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コルカタ編 序章
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2027年、二月。インド、コルカタ。
東インド最大の都市、コルカタ。インド全土の都市群の中でも、特別に生活臭の強い、多民族を内包して、車、バス、人力車が犇めき、さらには犬、牛、カラスまでもが混沌と入り乱れる、雑多な街である。
溢れかえる、人と獣の臭い。飛び交う声とクラクション。旅行者にたかる売り子や物乞い。あるいは、案内をしようと言い寄ってくる人々。よくこれだけ積極的に粘り強くたかりにこられるのかと感心してしまうほどの活気に、わずかな金銭ならくれてやってもいいと思ってしまうが、そんなことを一度でもしてしまうと後が大変だ。カモれる旅行者と見れば彼らは大挙して押し寄せてくる。
ともかく、そんな騒がしい通りを、一行は人混みに流されないように纏まって歩いた。『チョウロンギ通り』。そこは、コルカタ一の繁華街である。
「あいっかわらず騒がしいな、ここは」
ひとり言にしては声高に、男が言った。
身なりの良い黒いスーツに、なぜだか古ぼけた茶色いコートを纏って、これでは身分の良し悪しが解らない。うねる黒髪もまとまりがなく、わずかに無精髭も見て取れる。それをボルサリーノで無理矢理に押さえ付け、その影で細めた目を周囲に向けている。その姿になにを感じているかはともかく、他の観光客に比べて彼の元へは、売り子も物乞いもあまり近付けないでいた。
「来たことあるの? ハク」
その男に手を引かれ、幼女が問う。彼女よりさらに小さい、花売りの子どもたちに困り顔で対応しながら。
快晴の青空を思わせる、美しいスカイブルーのロングヘア。あどけない十四歳の表情。元メイド――というより、正式にメイドとなるための教育を受けていた彼女であるが、とうにその衣装は捨て去っている。とはいえ、もともと着ていた彼女の、コスプレにも近いメイド服――そういうファッションが好みであったのは変わりないようで、自身の髪色と合わせた、スカイブルーのロリータファッションに身を包んでいた。フリルの多くあしらわれた、丈の長いワンピースである。彼女としては、もう少し丈の短いものがよかったのだが、インドであまり肌を露出するのは躊躇われた。というより、男と少女に止められたのだ。
「昔――ちょっと前にな。なんだかんだと、一年ほどいたか」
「そなたにはお似合いの姦しさだのう」
言う黒肌の女流は、寄ってくる者どもを険しい顔で追い払い、ついでに、幼女の元へ寄ってきていた子どもたちには笑顔を向けて、その美貌で竦ませてしまった。
ほぼ、全裸である――という事実に関しては、おそらく周囲からは気付かれていない。せいぜい、やけに独創的に、艶めかしい美人だ、としか思われていないだろう。
民族衣装、サリー。といえば聞こえはいいが、その実、ただの長い一枚布である。幅一メートル、長さ五、六メートルのその布を、一般的には、チョリと呼ばれる、ブラウスとペチコートの上から巻き、着付ける。で、あるはずなのに、この女流は、チョリを着ることを面倒臭がり、素肌にサリーを適当に巻き付け着こなしてしまった。さすがに生地の厚さや覆える範囲が足りなかったゆえに、二枚のサリーを重ね巻きしている。鮮やかな、赤と橙。近しい色合いでありながら、それぞれ別個に目を引く彩色と、彼女本来の肌色である黒肌とのコントラストが、なぜだか艶めかしさを演出する。そもそも、重ね着をしているとはいえ肌着がないのだ。サリーの着方には地域や世代によりまさしく十人十色ある。が、彼女ほどの若く、美貌溢れる女性が、背中まで大きく開け広げて肌を露出し、挑発的にサリーを着こなすなど前代未聞である。
「そうだな。おまえも見事に、この街に溶け込んでるぜ」
男は言った。悪態をつきながらもやけにニコニコと、男の手を両手で握って歩く女流に、辟易しながら。
