箱庭物語

晴羽照尊

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ヤップ編

空気のように必然と、そこにあるもの。

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「わたしの方の空気はまだ残っていたから、それを渡しただけ。あなた、自分じゃ気付いていなかったようだけれど、感情の揺れや、体力の消費で、けっこう無駄に空気を消費してたのよ」

 少女は言った。言い訳のように、口早に。

「こっちの空気層に顔を寄せる方法も考えたけれどね。あの空気の層、そう簡単に外部の物体を通過させられないようにできていたから、ああやって、……やらなきゃ無理そうだったの。舌まで使わなきゃ、うまくいかなくて……感謝するのね!」

 ずびしっ! と、指を突き付ける。あまり気にしていない様子で話していたのだが、さすがに最後には、少し照れたように顔を赤らめて。

「……悪かったな。んで、ありがとう」

 男は言った。無理言って着いて行ったというのに、なにも役に立てず、足を引っ張るばかりだ。

 改めて、少女の有能さに打ちのめされる。親として、彼女を支えたいと思うのに、それは決して容易にいかない。

「海底での判断も褒められたものじゃないわね。可愛いわたしが帰りなさいって言ったら、帰るのが一番いいに決まっているでしょう? わたしはあなたの空気が足りないことを見越して、先に帰るように指示したの。ちゃんと意味があるんだから、ちゃんと従いなさいよね」

「いやでも、あんな状態でおまえを置いて帰れないだろ」

「その気持ちは嬉しいけれど、今後はもっと素直に聞き入れなさい。今回はなんとかなったけれど、そんなことばっかりするなら、いつか死ぬわよ」

「まあ、善処するよ」

 俯き、男は答える。

 夜の、ヤップの海岸だ。人類に穢されていない、白い砂浜。青い海に、浮かぶ、満月。明日には一度、ワンガヌイに戻る予定であるが、その晩は、クルーザーにて一泊だ。ちなみに、男と少女以外はすでに床に就いた。いまはふたりだけでの反省会である。

「そういえば、海底で合流してから浮上するとき、『ゆっくりね』って言ってたのはなんだったんだ? 確か、急浮上による体への負荷は、無視できるって話だったよな?」

 思い出して、男は問う。少女の言うことだ、間違いはないのだろうが、あそこでもっと急いだ浮上を行えていたら、男の側の空気も足りていたのではないだろうか?

「あなた、あのおばさんのことをどう信頼しているか知らないけれど、その情報を真に受け過ぎよ。確かにこの、可愛いわたしが検分したところにおいてもあの魔法は、それなりの効果を発揮していたけれど、それも完璧じゃなかった。そもそもあのおばさん自身、ある程度の深さまでは過去に実用した経験があったのでしょうけれど、よもや深海1000メートルまで検証したわけでもないでしょうに、軽率なのよ」

 それゆえに、少女は男のBCジャケットを調節し、男の体に害にならないギリギリでゆっくり、それでいて可能な限りに急いで浮上した。それでも結局、男の空気は足りなくなったわけであるが。

 男は、頭を掻いて、ただ反省した。本当に、準備も、知識も、心構えも足りていない。状況判断も、なにもかも。

 そんな男を見て、少女は優しく微笑む。あなたは間違った。そう、心でもう一度叱る。でも、たったひとつだけ、男は正解を選んでいた。そしてそれは、少女にとって、これまでの失敗を帳消しにして、なおおつりがくるほどの選択に感じられた。

 だが、まだそれを言うにはまだ、むず痒い。それに、ついでにいくつか、話しておくこともあった。ずっとずっと、本当にずっと忙しなかったから、いろいろと話すことが溜まっている。

 少女はうなだれた男の膝に手を置き、それらを消化しようと、口を開いた。

        *

「戻ったら、ジンの墓を建てましょう」

 少女はそう言った。すでに彼が亡くなり、ひと月以上も経過している。いろんなことがあったとはいえ、遅すぎだ。問題は、本来それを、もっとも率先してするべき者たちが、こぞって別のことをしていること。彼の、彼女たちの考えも気持ちも解らないでもないが、先にやるべきはそっちだろう、と、少女は少し憤っていた。

