箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

炎と氷の夕

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 丁年とも合流し、日は傾き始める。そろそろ観光気分も引き締めねばならない。

『クレムリン』東側。『赤の広場』へ通ずるスパスカヤ塔。そこにほど近いベンチに腰掛ける。体力的な意味でもそろそろ、温存すべき頃合いだ。

「実質、たった三人ッスか」

 丁年は言う。さほどに諦観もなく。しかして、なにかを考え込むように、少し前傾に。

「ハク。私だって力になれるよ! 仲間外れ禁止!」

 わずかに言い淀んだ男に先んじて、幼女が言葉を挟む。心強い言葉ではあるが、反面、ただのわがままのような言い草だった。

「ラグナ。おまえは駄目だ」

 だから、はっきりと男はそう、たしなめた。これまでのわがままとはわけが違う。それでも今回彼女を同行させたのは、彼女へ、いろんな世界を見せるためでしかない。EBNAから連れ出した目的を果たすため。ただの幼女として、世界を知り、体感してもらうためだけの理由だった。
 だからもとより男は幼女を戦わせるどころかこの件に関わらせるつもりもなかった。本格的に戦闘に入る前にひとりホテルへと帰らせる予定であったのだ。

 その、突き放した言い方に、幼女は両肩を落とし小さく鼻を鳴らした。落胆、よりも強い、悲しみを抱いて。

「おまえの力は解ってるつもりだ。それが戦闘においても役に立つってことも。単純な技術も十分に頼りになる。そのうえ、触れた相手の時間を操れる、超強力な極玉きょくぎょくを持つことも。……だが、それでも、駄目だ」

「なんで……」

 小さく零れる涙を拭いながら、幼女はまだ、駄々をこねるように言った。

「おまえがまだ、子どもだからだ」

「……ノラさんだって、私と同じ歳からハクの力になってたんでしょ? 私だってハクの力になれるもん」

「あいつは――」

 その少女のことを思い起こし、瞬間、言葉に詰まる。

「あいつは、勝手に――勝手をし続けてたんだよ。……その結果がこれだ。俺は――」

「ラグナ!」

 ふと、メイドが声を上げた。言葉を向けた幼女へ、というより、男の言葉を遮るように。

「聞き分けなさい」

 メイドは言う。静かに、力強く。

「……ハク?」

 その叱責にも、幼女は男へ、縋るように視線を向けて、哀願する。
 だから、メイドは立ち上がり、幼女の眼前に進み出た。パシン! と、そのまま彼女の頬を打つ。

「聞き分けなさい」

 さきほどと、同じトーンで、同じ言葉を、冷たく響かせる。
 だから幼女はメイドを、涙の溜まった目で、睨み上げた。

「アルゴ姉様きらいっ!」

 叫んで、駆けて行く。それを追うため、男が腰を浮かしかけたのを制止し、メイドは丁年に目配せた。

 瞬間、逡巡する。それから少しの視線と、頭部の動きで丁年は了解した。

 こちらはお願い致します。というメイドの意思を。
 はいはい、どうぞッス。と、丁年は嘆息を交えて。

        *

 メイドが小走りに去る。それをゆっくり見送ってから、丁年は肩を落とした。

「俺、いまだにあの人、ちょっと苦手ッス」

 言うと丁年は、気が抜けたように笑った。

「俺から言うのもおこがましいッスけど、ハクさん、こんなときに、いらんことに気を遣ってる場合じゃないッスよ」

「いらんことって……」

「いらんことッスよね? いまは」

 丁年ははっきりそう言った。

「前日までならいざ知らず。当日の、こんなぎりぎりまで観光とかして。なに考えてんスか? 果てはあんなガキにかかずらって神経すり減らして。……これから対面する相手が並大抵じゃねえってことは、あんたが一番解ってるはずだと思うッスけど?」