幼女には肌の露出について強く言い聞かせた男ではあるが、さすがにいい大人である女流にまで文句を言うことは躊躇われた。ゆえに、こんなふざけたファッションが完成してしまったのである。その責任を男は感じていた。その着付けを手伝ったという事実もあるから、余計に。
「そうであろう、そうであろう! わっはっはっは!」
なぜだか嬉しそうに、女流は呵々大笑した。そのおかげで、売り子も物乞いも、少しだけ委縮し、離れた。
褒めてねえんだけどな。という言葉を、男は飲み込んで、少しだけ街を見回した。二月だというのに、気温は二十度を下回ることもなく、三十度を越すこともある。が、湿度も低く、過ごしやすい気候だ。それゆえにか、客呼びの声にも覇気が強い。国際色豊かなメインストリート。その乱雑な装いは、まるでこの内だけで世界を完結させたような調和と、混沌が入り乱れていた。
この世界を構成する要素をすべて、無理矢理、敷き詰めたような、あまりに雑多な、箱庭だ。
「……ん?」
その視界に、足りていない要素が、ひとつ。それに男は気付き、立ち止まる。
「ノラはどこだ?」
*
が、すぐに発見する。
「ハク。こっち」
見ると、唯一身軽にひとり先を歩いていた少女が、ひとつの露店の前で、いつのまにかチャイを飲んでいた。
安堵してから、ほんのわずかに憤慨する。そうして少しだけ足早に、男は少女の元へ歩み寄った。
「勝手に先に行くな。迷子になるだろ」
「ハクが?」
「…………」
確かに、そちらの方が可能性としては高い。そう思い至って、男は黙った。その隙に、少女が素焼きのカップを差し出す。チャイの入ったそれを、男は受け取ろうとした。が、両手には花が抱えられていて、塞がっている。
「おう、気が利くのう、ノラ」
女流が横から奪い取った。そして、一気に飲み干す。確かに内容量は、決して多いとは言えないが、甘く味付られた飲料である、そう一気に飲むものでもないだろうに。
「ほら、ラグナも」
「あ、うん。……ありがとう、おねえちゃん」
少しだけ戸惑い、幼女も受け取る。もちろん、彼女は豪快に一気飲みなどしやしない。小さなカップを両手で抱え込み、ちびりと一口、含む。すると、初めて訪れる異国での緊張などが、するすると解けて、肩が落ち、口元がほころんだ。
「甘い。おいしい」
ほっこりと、笑う。良くも悪くも、賑々しく雑多な街、コルカタだ。気の張りようも、他国、他地域とはまた別段だったろう。
「だいじょうぶよ、慣れれば楽しい街だから」
そんな内心を推し量って、少女は笑った。
「おねえちゃんも来たことあるの?」
もしかしたら、男と一緒に滞在したのかもしれない。そう思って、幼女は問う。
「ちょっとごたごたしちゃってね、ひと月ほどいたわ」
苦い顔で、少女は言った。
その返答に、なぜだか幼女は安心する。その理由を、理解できないままに。
少女は、白い肌に繊細な銀髪が美しく煌めく、端正に整った造形をしていた。すべてのパーツが、可愛い彼女の一部であることを理解しているように、自ずと秩序だって組み上げられている。確かに、人体自体が多くの黄金比を内包して組み上がっているのだが、彼女のそれは度を越している。ともすれば、雑多にごった返すチョウロンギ通りを見渡しても、一目で彼女を見付けられるくらい、その存在感は際立っていた。
白いワンピースは、土地柄に合わせたのか袖も丈も長いものを身に着け、肌を隠している。それでも、淡白にならないように、アクセントとして、首元には翡翠で造られたペンダントと、左手の薬指には、プラチナのリングが――。
「あれ、おまえ、指輪はどうした? あとペンダント――」
男は気付いて、なんの気なしに問うた。そりゃアクセサリーだ、外すこともあるだろう。しかし、そのふたつは、夫である紳士との思い入れある品であったはずだ。少なくとも指輪に関しては――実はちゃんと確認はしていないが、結婚指輪なのだろうし。
それに、ぴくりと身を震わせ、口元も歪ませ、少女は男を、睨み上げる。
「なんの話か解らないわ」
