箱庭物語

晴羽照尊

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ヤップ編

隔世遺伝B‐2

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 海原へ、飛び込む。母なる海。あらゆる生物の源。ゆえに、人間やあらゆる生物よりもよほど容易に、すべてを安易に、その腹に飲み込む。その心の、奥底まで。

 水泡が浮かぶ方向で、天地を把握する。同時に水に飛び込み、男と少女は、同時に顔を見合わせた。こんな感じなのね。澄ました顔で少女は目配せする。こんな感じなんだな。頬を膨らませて、男は同じ感想を返した。

 水中に落ちた感触はある。全身を冷たい水が覆う感覚。しかし、意を決して呼吸をしてみると、肺を巡るはまさしく、空気である。海上にいたときよりかはやや冷たい気はするが、普通の空気だ。地上で息をするのと変わらない。

 だが、――静かだ。船上にいたときは、特にギャルがいたからうるさかった。周囲に他人のいない海上といえど、ギャルがいたから、あるいは家族がいたから、とてもうるさかった。普通の雑踏と変わらない。
 しかし、海の中はさすがに静かだ。水中にも音は伝搬する、が、そもそも海中には、音を発する生物が少ない。有名な例では、クジラが遠く離れた仲間とコミュニケーションを取るために鳴き声を発するらしいが、やはり稀な事象である。
 深夜、ひとり暗い部屋にまどろむような、静寂。両耳を押さえたように、自らの鼓動がやけに近く聞こえる。

 ぴとり。と、静寂ゆえに音すら聞こえそうな感触で、男は我に返った。冷たい海の中での、穏やかな温もり。
 見ると、少女が男の手を掴み、細い目をしていた。空気の膜に包まれているとはいえ水中だからかとも思えたが、どうやら言いたいことがあるらしい。瞬間、口を開いて、閉じる。話すのは最低限にと思い至って、少女は親指を立てた拳を男へ向けた。そしてそのまま、それを逆さに引っくり返す。

「…………」

 悪意ある表現かと一瞬、思ったが、そのまま腕を引き、少女は潜降する。とっとと行くわよ。の、合図だったらしい。

        *

 10メートル突破。所要時間は水中に慣れる時間を含めて、やや長く、五分弱だ。

 5メートルを過ぎたころから、ちらちらとマンタの泳ぐ姿が散見されたが、10メートル前後でさらに倍増。多くのマンタが群れをなして、一匹を複数匹が追いかけるように泳ぐ姿が絶景だった。なぜだかその様子を見て少女が頬をわずかに染めていたけれど、まあそれはいいだろう。

 30メートルに達するころにはマンタはおらず、今度は鮫が多く分布していた。とはいえ、体長1.5メートル程度のもので、さほどの脅威もない。そもそも襲ってくる様子もなく、近くを泳いでも無視するかのように、ただただ自由に、悠々自適に泳いでいた。

 そもそも鮫は警戒心が強く、臆病な生き物だ。人間が襲われる事件も、ないでもないが、世間で思われているよりもよほど稀有な事件である。まだ落雷で命を落とす人間の方が多いくらいだ。そんな鮫に襲われる場合には、やはり原因があるものだ。むやみにこちらから彼らのテリトリーを侵したり、攻撃したりしない限り、問題ない。
 また、鮫の中にも気性の荒い種とそうでない種が存在する。特に危ないのが、ホオジロザメやイタチザメ、オオメジロザメ等の大型の種。これに対して、ヤップ近海で見られるのはオグロメジロザメ、ツマグロ、そしてネムリブカあたりが多いので、比較的小型のものが多い傾向にある。
 ともあれ、変に刺激しなければ大丈夫だ。そもそもダイビングスーツを着込んだ人間は、彼らの目には、他の生物とそう変わらず見える。やはり特別に彼らを刺激しなければそうそう危険なことはない。

 そうこうして、数々の海中生物に目を奪われながらも、とうとう深度100メートルまで到達した。

        *

 海中、深度100メートル。まだ光は届くが、それでもだいぶ暗く、そして、だいぶ水温も下がってきた。だがまだどちらも許容範囲である。
 もうこのあたりから、見知った海中生物など少なくなってくる。じわじわと視界も悪くなり、じっくりと体も冷えていった。少女がヘッドライトを点けるので、男も倣う。思っていた以上に照らし出せる範囲が狭いので、必然に首をよく動かすことになる。そしてその作業に必死になるから、ふたりとも互いを気にすることも少なくなり、ただ黙々と潜降を続けた。

 深度200メートル。厳密な定義はないが、一般に、ここからが深海と呼ばれる。太陽光がもはやほぼ届かず、暗黒の空間である。少女にとっては問題ないが、男の目には視界が覚束なく、予備の懐中電灯をも取り出した。予備とはいえ、ヘッドライトともども、充電は完璧だ。制限時間の二時間はもとより、六時間は連続稼働が可能である。この時点で、経過時間は15分。残り、105分である。

