箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

That day, and Days.

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 カウントダウンの終了から、男は五秒の時間をカウントアップする。それも、狂人に『凝葬ぎょうそう』を触れさせる時間を周知させるための、あえての発声だ。微細にまで念を入れている。
 が、そのカウントは不要であった。事実、男の声は『二』の発声を、言いかけて止めている。



 氷が、ほどける。砕け、融け、大気に還っていく。

 その蒸気を纏い、雫を滴らせて、細氷を払う。



 そうしてその少女は、自ら肢体を動かし、ひと月もの冷凍保存から、滞りなく復活した。



 周囲を一瞥する。自身の体を検分し、状況を――状態を理解した。
 現在地と、肌に触る空気、圧力、匂いなど。誰と誰がともにいて、どうしてそんな顔をしているのか。彼らの立ち位置、服装や挙動。この場に居るにおいて、どのような空気感を醸しているのか。そうして少女は、このひと月に起きたすべての事象を把握した。あるいは、その先まで。そのずっと、先まで。

 だから、ひとつ、息を吐く。過去への後悔か、未来への恐怖か。このひと月で手遅れになってしまったすべてのことに、一区切りをつけて。

「いまから、指示を出すわ」

 視線を男へ向けて止め、その場にいる全員へ、少女は言った。

        *

『凝葬』を放り出し、狂人を、青年を、女を、メイドを掻き分けて、男はとにかく、無意識に前へ――前へ進んだ。

「ノラああああぁぁぁぁ――――!!」

 両手を広げて、声を張り上げる。
 だから少女は嘆息して、少し頭を押さえた。

「話を――」

 男が広げた腕を一本掴み、少女は自身へ引き寄せるように、ぐいと力を入れる。

「聞きなさいっ!」

 背を向け、そこを滑らせるように、受け流し、転がす。一本背負いだ。そのまま見事に地面を転がり、先の壁にて、男は逆さまに足を広げ、止まった。
 ぱっぱっ、と、少女は両手を打ち付けて、払う。そして男は、身を広げて、逆さまのまま天を見上げ、笑った。

「はっ――あっはっはっはっはっは――――!!」

 目尻を濡らして、本当に可笑しいように、本当に嬉しいように、本当に安心したように、笑う。

「じゃあ改めて、指示を出すわね」

 男へ背を向けて、残りの彼らへ視線を巡らし、少女は変わらぬ様子で仕切り直した。

「もちょっとかまえよ!」

 男は立ち上がり、叫ぶ。

        *

 それから少女は本当に指示を出し始めた。小うるさい男を邪魔そうに見ながら。
 やや焦っているといってもいい。そういった様子だった。『異本』集めがひと月も滞ってしまっている。それに関する焦りが、汗のように体を滴る。まだ乾いていない、解氷の雫が。

 メイドの件でエディンバラに行った。それに関しては一週間ほどで解決させたが、それでも十分に、背筋が冷えるようなロスだった。であるのに、さらにひと月も。

 取り返しがつかなくなる。あの『異本』に、『彼』は指先を引っかけてしまっている。『本の虫シミ』とWBOの抗争は最終段階に到達した。それを少女は、氷漬けにされる前に得ていた情報と、いま目の前にいる者たちの姿から得られたすべてで、理解する。

        *

 少女はまず、この屋敷の主人である老人へ対面し、深々と頭を下げた。

「面倒を見てくれたこと、助力をいただけたこと、ありがとうございます、おじいさん」

 大人になったからなのか、別の理由からか、やけに他人行儀で馬鹿丁寧に、少女は言った。

「いやいや、これしきのこと。このおいぼれは、たいしたことなどしておりません」

 体調の問題か、語尾に咳き込み、やや青い顔で老人は答える。それでも柔和に笑い、老人特有の、子どもを安心させる表情を作りながら。
 その返答には沈黙で笑み、少女は、別の者の元へ進む。まだ、言うべき言葉は多くある。

