箱庭物語

晴羽照尊

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コルカタ編 序章

Euphoric Field.

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 エルファ・メロディアの肉体は、一般的な成人女性よりも、よほど脆弱だった。生来の聴覚異常。それは肉体の脆弱さの表出、その、一部にすぎない。彼女はすぐに貧血の症状を起こすし、簡単に肉体は傷付く。そのうえ、その自己治癒力も足りなすぎて、些細な怪我でも完治に多大な時間を要した。消化器系も全般弱いのか、あまり多くものを食べられないし、変なものを食べたらすぐにお腹を壊す。季節の変わり目には毎度風邪をひくし、けっこうな頻度でこじらせて、よく医者に罹ったりしていた。

 そんな彼女は、自分自身の弱さをよくよく思い知っていたから、いつも懸命に自愛してきた。生きたい。仲間たち彼らとまだまだ、一緒にいたい。大切な『家族』が、いる。
 だから、過ぎた願いだとしても、少しでも長く、生きたい。そう思って自らを大切に、生きてきた。

 そしてそんな彼女を、周囲の仲間たちも、大切にしてきた。仲間として。友人として。あるいは、『家族』として。

 いくら強力な『異本』を使いこなし、『本の虫シミ』でも上位の戦闘力を有するとはいえ、彼女は本当に他のメンバーから、大切にされてきた。子を孕んだころからはなおのこと。その相手父親や、いったいどういういきさつがあったのかは、誰が聞いても答えなかったけれども、それでもその子たちともども、彼女たちは愛されてきた。

 だからなのだ。だから今回も、大男が付き添っていたのだ。

 本来であれば娘子ほどの戦闘力を有する者とペアを組むなら、もっと弱いものでもよかったはず。しかし、彼女を――あるいはその子たちを大切に思うからこそ、大男がバディを組んだ。あるいは、彼女の『異本』の邪魔にもなりにくい人選という意味もあったが、やはり一番は彼女の身の安全のためである。

 カイラギ・オールドレーンの肉体は、全世界全人類の中でも、おそらくトップテンに入る強靭さを持つ。だから、いざというときは盾となれるように。それだけを彼は、ずっと考え、娘子のそばにいた。

「メロディア! 大丈夫だ! すぐに医者に連れて行く!」

 そしてその役目は今回、果たされた。……そのはずだった。

        *

 肉体の中心に、大男はそんなものなどどこ吹く風で、娘子を気遣った。

 抉れている。彼女の体を巡る、おそらく一般的な成人女性よりよほど少ない血液が、驚くほどの勢いで噴き出る。とはいえ、体に大穴が空いた大男よりかはよほど些末な怪我だ。普通の人間が健全な状態でそのダメージを負ったとしたなら、きっとそう簡単に死ぬほどのものでもない。それほどまでに、効果はあった、はずなのだ。

「イヒャ…………イヒャヒャヒャヒャ――――!!」

 大穴を開けられても背を向けたまま、大男はただ、娘子を庇う。その背に、どこから出しているか解らないほどの高音の笑い声とともに、拳は振り降ろされる。何度も、何度も。
 極玉きょくぎょくの力を、解放している。……いや、同じ文字を使うならこう表現すべきか。『解き放たれてしまった』、とでも。

「イヒ…………イヒヒャヒッ! ヒャヒャヒャヒャア!」

 どういう理屈でそうなってしまったかは解らない。しかし、あのそばかすメイドは、確かに死んだはずなのだ。少なくとも一度は完全に。『EFエフ』がそう判断したのだから、人間としては――人体としては、生命活動を停止させたことは確かなのである。
 が、極玉の力を解放した――あるいは、死に面して彼女の意識が薄れ、その自我を極玉が奪い取った。そういうことなのだろう。

 その証左に、攻撃は強力だが、単調だ。最初の一撃こそ不意を突かれ、大男も、筋肉に力を入れるのを怠ってしまったが、いまはもう、それも万全だ。確かにダメージはある、が、まだとうぶんは耐えることができるだろう。

