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モスクワ編
氷の慟哭
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またも時を遡り、決戦前夜のことを少しだけ語りたい。
日付けとしては当日ということになろうか。ひねた言い方をするなら、決戦前夜の、深夜二十五時過ぎ。幼女は昼過ぎからずっと寝続けていて、メイドに関しても、変わらずの休憩時間ということで、就寝していた時間帯。
男はメイドに勧められ、ほんの少しのウォッカを舐めながら、うとうととソファにもたれていた。やや夢見心地に、うとうとと翌日のことを考えながら。
「……どうすっかな」
ぼそり、呟く。気軽に。
しかし、そのような軽い事態ではない。対ネロ用――厳密には、『凝葬』に抗するために借り受けた『異本』、『白鬼夜行 雪女之書』。『凝葬』と同じく、氷や、冷気をコントロールできる強力な一冊だが、それゆえに、扱える人間はそう多くないはずだ。
事実、『本の虫』の構成員でも、『白鬼夜行シリーズ』に対する異常な親和性を持つ教祖以外には扱える者がいないというほどの一冊。当初の予定通り、あらゆる『異本』を扱える『箱庭百貨店』の利用ができなくなった現状、『雪女』を扱える人間を限られた時間で探すのは現実的ではない。
だとしたら、諦めるか? 『凝葬』への対抗策なしに狂人へ挑む……。それにはどれだけの勝率がある? そう、男は考える。考えれば考えるだに無理難題だ。あの少女を――ノラを一撃で封印したほどの一冊。『雪女』での対抗という手段でないとしても、なんらかの策は絶対に必要だ。
……ふう。と、一度、息を吐き、落ち着く。何度考えても堂々巡りだ。答えなんて出やしない。
だから、とりあえず実物でも見ながら考えよう、と、男はコートの内ポケットから、『箱庭図書館』を取り出した。
*
実物を取り出すよりも、『箱庭図書館』の中に入って、あの落ち着いた、ひとりで思慮を巡らせられる空間で考えよう。と、男は確かに、意思を持って中へ入った。
忘れていたのだ。そこには現在――というより少し以前から、彼女が住み着いていた、ということを。
「よんじゅうはち、よんじゅうきゅう……ご、じゅう!」
艶めかしく照り輝く黒い肌。美しい黒髪を流し、彼女は地に伏して運動中だった。……全裸で。
「……おお、馬鹿か」
呆気にとられ、あるいは彼女の存在を再認識するのに時間を要していた男へ、女流はなにごともなかったように声をかけた。立ち上がり、その、豊満とは言わないが、細く整った肢体を隠しもせず、両腕を腰に当てて。
「く……くく、クレオパトラ!?」
叫んではみるものの、そういえばそうだったな。と、男は想起する。
地下世界――いや、地球から遠く離れたあの惑星、仮にシャンバラと呼ぶ、あの世界。そこへ『異本』、『啓筆』序列十八位、『シャンバラ・ダルマ』を蒐集に行くときに、試験官として立ち塞がり、さらにはその後、なぜだか男の『箱庭図書館』に住み着いた、女流。
まったくもって理屈は解らないが、そうなっていたことを男は、叫びつつも想起していた。だが、問題はそれだけに留まっていない。
「なにやってんだ!」
「なにって……筋トレ?」
女流はクエスチョンマークを掲げて小首を傾げた。腕立て伏せを終えたばかりの腕をほぐすように、少しぶらぶらと、その諸手を振る。
そうじゃない。と、男は思うが、まあ、そうじゃなくもないのも確かである。ゆえに、どうにもうまく、言葉が見つからない男だった。
「なんで全裸だって俺は聞いたよね!?」
聞いていない。男は錯乱状態だ。
「なんだ、生息子じゃあるまいし……違うよね、のう?」
どこか心配そうに女流は聞き直す。