 ――――――――

「アリス・L・シャルウィッチさん」

 数々の決めポーズやセリフとともに、幼女や女の子とじゃれていたギャルへ、こっそりと影薄く近付き、男の子は話しかけた。

「うにぃ? どったの? クロくん?」

 まだ興奮冷めやらない幼女や女の子を制止し、男の子へ向き直る。それが彼のニュートラルでもあるのだろうが、やや真剣そうな面持ちに、気構えして。

「あなたハクさんが好きなんですね」

 直球だった。

「おーおー。ませたことを言い出すお子さんだにゃあ」

 特段に照れも焦りもせず、余裕そうにギャルは応える。彼女は別段、自身の感情に恥じるところも負い目もないが、保護者のいない現状でお子様に、どうこの気持ちを言語化するべきか少しだけ迷った。
 ギャルにも、男の子の頭の中にある『異本』の欠片については、伝えられている。とはいえ、情操教育はかの『異本』の埒外だろう。そう、彼女は珍しく、気を遣って。

「そだねぇ。……好きだよ。大好き。愛してる。……世界の誰よりもあの人が好きだし、愛してるって自信がある」

 にゃはは……。と、真剣な言い方になってしまって、さすがに照れた。気を遣おうと、取り繕おうと、結局、そうとしか言えない。それは誰にも――自分自身にすら偽ることのできない、決まりきった感情だったから。
 で、それがどしたの? ギャルはそう、首を傾げて男の子を見る。こちらを見透かそうとする瞳。真っ黒に、漆黒に、どこか底のない沼のように深淵と窪む、瞳に向き合って。
 それでもやはりどこかあどけない男の子の幼さを感じ取るから、無警戒に。

「……ハクさんって男性同性愛者ゲイなの?」

「うわお! なんなのさ、急に!」

 虚を突かれた。すこしのけぞって、ギャルは甲板に尻餅をついてしまった。

「いや、あんなアプローチしてるのに、ぜんぜん相手にされてないから」

「マジかよ! 子どもって怖ぇ! 辛辣!」

 冗談めかしてうなだれるが、傷口を抉られるような一撃だった。そんなこと、ずっとずっとずっとずっと、自らが理解してきていたから、なおのこと。

「……で、どうなんですか?」

「……違うと思うけど。つーか、あたし的にはそうであって欲しくない、かにゃぁ……」

 そうであったなら、さらに自分に脈がなくなることになる。いやしかし、男の子の言葉通り、これだけやってぜんぜん相手にされないダメージもでかい。仮に男がゲイなら、そのダメージについては少しだけ、救いが見出されるとも言える。
 いや、そんな救いならまったく、いらねぇんだけど。と、ギャルは思い直した。

「つかクロくんさぁ。べつにかしこまらなくてもいいんだよ? おねーさんだと思ってさ、気楽に接して欲しいにゃぁ」

 意趣返し、というか、そこまで言われたなら、これくらい言ってもいいだろうという判断だ。そして、話題を変えようという魂胆でもある。ちょっと無理して作った苦笑いを向けて、うなだれた低所から男の子を見上げる。

「解った。おばさん」

「……まあ、あたしはおばさんだよにゃぁ。うん。間違ってねぇ」

 それに怒りを覚えるほど、ギャルも若くない。むしろそれより、素直に態度を軟化してくれたことの方が嬉しく感じた。だから、気を取り直して立ち上がる。

「さ、話は終わり! クロくんもレインボーごっこ、やるぅ? 男の子はクロくんだけだから、ダブル主人公の男役、蓮条れんじょう彩人あやとくん役をやらせてあげよう!」

 笑顔を取り戻し、手を差し出した。男の子はその手のひらを見つめ、嘆息する。

「興味ないし、しない」

 ぷい、と、背を向けてしまう。まあ、そうだよにゃあ。と、落胆ではないがギャルはちょっと、首を傾げた。

「あのさ――」

 男の子が言いかける。

「クロ……、やろ?」

 それを制し、女の子が男の子の手を掴む。同い年だというのによっぽど、幼すぎる挙動と言葉で。だから、男の子は嫌そうな顔をした。自分より幼い、というのは、一種の暴力だ。断りづらいことこの上ない。と、思って。

「クロくぅん?」

 だからギャルも追随する。子どもたちを仲よく遊ばせるのも、監督者の務めだと、なかば義務的に。

「……やらない」

 舌打ちをしようと思って、すんでで耐えた。ギャルはともかく、女の子の気分を害する。

「ちょっとお仕事あるから。シロ、遊んどいで」

 優しくたしなめ、手を離させる。女の子は「あ~い」と、しぶしぶ腕を離した。
 さて。と、男の子は改めて、背を向ける。お仕事があるのは本当だ。男と少女に巻き付けたロープを見張っておきたい。万一にも切れたりしたら問題である。

「…………」

 言いそびれてしまったが、まあ、余計なお世話だろう。『がんばれ』、なんて。そう思って、振り返る。

「まあ、おれはどっちでもいいんだけどな」

 男とギャルがどうなろうと。その結果、少女がどう思おうと。べつに。


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