。

 先日、『本の虫シミ』のふたりから入手した――借り受けた『異本』。その性能について、男はすでにメイドや、他の家族へ話してあった。だから、確かにその力をもってすれば、かの狂人、ネロに対しても、一部的に有効に働くだろう、ということを、彼女たちは理解している。

 それゆえに、それを扱わせるための紳士、ヤフユの存在は大きかった。その紳士が音信不通で、その助力を得るのが困難となった現状、いったいいかにしてその『異本』を扱うのか? あるいは扱わずとも狂人へ対する策があるのか? そのことに関するメイドからの、しごく真面目な問いだった。

「ああ、それな」

 男は一言、応答する。
 大聖堂広場に堂々とそびえる、聖天使首アルハンゲリスキー大聖堂、生神女就寝ウスペンスキー大聖堂、生神女福音ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂をなんとなく見上げながら。どこか、近い過去を思い起こすような視線で。

「問題ない。解決した」

「はい?」

 メイドは、自身の耳を疑った。

 男の言葉を疑う気はない。いや、仮に男の言葉が嘘であろうと、メイドには喜んで騙され、とことんまで共に歩む覚悟がすでにあった。だから、男の言葉を疑う理由が、もはやない。

 が、自分自身の耳はまだ、疑うに足る。だからメイドは端的に語尾を上げ、問い質したのだ。

「大丈夫……とまでは言い切れねえが、たぶん、まあ、問題ない」

 男は歯切れ悪く言った。その理由を信用しているような、信頼できないような、曖昧さで。

「ぶっつけ本番にはなるがな」

 そう、小さく付け加える。

        *

 大聖堂広場の中心にある、『イワン大帝の鐘楼』を眺める。総重量70トンもの『ウスペンスキーの鐘』を含めた21個の鐘を内包し、また、建設には300年もの歳月をかけたという途方もない建物だ。だが、それだけにとどまらず。
 イワン大帝の鐘楼の前には重量200トンにもなる『鐘の皇帝ツァーリ・コロコル』が安置されている。残念ながらこちらは、あまりに重すぎて持ち上がらず、また、火災が原因で一部が欠損し、一度として鳴らされたことがない。

 さらに、イワン大帝の鐘楼裏手には、『大砲の皇帝ツァーリ・プーシュカ』と銘打たれた、口径は、ギネスも認める史上最大の89センチ、重量40トンにもなる化物大砲も置かれている。こちらも一度として使用されたことがない。どうやら軍事力の誇示こそがこの大砲の役割であったそう。

 と、これら、さきほどの『インペリアル・イースター・エッグ』と比べ対照的に、男子が好きそうなロマンある作品であるが、ちょうどその、『鐘の皇帝』の前に見知ったような後ろ姿を見付け、男は声をかけた。

 いや、見知ったような、というより、基本的に間違いないだろう。こんな、中では。

「よう、待たせたか? シュウ」

 その、茶髪が半分ほど白髪に染まり、メッシュのようになっている頭へ、声をかける。

「……いえ、いま来たとこッス」

 丁年は振り向き、そう言った。その、いつも通りに寄せられた眉根に、なぜだか男は違和感を覚える。

 そして、よくよく見れば服装もだ。艶のある、白のスーツ。節々に通う金糸の刺繍。どうやら内に着込むシャツも同様のエナメル質な真っ白だ。だが、なぜだかネクタイだけ真っ黒に、よく見なければ解らないペイズリーの柄が入っている。
 どう見ても煌びやかに宝塚にかぶれた装いだが、それでもなぜか、それは喪服のように感じてしまう。それは丁年の顔に似合わないからなのか、あるいは、彼の雰囲気に合わないからなのか。

「……つうか、おまえって金髪じゃなかったっけ?」

 EBNA地下施設にて見た印象との乖離を拾い上げて、男は言った。

「ああ、あれは仕事用ッス。師匠に言われたんッスよ。仕事とプライベートを切り替えるのに、なんか自分ルールを決めるといい、って」

 こっちが地毛ッス。と、いまにも泣き出しそうな悲哀で、丁年は笑った。……ように、男には見えた。

「そういや、シャンバラから戻ってこっち、ずっといろいろあったからな、よく考えたらおまえともあんまし話せてなかったが、……ああ、……」

 だから、なにかを聞こうと思った。だが、聞きたいことが多すぎて、言葉に詰まる。

「その、師匠ってのは、なんなんだ?」

 そうして出た問いは、直近の言葉ワード。その引用にしかならなかった。

「いまさらッスね」

 やはり、泣き出しそうに笑う。

「……まあ、ちょっとした殺し屋ッスよ。本人は『殺したことにしよう屋』とか、シャレっぽい名称で騙ってるッスけどね。……ちょっとしたで弟子入りして、いろいろ教わってたッス」