生息子という語彙は男の中になかったが、語感と文脈から読み取り、そして保留した。そんなことはどうでもいい。断じて。
「汗で服が引っ付くからのう、よもやそなたが来るとは思っておらんかったから、まあ、なんだ、……悪かったのう?」
口をパクパクさせていた男へ、数十世紀を生きた――過ごした女流は当然と高みから、気遣いを見せた。これ以上を刺激しないように、衣服を纏いながら。
「それで、なにか用か?」
しっかと、古代エジプトのままの質素なワンピースドレスを纏い、邪魔ったらしい金銀宝飾は散らかしたまま、男へ視線を向ける。
「え? うん……なんだったかな?」
男は錯乱状態だ(再掲)。しかし、さすがにすぐに、思い出す。
「そうだ。ついさっきここに入れた『異本』があるだろう?」
「うむ。それが必要なのか? 書架を案内しようか? のう?」
役に立てるのが嬉しいのか、やや前屈みに、女流は男へ疑問を重ねた。
「日本語はまだ難しくてのう、内容は把握できていないが、独特な黒い装丁だったのう。それに他のものとは違う、不思議な輝きを放っておった。あれは特別に良いものなのか、のう?」
まくしたてる女流。その言葉に男は、違和感を覚えた。
「え? 輝きを放っていた?」
頓狂な声を漏らす。
とにかく、男は錯乱状態だった(再再掲)。
*
それから、『雪女』を扱う上でのレクチャーをして、今回の作戦についても話した。男としては、特段の関係がない女流を巻き込むことに若干の気後れがあったが、控えめに要請したところ、ふたつ返事で了解が取れた。取れてしまった。
「……いいのか? ぶっちゃけ危険度は相当に高い。死……すら、覚悟させることになる」
「死? いまさらそんなものに恐怖などあろうはずもない。そもそもエジプト人の生死観なめるなよ」
なぜだか女流は胸を張った。「まあ、いまとなってはそんな狭い視野で世界を見ていないが」、と、付け足す。
「だいたい、いいかげん外に出たいぞ。この場所での司書ごっこも、もう飽きた」
頬を膨らませて抗議する。それでも、まんざらでもないような表情だった。
「司書ごっこって……いや、まあ、そんなもんか」
まあいい。と、男は言葉を飲み込んだ。一度言ったことを女流が覆すとも思えないが、気は遣っておくべきだろう。
男としては女流には、『箱庭図書館』のうちにいて、書架に収まる『異本』を管理してもらえるだけで有益だったのだ。暇な時間にかまけて、一冊でも『異本』を解読してもらえれば御の字だ。
まだ『異本』には、解明されていない大きな謎がある。それが解けない限り、現存する776冊の『異本』を蒐集し、封印しようが、また無限に、『異本』は生まれ、あるいは利用されるだろう。善用だろうが悪用だろうが、もう男は、『異本』の力を――その異能を、世にはばからせたくなかったのだ。
「とにかく、手伝ってくれるって言うなら是非もねえ。……じゃあ、とりあえず外に出るか」
そう言って、男は女流の手を引いた。しかし、動かない。
「どうした?」
「ん……。そうだのう」
なにかを考えるように、女流は顎に手を当てた。また、クエスチョンマークを掲げるように、首を捻って。
ややあって、なにかを企んだように楽しそうに、女流は笑った。
「いや、必要になったらそのときに呼べ。余は王らしく、格好よく登場したい、のう」
それに関して、いろいろと問答はあったが、最終的には男が折れた。その理由は多々あれど、その最たるは、これまでになく楽しそうに女流が、にひひ、と、笑っていたからだった。
――――――――
瞬間の、静寂。鼓動が、白い蒸気に変わり、真冬のモスクワに同化した。
「…………」
緩慢に、狂人は上体を持ち上げる。黙ったまま。
男と、目が合う。笑う。
「っっっはああぁぁあぁっひゃあぁ!!」
その、腰を降ろしたままの姿勢から、どう体を使ったのか。狂人は一瞬で姿を消し、男へと、問答無用に殴りかかっ――!!