 特に、あいつはなにやってんのよ。と、一点、無性に苛立っていることがあった。

「そうだな」

 と、男は答える。少女のようにまっとうな感情を、実は男は抱いていなかった。もちろん、兄と呼ぶべき若者の死については、悲しみも、憤りもあったが、彼がそこで一番に考えていたことは、EBNAでのこと。そこで出会った、『神』のごとき存在、ムウ。彼が言った『家族を殺すだろう』という言葉。
 男はそれに対して冗談めかして、『殺すのは若者のことだろうか?』などと言ってみたけれど、正直、それは他の選択肢と比べる以上においては、まっとうな考え方だった。若者――稲雷いならいじんは、なにを考えているのか――いたのか解らない男だった。場合によっては敵対するような行動もとってきた彼だ。その掴めぬ性格から、本当に腹の底はまったく知れず、ゆえに敵となってもおかしくはなかったのである。よもやそれで本当に殺すほどの感情を抱くかは疑問が強いが、それでも他の家族を殺害するよりはよほど、可能性が高く感じていた。

 その若者が、死んだ。いや、殺されたのか。ともあれ、自らの手ではなく、別の要因で死んだ。そうなるといったい、俺は誰を殺すんだ? そう、考えてしまったのである。

 もちろん、ムウの予言自体が外れるということも多分にあるだろう。彼自身、それは回避しうるもののように言っていたし。しかし、それでも男の心には、またひとつ謎が大きく蔓延り始めたのである。

「『先生』と一緒に、この中に作ろうぜ。あいつも、それが本望だろ」

 男は言って、『箱庭図書館』を掲げる。海水にまみれ、少し劣化した様相の、その一冊を。

「……そうかもね」

 少女は言った。悲しそうではあるけれど、なぜだか、どこか羨ましそうな表情で。

        *

「おまえさ。ヤフユがどこでどうなってるか、だいたい解ってんだろ?」

 次は男から口を開く。彼の話になると少女は、常に不機嫌だった。だからあまり、少女が復活してからその話はできていなかったが、もういいかげん、それをも解決しなければいけない時期だろう。

「ヤフユ? そんなやつは知らないわ」

 少女は言った。やはり不機嫌そうに。ひとつ、嘆息を挟む。

「……でも、そうね。ハクもそろそろ、『本の虫シミ』と決着をつける時期じゃない?」

「決着? なんだそりゃ?」

 男はとぼける。いや、それは、自分自身をも騙したいという感情からの言葉だった。

 タギー・バクルド。彼との友好もある。ギャルだってその組織には所属している。あの金髪の優男だって、いまでは憎からず思っているとすら言えるだろう。そんな『本の虫シミ』とは、いまとなっては敵対などしたくない。できれば穏便に、その持つ『異本』を譲り受けたいと思っている。

 だが、きっとそれは無理なのだろう。そうも思う。かの組織は『異本』を信仰している。ある意味では現状、その信仰対象は『女神さま』とやらに移っているようでもあるらしいが、それでももともとは、『異本』を崇め、奉っていた組織だ。男との友好が少しばかりあろうと、どんなに金を積もうと、きっと彼らはそれを手放さない。少なくとも、数人は手放さないだろう人間を知っている。なら、最低限の衝突は避けられない。男が――男たちが、『異本』を蒐集しようと思う以上は。

「『雪女』を借り続けるのも、もう限界でしょう。どうせそれを返しに行くなら、……そうね、可愛いわたしが、着いて行ってあげなくもないわ」

 少女を救うために借り受けた『異本』、『白鬼夜行びゃっきやこう 雪女之書』。それを引き合いに出して、少女は言った。その組織の最後の一角、インド、コルカタの施設に、誰だかは忘れたけれどどっかの誰かがいる、ということも、理解していたから。

 だがしかし、その先の『女神さま』とやらが何者なのかは、少女をもってしても把握できていないのが不気味ではあったが。

 だが、まあ、そろそろ行くしかないのだろう。そう、思う。気乗りはしないが。

「ああ、頼むよ。おまえが着いてきてくれるなら、心強い」

 そんな少女の気持ちなどには気付いていないが、男は、少女が、自分のことを理由にしようとしていることくらいには気付いて、答えた。

 男も、そろそろ行くしかないのだろう。そう、思ったから。気乗りはしないままに。


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