「教わってた?」

 そのわずかな過去形を聡く拾って、男は問い質す。

「こないだようやく、免許皆伝ってね。というより本来の目的はこっちで――」

 と、丁年はなんの気なしに一冊の『異本』を取り出した。

「『ベェラーヤ・スミャルチ』。総合性能Dの、特段たいしたことのない一冊ッスけど、持ってる相手が悪かった。まあ、うちの師匠のことなんスけど。ナゴー・ブエル・サファイア。……ああ、仕事人としては『ルガーシ』とか名乗ってましたっけね。男爵バロンの爵位を持――っていた、元貴族なんスけど、零落したとか、なんとか。ほら、メイさんの――EBNAのときも、ちょっと手を借りたんスけど……まあ、それはいいッスかね」

 丁年は少しだけメイドを見て、曖昧にぼかした。現代ではそのメイドと同じくらいの背丈になった、目線で。

「ともあれ、いろいろ交渉の末、この『異本』を譲り受けるために弟子入りした感じッスね。『ベェラーヤ・スミャルチ』。視覚のみをわずかに向上させる、ちょっとした身体強化系『異本』ッス。……汎用性Bッスから、ハクさんでも使えるんじゃないッスか?」

 言って、丁年はおもむろに男へ、その一冊を差し出す。条件反射に手を伸ばす男だったが、すぐ、嘲笑のように少し鼻を鳴らした。

「……だめだな。やっぱ俺には使えねえわ」

 落胆などない。自身の義兄である若者が、『異本』を扱える力に優れるという指標、『親和性』が極端に高い人間であるとしたら、逆に自分は、その『親和性』が極端に低い。そう、男は自覚していたから。
 彼に扱える『異本』があるとしたら、『異本』の評価点のひとつ、『汎用性』がAのものだけだろう。それすなわち、基本的に全人類に扱えるもの、という意味だが。

「そうッスか」

 特段どちらでもいいというように、丁年はその『異本』を自らの懐にしまう。男は少し眉をしかめるが、

「ああ、この戦いの間は使わせてくださいッス。俺はこれ、使えるんで」

 そう、丁年は笑った。

        *

 それよりも。と、丁年は申し訳なさそうに切り出した。

「すみません。うちの姉どもが加勢に来られなくて。ちょっと、まあ、いろいろあるんスよ……」

 俯き、丁年は自身の、あまりに華美なスーツの襟元を、少し正した。そして、そこでようやく、メイドは気付く。なにか、おかしい? と。見抜いたうえでの疑問形で。ただただ、その気付いた。

「いや、いいさ。どちらにしてもせいぜいが後方支援だ。あの……規格外の『殺気』に直接立ち向かうには、それを体感した者じゃねえとな。慣れるってことはなくとも、気構えくらいできる」

 男は答える。その、一挙一動を、メイドは見た。男を。ではなく。丁年を。

 この場所にはない、どこか遠くを思う、罪悪感。なにかを大切にして、なにかを粗野に扱う、矛盾を両立した理屈。覚悟の中にある悲哀。それらは決して、少女の身を案ずるばかりではないだろう。

 いや、もうすでに、なにかが終わっているような感覚――。

 いろいろ思索を巡らせど、ここでメイドはその答えに辿り着けず終わるのであるが、実際に丁年が隠していたのは若者の、死。男からしては義兄にあたる、稲雷いならいじんの死亡、そのもの。この状況で余計な感情の波を荒立たせぬための配慮。そして、その死を乗り越えたからこその、人間として、本来立ち入ってはいけない領域に踏み込んだ、暗い、目。

「それでも『アニキ』にだけは声をかけたんスね」

 責めるような言葉を、無感情に。素っ気なく。相手の心を侵食しないようにとの、理性で。

 だから、それにだけはメイドも、気付いた。
 まったく、相変わらずですね、シュウ様は。と。いつかと同じ、誰を相手取るよりもよほど、軽蔑に近い見下す感情で。

「結局あいつの力は借りられそうもないがな。……まあ、他の手は用意できてる、問題ない」

 男は、そんな丁年の賢しい優しさには気付かずに、言葉に対して言葉を返した。血の通わない、無感情に。ただただ愚直な、会話のひとつとして。

「まあ、メインはお任せするッス。支援は任せてください」

 だから丁年も、落胆のように肩を落として、力を抜いて、そう、眉根を寄せて、笑った。


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