「おおおおおおぉぉ――――!!」
弾き、飛ばされる。真正面から単調に、力任せに突っ込んだ狂人を、真正面から再度殴り、弾き、飛ばした。
男が。氷守薄が。
確かに、その一瞬、メイドと女流が、男の左右から狂人へ牽制――と呼ぶには、害意の強い割り込みを行った。それにより、ほんのわずかとはいえ狂人の意識を奪い、動きを阻害したのは確かだ。男としても、狂人は自分ごときには、無意味に隙や背後を突いたりせず、直線的に正面から突っ込んでくると予想はしていた。だから、動きは読めた、といえる。そういう要因は、いくつも重なっていた。それでも――。
あの男が、かの狂人に対して、真正面から打ち勝った。
「ノラを、解放しろ」
殴り飛ばすに使った右腕を、拳を、労わりながら男は言う。低く、強い、声で。
だから再度、狂人は上体を持ち上げた。男と目が合い、笑う。凄絶に。殺意を込めて。
「ああン……? 誰だっけ、てンめえ……?」
二度も、同じ行動には――攻撃には出なかった。だから、期せずして会話は成立する。
「……覚えてねえなら誰でもねえ。俺は、ただの、そのへんにいる一般人だ」
睨み下ろす目を逸らさないまま、男は言う。微塵も、気後れだけはしないまま。
「そうかよォ……。ンなら、それでもいい。解った、解ってっから……」
狂人は、酷い頭痛に苛まれた、その、歪んだ表情を隠すように頭を抱え、ぶつぶつ呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。
「殺してえンだろ? 俺を……。げひゃひゃひゃひゃひゃ……――!!」
楽しいように。嬉しいように、可笑しいように。徐々に笑いを高く上げ、狂人は、諸手を挙げて天を仰いだ。
「いいぜ……! 俺もちょうど、てめえを殺したくなったところだ――!!」
ふっ――と、唐突にスイッチが切り替わったかのように、狂人は笑いを止め、表情を引き締め――半身を引き、初めて、構えた。
日付けとしては当日ということになろうか。ひねた言い方をするなら、決戦前夜の、深夜二十五時過ぎ。幼女は昼過ぎからずっと寝続けていて、メイドに関しても、変わらずの休憩時間ということで、就寝していた時間帯。
男はメイドに勧められ、ほんの少しのウォッカを舐めながら、うとうととソファにもたれていた。やや夢見心地に、うとうとと翌日のことを考えながら。
「……どうすっかな」
ぼそり、呟く。気軽に。
しかし、そのような軽い事態ではない。対ネロ用――厳密には、『凝葬』に抗するために借り受けた『異本』、『白鬼夜行 雪女之書』。『凝葬』と同じく、氷や、冷気をコントロールできる強力な一冊だが、それゆえに、扱える人間はそう多くないはずだ。
事実、『本の虫』の構成員でも、『白鬼夜行シリーズ』に対する異常な親和性を持つ教祖以外には扱える者がいないというほどの一冊。当初の予定通り、あらゆる『異本』を扱える『箱庭百貨店』の利用ができなくなった現状、『雪女』を扱える人間を限られた時間で探すのは現実的ではない。
だとしたら、諦めるか? 『凝葬』への対抗策なしに狂人へ挑む……。それにはどれだけの勝率がある? そう、男は考える。考えれば考えるだに無理難題だ。あの少女を――ノラを一撃で封印したほどの一冊。『雪女』での対抗という手段でないとしても、なんらかの策は絶対に必要だ。
……ふう。と、一度、息を吐き、落ち着く。何度考えても堂々巡りだ。答えなんて出やしない。
だから、とりあえず実物でも見ながら考えよう、と、男はコートの内ポケットから、『箱庭図書館』を取り出した。
*
実物を取り出すよりも、『箱庭図書館』の中に入って、あの落ち着いた、ひとりで思慮を巡らせられる空間で考えよう。と、男は確かに、意思を持って中へ入った。
忘れていたのだ。そこには現在――というより少し以前から、彼女が住み着いていた、ということを。
