箱庭物語

晴羽照尊

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コルカタ編 序章

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 とりあえずの目的地は、チョウロンギ通りの先、『カーリー女神寺院』だった。最終的な今回の目的地は、『本の虫シミ』の現存最後の拠点、そこに集っているはずの未蒐集の『異本』。それを現在、実質的に『本の虫シミ』の生き残りをまとめ上げている、男の旧友、タギー・バクルドとの交渉の末、手に入れること。はっきり言って、今回に限り、暴力でそれらを奪い取る算段はまったくない。その点について、男は少女にも、あるいは幼女にも女流にも、言い聞かせていた。

 僧侶、タギー・バクルドが旧知であることも、確かに大きな理由だ。だがそれよりも、彼らには借りがあった。モスクワでの一件にて、やけに友好的に、氷漬けにされた少女の解放、ひいては狂人、ネロ・ベオリオント・カッツェンタの討伐に、知恵と『異本』を貸り受けている。
 だから、今回はそれを返す。借りたままの『異本』、『白鬼夜行びゃっきやこう 雪女之書』を。そのうえで、今回ばかりは表裏なく、平和的な取引を持ちかける。それが破断するなら、おとなしく引く。

 いくら旧知で旧友であろうと、男はもう、なにがなんでも『異本』を集めきることを決めていた。汚いこともしよう。恩を仇で返しもしよう。自分の大切な家族――少女に危害を加えるような存在を、もうこの世にのさばらせておきたくはない。しかしだからといって、その少女に顔向けできない自分ではありたくない。だから、恩を仇で返すのは、一度、義理を通してからだ。

 ……氷漬けの事件ひとつをとって、そう決めたのではない。少女ですら抗えない氷牢も、少女の故郷を半壊させた炎球も、そしてなにより、少女をから変貌させてしまった『異本』を、男はもう、怨恨の対象としてすら見始めていた。
 この世から消しきれない理不尽などいくらでもある。しかし、考えてしまったのだ。もしも最初からこの世に『異本』などなかったら。少女はいまでもロングイェールビーンで、穏やかに健やかに、こんな非日常に放り出されることもなく、本当の両親と幸福に、生きていたのではないだろうか?

 それは、男が少女と出会えなかったはずの物語だ。しかし、仮にそうだとしても――それが少なくともいまの男にとって、あまりに酷な現実だとしても、少女にとっては幸せな筋書きだったのかもしれないと、そう、思ってしまう。……きっと少女は、そうは言わないだろう。し、思ってもいないだろう。だが、良くも悪くも、いまの少女は男の『異本』集めという目的に囚われている。ともすれば、男も。

 男と少女は、あるいはその家族は、――その人生は『異本』に狂わされてしまっている。結果、男も少女も、十二分に幸せを感じている。だが、失ったものも多い。だから、男は思わずにいられない。
 いまは確かに幸せだが、ふたりは、出会わなかった方が幸せだったのかもしれない。と。まあどうせ、現実はこうなっているのだから、『もしも』の世界なんて、ないのだけれど。

 答えは解らない。そのうえ、どうせ過去は――現在は変わらない。だが、未来は変えられるだろう。過去を振り返り、現在がどれだけ幸せなのかを思料することは、未来をよりよく変えるために、いまをどう生きるかの糧になる。そしてその結論として、男は、今度こそちゃんと、『異本』を集めきり、すべてを封印すると決めたのだ。

 そう、改めて思い、胸に手を当てる。そこに収められた、すべての『異本』を収めるはずの、『箱庭図書館』に。

        *

 チョウロンギ通りを抜けても、カーリー女神寺院まではまだ少し歩く。メインストリートを越えて、やや人の群れは密度を減らしていた。それでも――それゆえに、観光客は減り、地元民が多くなり、生活感が増す。まあ、わずかに、という程度ではあるが。

 小奇麗なレストランや、観光客向けの土産物屋が減り、その代わりに宗教色が増していく。カーリー女神寺院のそばの通りでは、祀られているヒンドゥー教の女神、カーリーへの捧げものなどが売られる露店が増えていった。また――チョウロンギ通りでも同じことだが、一本通りを外れれば、すぐに殺伐としたスラムが覗いた。そこにおもむろに、先を歩む少女が足を踏み入れる。