「あなたはそのままでいいわ。でも、その臓腑の奥に秘めた願望は、表に出さないことね」

 すれ違いざまに、少女は老人にだけ聞こえる声で、そう、釘を刺した。その真意は、その言葉を聞きとれたたったひとりにしか、伝わらない。

 次へ行こう。



 対面するなり、少女は自然と、彼女を抱き締めた。

「ありがとう、ラグナ。よくやったわ」

 ひとまわりも違わない背丈で、少女は幼女を包み込む。誰に向けるよりも優しく、思い切り褒める声で、その鼓膜へ囁いた。

「ふあっ……へ? ……ええ??」

 幼女からしては意味が解らない。そもそも少女からは嫌われていると思っていた。そのうえ、先の戦いでは、結果こそ出したものの、自分勝手な行動にこっぴどく叱られたばかりである。

「あなたがいなかったら、この場には誰も帰ってこられなかった。わたしの大切な家族を、守ってくれてありがとう」

 体を離し、少女はにっこりと笑ってみせる。だからぼろぼろと、幼女は決壊したように泣き始めた。

「私は……でも……」

「ハクとメイちゃんの言ったことは気にしないで。あとでわたしが怒っておくわ」

「ずび……ノラさん……」

 涙を拭ってあげて、彼女から離れる。でも少女は、少しだけ首を傾げて、

「あ、なんなら『おねえちゃん』でもいいのよ?」

 と、訂正した。幼女は言葉に詰まるが、それを待つ余裕は、少しだけ足りない。

 次へ行こう。



 部屋の隅で、誰にも知られず、静かに泣いていた丁年へ、少女はやはり抱擁から始めた。

「ジンのこと、解ってるから」

 丁年にのみ聞こえる声で、囁く。

 そうじゃない。と、丁年は思った。しかし、少女に言われると、その感情がまた、頭をもたげてくる。だから涙の色を少し変えて、頷いておいた。少なくとも否定するようなことでもない。

「あとでハクに説明するの、あなたも手伝ってね」

 若者のこと、確かに、男へはまだ話していない。その『説明』なのだろう。丁年は納得する。体を離し、次へ行こうとする彼女へ、返答とは違う言葉を選んだ。

「ノラが無事で、よかった」

 すでに背を向けていた少女は、わずかに振り向き、少し笑った。

 次へ行こう。



「クロ」

 声を二段ほど下げて、少女は男の子へ詰め寄った。

「あなたまた危ないことに首を突っ込んだわね」

「あっちとこっちの調整をしただけだけど?」

 なんでもないふうに男の子は即答した。

「『異本』集めには関わらせないって、おかあさん言ったわよね?」

「今回はハクさんの手伝いをしただけで、『異本』集めは主目的とは違ったから。それに、ノラを助けるためにやったことだ。つまり、もとはといえばあんたが原因だろ」

 生意気な息子へ、少女はアイアンクローをかました。

「お・か・あ・さ・ん。でしょ?」

「うるせえノラ」

 少女のアイアンクローはレベルが1上がった。

「マ・マ?」

「ノ・ラ……」

 少女の顔面に麻痺の効果。少女は全身を震わせている。

「ぶん殴るわよ」

「ごめんなさいおかあさん」

「よし」

 満足気に少女は胸を張った。

 次へ行こう。



「お姉――」

「妹よおおおおぉぉ!!」

「……はいはい」

 むしろあやすように、少女は、力いっぱい抱き付いてきた姉の頭を優しく撫でた。

わらわ……妾は知らんかったのじゃぁぁ!! ノラがこんなことになっとると知っておれば、もっと早く……もっと……うええええぇぇん!! お姉ちゃん失格なのじゃ! いや、お姉ちゃんだけれども!!」

 どちらかというと現状の方が『お姉ちゃん』らしくない。少女はそう思ったが、話が進まなくなるので飲み込んだ。
 少女がこの場で、女へ言う言葉は、ただひとつ。

「死なないでね、お姉ちゃん」

 運命を、変えて。と、そう願う。わたしのこの目が見てしまった未来が、訪れませんように。そう心の中だけで、強く念じる。

「ふおおおおぉぉおう!! 愛い妹うぃもうとがっ! お姉ちゃんをっ! ご心配あそばされたぞっ!!」

「だめだこのお姉ちゃん、話聞いてねえ」

 少女は言って、躊躇う。でも、背を向けて、もうひとりへ。

「あ……ぼ、身共みどもは――」

「知ってるわ」

 狂乱状態の女には聞こえない。他の者たちからは距離を隔てている。それでも少女は身を寄せて、細心の注意を払って、その、青年の姿をした者へ、その内に寄生した少年へ、言う。