「よんじゅうはち、よんじゅうきゅう……ご、じゅう!」
艶めかしく照り輝く黒い肌。美しい黒髪を流し、彼女は地に伏して運動中だった。……全裸で。
「……おお、馬鹿か」
呆気にとられ、あるいは彼女の存在を再認識するのに時間を要していた男へ、女流はなにごともなかったように声をかけた。立ち上がり、その、豊満とは言わないが、細く整った肢体を隠しもせず、両腕を腰に当てて。
「く……くく、クレオパトラ!?」
叫んではみるものの、そういえばそうだったな。と、男は想起する。
地下世界――いや、地球から遠く離れたあの惑星、仮にシャンバラと呼ぶ、あの世界。そこへ『異本』、『啓筆』序列十八位、『シャンバラ・ダルマ』を蒐集に行くときに、試験官として立ち塞がり、さらにはその後、なぜだか男の『箱庭図書館』に住み着いた、女流。
まったくもって理屈は解らないが、そうなっていたことを男は、叫びつつも想起していた。だが、問題はそれだけに留まっていない。
「なにやってんだ!」
「なにって……筋トレ?」
女流はクエスチョンマークを掲げて小首を傾げた。腕立て伏せを終えたばかりの腕をほぐすように、少しぶらぶらと、その諸手を振る。
そうじゃない。と、男は思うが、まあ、そうじゃなくもないのも確かである。ゆえに、どうにもうまく、言葉が見つからない男だった。
「なんで全裸だって俺は聞いたよね!?」
聞いていない。男は錯乱状態だ。
「なんだ、生息子じゃあるまいし……違うよね、のう?」
どこか心配そうに女流は聞き直す。
生息子という語彙は男の中になかったが、語感と文脈から読み取り、そして保留した。そんなことはどうでもいい。断じて。
「汗で服が引っ付くからのう、よもやそなたが来るとは思っておらんかったから、まあ、なんだ、……悪かったのう?」
口をパクパクさせていた男へ、数十世紀を生きた――過ごした女流は当然と高みから、気遣いを見せた。これ以上を刺激しないように、衣服を纏いながら。
「それで、なにか用か?」
しっかと、古代エジプトのままの質素なワンピースドレスを纏い、邪魔ったらしい金銀宝飾は散らかしたまま、男へ視線を向ける。
「え? うん……なんだったかな?」
男は錯乱状態だ(再掲)。しかし、さすがにすぐに、思い出す。
「そうだ。ついさっきここに入れた『異本』があるだろう?」
「うむ。それが必要なのか? 書架を案内しようか? のう?」
役に立てるのが嬉しいのか、やや前屈みに、女流は男へ疑問を重ねた。
「日本語はまだ難しくてのう、内容は把握できていないが、独特な黒い装丁だったのう。それに他のものとは違う、不思議な輝きを放っておった。あれは特別に良いものなのか、のう?」
まくしたてる女流。その言葉に男は、違和感を覚えた。
「え? 輝きを放っていた?」
頓狂な声を漏らす。
とにかく、男は錯乱状態だった(再再掲)。
*
それから、『雪女』を扱う上でのレクチャーをして、今回の作戦についても話した。男としては、特段の関係がない女流を巻き込むことに若干の気後れがあったが、控えめに要請したところ、ふたつ返事で了解が取れた。取れてしまった。
「……いいのか? ぶっちゃけ危険度は相当に高い。死……すら、覚悟させることになる」
「死? いまさらそんなものに恐怖などあろうはずもない。そもそもエジプト人の生死観なめるなよ」
なぜだか女流は胸を張った。「まあ、いまとなってはそんな狭い視野で世界を見ていないが」、と、付け足す。
「だいたい、いいかげん外に出たいぞ。この場所での司書ごっこも、もう飽きた」
頬を膨らませて抗議する。それでも、まんざらでもないような表情だった。
「司書ごっこって……いや、まあ、そんなもんか」
まあいい。と、男は言葉を飲み込んだ。一度言ったことを女流が覆すとも思えないが、気は遣っておくべきだろう。