ん。と、勢いをつけて、男へチャイを差し出す。その勢いで半分ほど内溶液が零れ落ちたが、鋭く尖らせた宝石のような緑眼を見ると、男はもうなにも、言う気にはなれなかった。
東インド最大の都市、コルカタ。インド全土の都市群の中でも、特別に生活臭の強い、多民族を内包して、車、バス、人力車が犇めき、さらには犬、牛、カラスまでもが混沌と入り乱れる、雑多な街である。
溢れかえる、人と獣の臭い。飛び交う声とクラクション。旅行者にたかる売り子や物乞い。あるいは、案内をしようと言い寄ってくる人々。よくこれだけ積極的に粘り強くたかりにこられるのかと感心してしまうほどの活気に、わずかな金銭ならくれてやってもいいと思ってしまうが、そんなことを一度でもしてしまうと後が大変だ。カモれる旅行者と見れば彼らは大挙して押し寄せてくる。
ともかく、そんな騒がしい通りを、一行は人混みに流されないように纏まって歩いた。『チョウロンギ通り』。そこは、コルカタ一の繁華街である。
「あいっかわらず騒がしいな、ここは」
ひとり言にしては声高に、男が言った。
身なりの良い黒いスーツに、なぜだか古ぼけた茶色いコートを纏って、これでは身分の良し悪しが解らない。うねる黒髪もまとまりがなく、わずかに無精髭も見て取れる。それをボルサリーノで無理矢理に押さえ付け、その影で細めた目を周囲に向けている。その姿になにを感じているかはともかく、他の観光客に比べて彼の元へは、売り子も物乞いもあまり近付けないでいた。
「来たことあるの? ハク」
その男に手を引かれ、幼女が問う。彼女よりさらに小さい、花売りの子どもたちに困り顔で対応しながら。
快晴の青空を思わせる、美しいスカイブルーのロングヘア。あどけない十四歳の表情。元メイド――というより、正式にメイドとなるための教育を受けていた彼女であるが、とうにその衣装は捨て去っている。とはいえ、もともと着ていた彼女の、コスプレにも近いメイド服――そういうファッションが好みであったのは変わりないようで、自身の髪色と合わせた、スカイブルーのロリータファッションに身を包んでいた。フリルの多くあしらわれた、丈の長いワンピースである。彼女としては、もう少し丈の短いものがよかったのだが、インドであまり肌を露出するのは躊躇われた。というより、男と少女に止められたのだ。
「昔――ちょっと前にな。なんだかんだと、一年ほどいたか」
「そなたにはお似合いの姦しさだのう」
言う黒肌の女流は、寄ってくる者どもを険しい顔で追い払い、ついでに、幼女の元へ寄ってきていた子どもたちには笑顔を向けて、その美貌で竦ませてしまった。
ほぼ、全裸である――という事実に関しては、おそらく周囲からは気付かれていない。せいぜい、やけに独創的に、艶めかしい美人だ、としか思われていないだろう。
民族衣装、サリー。といえば聞こえはいいが、その実、ただの長い一枚布である。幅一メートル、長さ五、六メートルのその布を、一般的には、チョリと呼ばれる、ブラウスとペチコートの上から巻き、着付ける。で、あるはずなのに、この女流は、チョリを着ることを面倒臭がり、素肌にサリーを適当に巻き付け着こなしてしまった。さすがに生地の厚さや覆える範囲が足りなかったゆえに、二枚のサリーを重ね巻きしている。鮮やかな、赤と橙。近しい色合いでありながら、それぞれ別個に目を引く彩色と、彼女本来の肌色である黒肌とのコントラストが、なぜだか艶めかしさを演出する。そもそも、重ね着をしているとはいえ肌着がないのだ。サリーの着方には地域や世代によりまさしく十人十色ある。が、彼女ほどの若く、美貌溢れる女性が、背中まで大きく開け広げて肌を露出し、挑発的にサリーを着こなすなど前代未聞である。
「そうだな。おまえも見事に、この街に溶け込んでるぜ」
男は言った。悪態をつきながらもやけにニコニコと、男の手を両手で握って歩く女流に、辟易しながら。