「それは……」

 男にはその点に関するしっかとした理由があった。いや、言い訳か。だが、それを説明して、納得させる自信が足りていない。だから、少し言い淀んだ。

「ノラのことは大切だ。命を賭けても救い出す。そのために立ち向かう相手が、一筋縄じゃねえことも重々理解している……つもりだ。それでも、他の『家族』だって同じく大切だろ。あいつに俺の気持ちをちゃんと伝えて、納得してもらうためなら、俺は言葉も心も、時間も費やす」

 幼女に関しては今回、戦わせるつもりで同行させていない。だからこそ、彼女にしてみればこの道程は、ただの観光だ。そう思っていて欲しいと願って、男は幼女を連れ回していた。彼女にとっては、少女のことも狂人との争いも、自分の旅行とは別物だと思わせたかった。
 だからこれから、重大で、とても危険な事態に首を突っ込むとて、彼女には最後まで安心して笑っていて欲しかった。そのために自分が心身を削ることは、男にとって許容すべきことだったし、それこそが彼自身の願望でもあった。

 と、いうようなことは、丁年にも解っていた。それでも彼は、言わずにはいられない。自分の立場と、男の立場の違い、あるいは、『アニキ』と慕う紳士の立場との違い。それらを思えば、なおさら、苛立ちが募るから。

「俺は、ここで死ぬつもりで来てるッスから」

 男の記憶にない、低い声で、丁年は言った。

 どうせ叶わないのだから。そう、丁年は理解していた。だから、が叶う者たちが、自分よりも真剣になりきれていないようで、腹が立つ。

 丁年は、唇を噛んだ。死ぬ。そのワードから、若者の死を思い出す。エディンバラで対峙した、あの狂人の威容を――異様を思い出す。

「だから、もしどちらかしか助からない状況になったら――どうかあんたが生き残ってくださいッス、ハクさん」

 あまりに真剣な表情に、男は言葉を失う。
 だから、ボルサリーノを傾けて、顔色を隠した。

 ――――――――

 スパスカヤ塔より赤の広場へ。閑散としたその広場の中央にて、幼女は立ち止まる。
 だから、メイドはそこで、彼女に追い付いた。

「ラグナ……」

 メイドは小さく、声をかける。さきほどの冷たく、威圧感を孕んだ声質を落として、優しく相手を慮るように。

「……なんでハクじゃないの」

 背を向けたまま、幼女は呟いた。それにメイドは応えない。だからややあって、幼女は振り返る。

「なんでハクが来ないの!?」

「ラグナ……」

 メイドは幼女へ寄り、膝をつく。そこに、わがまま娘へ対する憤りはない。彼女はもう、知っていたから。幼女がもう『解っている』ことを、メイドは『知っていた』から。

「聞き分けなさい」

 そっと、抱き締める。
 愛おしい。と、思う。そして、妬ましい、と。まるで母が娘を思うように。夫を娘に奪われた、妻のように。

 どうしてわたくしはこれまで、こんな気持ちになれなかったのでしょう? そう、自分の人生を後悔する。いいえ。それでも、うんと幸運だ。自身の生い立ちを思えば、奇跡のように、幸運だ。そう、メイドは思い直した。

「アルゴ姉様きらい……」

 その胸に顔を埋め、幼女は言った。

「ノラさんもきらい。ハクなんかきらい。……私なんか――こんなわがままな私なんか、きらい」

 涙を拭うように、拒絶のように、幼女は首を振る。

「そんなあなたが、私たちは大好きですよ」

 メイドは素直に、そう思った。だからその感情に彼女は、素直に驚いた。
 だからやっと、メイドはちゃんと、『家族』なのだと理解する。忠誠心や使命感じゃない。いま、自分は、素直に心の底から、あの人や、あの人の大切な人々を、同じように大切に愛おしく感じられる。

 だから。

「さあ、あなたはそろそろ、行きなさい」

 日が落ち、真っ赤な夕空に、黒い影が禍々しく伸び始めた。

 時間だ。

「ここからは、大人の時間ですよ」

 幼女の方を向く余裕すらなく、一点を警戒する。

 その先で、蠢く影が、ひとつ。


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