男としては女流には、『箱庭図書館』のうちにいて、書架に収まる『異本』を管理してもらえるだけで有益だったのだ。暇な時間にかまけて、一冊でも『異本』を解読してもらえれば御の字だ。
まだ『異本』には、解明されていない大きな謎がある。それが解けない限り、現存する776冊の『異本』を蒐集し、封印しようが、また無限に、『異本』は生まれ、あるいは利用されるだろう。善用だろうが悪用だろうが、もう男は、『異本』の力を――その異能を、世にはばからせたくなかったのだ。
「とにかく、手伝ってくれるって言うなら是非もねえ。……じゃあ、とりあえず外に出るか」
そう言って、男は女流の手を引いた。しかし、動かない。
「どうした?」
「ん……。そうだのう」
なにかを考えるように、女流は顎に手を当てた。また、クエスチョンマークを掲げるように、首を捻って。
ややあって、なにかを企んだように楽しそうに、女流は笑った。
「いや、必要になったらそのときに呼べ。余は王らしく、格好よく登場したい、のう」
それに関して、いろいろと問答はあったが、最終的には男が折れた。その理由は多々あれど、その最たるは、これまでになく楽しそうに女流が、にひひ、と、笑っていたからだった。
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瞬間の、静寂。鼓動が、白い蒸気に変わり、真冬のモスクワに同化した。
「…………」
緩慢に、狂人は上体を持ち上げる。黙ったまま。
男と、目が合う。笑う。
「っっっはああぁぁあぁっひゃあぁ!!」
その、腰を降ろしたままの姿勢から、どう体を使ったのか。狂人は一瞬で姿を消し、男へと、問答無用に殴りかかっ――!!
「おおおおおおぉぉ――――!!」
弾き、飛ばされる。真正面から単調に、力任せに突っ込んだ狂人を、真正面から再度殴り、弾き、飛ばした。
男が。氷守薄が。
確かに、その一瞬、メイドと女流が、男の左右から狂人へ牽制――と呼ぶには、害意の強い割り込みを行った。それにより、ほんのわずかとはいえ狂人の意識を奪い、動きを阻害したのは確かだ。男としても、狂人は自分ごときには、無意味に隙や背後を突いたりせず、直線的に正面から突っ込んでくると予想はしていた。だから、動きは読めた、といえる。そういう要因は、いくつも重なっていた。それでも――。
あの男が、かの狂人に対して、真正面から打ち勝った。
「ノラを、解放しろ」
殴り飛ばすに使った右腕を、拳を、労わりながら男は言う。低く、強い、声で。
だから再度、狂人は上体を持ち上げた。男と目が合い、笑う。凄絶に。殺意を込めて。
「ああン……? 誰だっけ、てンめえ……?」
二度も、同じ行動には――攻撃には出なかった。だから、期せずして会話は成立する。
「……覚えてねえなら誰でもねえ。俺は、ただの、そのへんにいる一般人だ」
睨み下ろす目を逸らさないまま、男は言う。微塵も、気後れだけはしないまま。
「そうかよォ……。ンなら、それでもいい。解った、解ってっから……」
狂人は、酷い頭痛に苛まれた、その、歪んだ表情を隠すように頭を抱え、ぶつぶつ呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。
「殺してえンだろ? 俺を……。げひゃひゃひゃひゃひゃ……――!!」
楽しいように。嬉しいように、可笑しいように。徐々に笑いを高く上げ、狂人は、諸手を挙げて天を仰いだ。
「いいぜ……! 俺もちょうど、てめえを殺したくなったところだ――!!」
ふっ――と、唐突にスイッチが切り替わったかのように、狂人は笑いを止め、表情を引き締め――半身を引き、初めて、構えた。
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