幼女には肌の露出について強く言い聞かせた男ではあるが、さすがにいい大人である女流にまで文句を言うことは躊躇われた。ゆえに、こんなふざけたファッションが完成してしまったのである。その責任を男は感じていた。その着付けを手伝ったという事実もあるから、余計に。
「そうであろう、そうであろう! わっはっはっは!」
なぜだか嬉しそうに、女流は呵々大笑した。そのおかげで、売り子も物乞いも、少しだけ委縮し、離れた。
褒めてねえんだけどな。という言葉を、男は飲み込んで、少しだけ街を見回した。二月だというのに、気温は二十度を下回ることもなく、三十度を越すこともある。が、湿度も低く、過ごしやすい気候だ。それゆえにか、客呼びの声にも覇気が強い。国際色豊かなメインストリート。その乱雑な装いは、まるでこの内だけで世界を完結させたような調和と、混沌が入り乱れていた。
この世界を構成する要素をすべて、無理矢理、敷き詰めたような、あまりに雑多な、箱庭だ。
「……ん?」
その視界に、足りていない要素が、ひとつ。それに男は気付き、立ち止まる。
「ノラはどこだ?」
*
が、すぐに発見する。
「ハク。こっち」
見ると、唯一身軽にひとり先を歩いていた少女が、ひとつの露店の前で、いつのまにかチャイを飲んでいた。
安堵してから、ほんのわずかに憤慨する。そうして少しだけ足早に、男は少女の元へ歩み寄った。
「勝手に先に行くな。迷子になるだろ」
「ハクが?」
「…………」
確かに、そちらの方が可能性としては高い。そう思い至って、男は黙った。その隙に、少女が素焼きのカップを差し出す。チャイの入ったそれを、男は受け取ろうとした。が、両手には花が抱えられていて、塞がっている。
「おう、気が利くのう、ノラ」
女流が横から奪い取った。そして、一気に飲み干す。確かに内容量は、決して多いとは言えないが、甘く味付られた飲料である、そう一気に飲むものでもないだろうに。
「ほら、ラグナも」
「あ、うん。……ありがとう、おねえちゃん」
少しだけ戸惑い、幼女も受け取る。もちろん、彼女は豪快に一気飲みなどしやしない。小さなカップを両手で抱え込み、ちびりと一口、含む。すると、初めて訪れる異国での緊張などが、するすると解けて、肩が落ち、口元がほころんだ。
「甘い。おいしい」
ほっこりと、笑う。良くも悪くも、賑々しく雑多な街、コルカタだ。気の張りようも、他国、他地域とはまた別段だったろう。
「だいじょうぶよ、慣れれば楽しい街だから」
そんな内心を推し量って、少女は笑った。
「おねえちゃんも来たことあるの?」
もしかしたら、男と一緒に滞在したのかもしれない。そう思って、幼女は問う。
「ちょっとごたごたしちゃってね、ひと月ほどいたわ」
苦い顔で、少女は言った。
その返答に、なぜだか幼女は安心する。その理由を、理解できないままに。
少女は、白い肌に繊細な銀髪が美しく煌めく、端正に整った造形をしていた。すべてのパーツが、可愛い彼女の一部であることを理解しているように、自ずと秩序だって組み上げられている。確かに、人体自体が多くの黄金比を内包して組み上がっているのだが、彼女のそれは度を越している。ともすれば、雑多にごった返すチョウロンギ通りを見渡しても、一目で彼女を見付けられるくらい、その存在感は際立っていた。
白いワンピースは、土地柄に合わせたのか袖も丈も長いものを身に着け、肌を隠している。それでも、淡白にならないように、アクセントとして、首元には翡翠で造られたペンダントと、左手の薬指には、プラチナのリングが――。
「あれ、おまえ、指輪はどうした? あとペンダント――」
男は気付いて、なんの気なしに問うた。そりゃアクセサリーだ、外すこともあるだろう。しかし、そのふたつは、夫である紳士との思い入れある品であったはずだ。少なくとも指輪に関しては――実はちゃんと確認はしていないが、結婚指輪なのだろうし。
それに、ぴくりと身を震わせ、口元も歪ませ、少女は男を、睨み上げる。
「なんの話か解らないわ」
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