「おい、ノラ、そっちじゃねえぞ」

 目的地はカーリー女神寺院だ、そう伝えたはずである。ゆえに、通りを外れようとする少女に、男は声を上げた。
 スラムに足を踏み入れようと、少女ならなんの心配もないだろう。しかし、それでも親心とは心配性なもので、少しでも危険なものには近付かせたくないという心理も強かったのである。

「ちょっと寄り道」

 どうやら勝手知ったる様子の少女は、そう言って、親の心配もよそに、足取り軽く突き進んでしまった。仕方がないので、男はあとを追う。当然、幼女や女流も。男は、自分自身はともかく、あるいは大人である女流はぎりぎりいいとして、幼女をそんなすさんだスラムにまで同行させるのは気後れしたが、仕方がないものと割り切った。自分がいるし、少女もいる、滅多なことはないだろうが。

「あら、今日はご主人いないの?」

 とか考えていたら、少女はいきなり、寂れた店先に座り込む男性に話しかけた。男性というか、まだ子どもか? 子どもという表現では幼すぎるが――二十歳前後ほどの、目付きが鋭く、いまにも相手を取って食いそうな、やや危うげな男子だった。

「ああ? なんだおまえ」

 案の定、低い声で高圧的に対応される少女。座り込んでいた彼は立ち上がり、少女を見下ろした。

「お客さんよ。タマゴチキンロール、四つ」

 わずかにも物怖じせずに、少女は四本の指を突き付けた。

「……はいよ」

 どうやらコルカタ名物のひとつ『ロール』の店であったらしい。これまでの活気溢れた売り子たちとはうって変わって、やけに態度は悪いが、彼はどうやら調理にかかった。

 コルカタ名物、ロール。多量の油で平たく焼いたパラタというパンに、チキンや卵焼き、野菜などを巻いて食べる軽食だ。長くこの地に滞在したことがある男も、数え切れず食したことのある料理。少女や店員が語ったベンガル語は、ついぞ完全にマスターしたわけでもない男であったが、このときの会話くらいなら理解できた。だからこそ、少しだけ物申す。

「おい、ノラ。ロールなら他にうまい店がいくらでもあるぜ」

 英語で、そのうえで念のため小声にて、男は少女に耳打ちした。仮にいくらここのロールがうまかったとして、衛生的にもよろしくなさそうなこの店を選んだ少女の選択には、さすがに正気を疑う男だった。

「食べれば解るわ」

 少女が端的に答える。

「世界が変わるから」

        *

 世界が、変わった。

 表面パリパリ、中はモチっと焼き上げられたパラタは、それだけで食べても美味だ。クミンあたりを練り込んでいるのか、カレーのような風味もする。それに巻かれるは、薄くスライスしたタマネギとマスタードで和えたジャガイモ、半熟のスクランブルエッグに仕上げられたタマゴと、店の奥にあるタンドールでじっくりと焼き上げられたチキンティッカ。そしてなにより、おそらくトマトをベースに作られているソースが絶品だ。ジャガイモに絡んだマスタード、チキンティッカに用いられるヨーグルト、そしてソースにふんだんに使われているらしいトマトの、三つの酸味が絶妙に絡まり、ずっしりと入ったチキンのうまみを包み込む。パラタにジャガイモまで巻かれ、大量のチキンまで。軽食と呼ぶにはもはや逸脱したボリュームも、めくるめくように断続的に訪れる酸味や、パラタのカレー風味が後押しして、ぺろりと平らげてしまった。

「うまい! うまい! うますぎる! おい、どうなってんだ、これは!」

 男は店員に、つい詰め寄った。

「ああ、うまいならよかったじゃねえか。文句あんのか?」

「あるわ! 同じのをあと四つくれ!」

「ハク、可愛いわたしはもう十分よ」

「俺が四つ喰う!」

 男同様にその味に叫び出したいほど魅了された幼女や女流ですら、さすがにそれは多すぎだと内心突っ込んだ。まあ、少女のようにたったひとつだけで満足はできず、もうひとつくらい食べたい気持ちは多分にあったけれど。

「余も! もうひとつ! のう!」

「あ、じゃあ、私も……」

 結局追加は、六つになった。


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