「元の世界へは、もう還れるわ。でも、この地を離れるまで『憑依』の才能は解除しないでいただける?」

 それじゃあ。と、返答を待たないままに、少女は青年から離れた。

 次へ行こう。



 ずんずんと進んで、仁王立ちにて止まる。腕を組み、足りない背丈を見上げ、口元をほころばせた。
 それは、許諾の合図。

「ノラ様……!!」

 どこか超越した態度に、メイドは思わず傅いた。

「ご無事でなによりです……。このアルゴ・バルトロメイ、謹んでお祝いを――」

「メイちゃん?」

「はっ!」

「あとでお仕置きね」

「えっ!?」

「あとでお仕置き」

「なぜです!?」

「お~し~お~きっ!」

「……ご随意に」

 満足そうに少女は、平伏するメイドの背に、腰を降ろした。重心を下げ、少しでも重く、のしかかるように。

「あと、ひとつお願いがあるの」

「……なんなりと」

「ま、……あとでね」

 少女はメイドの、マーガレットを解いた髪を梳き、立ち上がった。

 少女は、まだ、少女だ。まだ、子どもだ。歳を取り、嫁となり、子を持っても、まだまだ子どもだ。少女――ノラ・ヴィートエントゥーセンがいまだ姿でいるのには、そういう、心底からの願いがあるからだ。

 だからまだ、お父さんはあげない。

 最後に、その父のもとへ、行こう。

        *

「……おつかれ」

 少女は言った。うなだれる男の後頭部へ。

「ああ、まあ、……よかったよ、おまえが無事で」

 男は言う。心の底からの安堵を。

 頼りないなあ。と、少女は思う。でも、だからこそだ。だからこそ、彼がどれだけの覚悟と、どれだけの精いっぱいで自分を思ってくれていたか――思ってくれているか、解ってしまう。

 頭に刻まれた『異本』などなくとも、そんなことは当然と、知れてしまう。

「ネロのことだけれど」

 しゃがみこんで、少女は言った。その言葉に男もようやく、頭を上げる。目が、合う。翠玉のように美しい、その緑眼と。

「あなたの考えている通りでいいと思うわ。わたしもそれが、いいと思うの」

 すべてを見透かして、少女は赦した。
 それでいいと。それが正しいと。あなたは間違っていないと。そう。言う。

「そうか……」

 安堵したように、男は肩を落とす。身を起こし、後ろによろめく。腰を落として、床に座り込んだ。

 もう一度、目が合う。

「んで、俺にはどんな指示があるんだ? ……それがどんな罵声とともに振り降ろされるんだ?」

 嘆息して、男は言った。まだ、立ち上がらない。彼女の言葉を聞くまでは、このままがいいだろう。だってまだ、うなだれる可能性は残っているのだから。

「ん……そうね」

 少女は考え込むように少し、中空へ視線を泳がせた。

 少しの沈黙。静寂。そしてぱっと明るくなる表情に、いたずらに落ちる目尻。

 身を寄せて、抱き付く。抱き締めるのではなく、抱き付く。甘えるように。あなたに守られているのだと、教えるように。



「ありがとう。大好き。可愛いわたしの、素敵なお父さん」



 触れれば、壊れるものだと思っていた。一度、完全に砕け散ったグラスを、接着剤なしですべて組み上げたような。そんなふうに思っていたから、触れなかった。
 そんな少女の、美しい銀髪に、触れる。頭部に。その、血の通った熱に。そこに在る命に。

「ノラ――っ!!」

 抱き締めることは、まだできなかった。それでもその体温に、男は、これまでに出会った中で、もっとも暖かな温もりを思い出す。

 あの、凍える世界に灯った、小さな明かりを。父親と呼べる存在と、姉や、兄と呼べる存在と、出会ったその日を。

 それから、ここまで歩んだ時間の重みが、ここから、少女と出会ったあの日に戻って、重なる。自分が成長するにつれ培ってきた感情を、彼女も、同じように育んできたのかと、そう、感じて。



 瞼を、落とすと。



 少しだけ、涙が、零れた。


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