 であるなら、そばかすメイドは攻撃方法を変えるべきだ。少なくとも、攻撃箇所くらいは変えるべき。現状では無抵抗にただ耐えているだけの大男である。そばかすメイドは彼を背後から繰り返し殴打しているが、正面に回ってみればいい。あるいは、大男が打倒し得ないなら、彼が抱える娘子を狙えばいいのだ。そもそも彼女がメインで戦っていたのは、娘子の方だったのだし。

 それをしないということは、彼女は確かに、噂に聞く、EBNAが扱う極玉きょくぎょくの解放状態、ということなのだろう。そうでなくともこれまでの戦闘を見る限り、現状、気が触れているのは確かである。

 などというのは、一瞬の思考。いや、大男に関して言えば、それは、『感覚』。あるいは、『勘』。戦闘勘だ。

「うっとおしいな。そこをどけ」

 娘子を大切に抱え上げ、大男はにわかに振り向いた。その巨体を勢いよく、回転。腕を振るうまでもない。そもそもそれは現在、娘子を抱え上げているので、振り回すわけにもいかない。ただ、その振り向きで肘――ですらない、上腕筋をぶつけただけ。

「イ――――ッ!?」

 それだけで、吹き飛ぶ。『十分シーフェン大瀑布』の奥底へ、そばかすメイドは、消えた。

        *

 街に戻る。だが、ホテルなどなく民宿しかない十分の街だ。医療施設も十全ではない。
 いや、そんなことは言い訳だ。問題は、生命力。肉体の強靭さ。肉体に風穴を空けられた大男が危なげなく回復したというのに、娘子は意識を失ったまま、衰弱し続けている。

「メロディア。頼む。一晩でいい。耐えろ」

 大男は彼女の手を――握り潰さないように極めて慎重に、握りながら。呼びかける。

「一晩あれば主教も駆けつける。あの方の力なら、あるいは……!」

 大男は仲間の力を想起して、呼びかける。声に関しては力強く。彼女の耳にも、ちゃんと響くように。

「――――……っ」

「メロディア!」

 ぴくりと動いた指先に、大男は反応する。声を上げる。

「レーン。……うるさい」

「ああそうだ! それがしはうるさいぞ! がはははは……っ!」

 声に生気が、ない。それを感覚で理解して、大男は声を張った。この元気が、ほんのわずかでも、彼女に届くように。

「もう主教も来る! この程度の傷、すぐに治るぞ!」

 がははははははは! 無理矢理に快活に、大男は笑う。強靭なはずの、傷などすでになんともないはずの、彼は、声を震わせて、笑う。

「ほんとう……うるさい。レーン」

 娘子は言う。さきほどよりもずっとずっと、弱く、か細く、消え入りそうな、声。
 それでも、次を紡いで。

「だから、愉快。……レーン。……わちき、楽しかった」

「楽しいことなど、これからいくらでもある! メロディア! 本当にもうすぐだ! 主教は、もうすぐそこまで――」

「レーンは……ふふ……」

 言いかけて、娘子はやめた。大男が単純で、嘘に向かないことなど、そんなことは、言うまでもない。そうでなくとも、娘子は世界の『存在』を感じて、嘘を見抜くことに長けている。
 だから、もう間に合わないことも、もう足りないことも、解っていた。総じて、幸せな人生だった。そう思う。だけど、心残りが、できていた。多くを望んだから、自分のような脆弱な者には、抱えきれないだけの幸福が集まってしまった。それを遺して逝くのは、やはりもどかしいし、心配だ。

「…………あの子たちを、お願いね。レーン」

 言葉は、そこまで。

 しかし心は、もう少しだけ。



 お願いね、エフ。

 彼女のかたわらで、その機械は起動する。命令を受諾し、己が全存在をかけて、この世界に現出した。

『了解. 全身全霊 ヲ 賭シテ 友人ノ為二 ―――― 必ズ 守リマス』

「――――」

 苦しそうな、不愉快そうな表情から一変。娘子は本当に愉快そうに、笑って……逝った。

 ――――――――

『十分瀑布公園』。その、滝壺の、そば。

「あらら……君ほどの者が、よもや敗北するとはね」

 バリッ。と、硬いなにかを咀嚼して、宵闇の中、その若人は悠長に言った。

 すらっとした黒いスーツを、一般的な社会人らしく着こなし、ダークグレーの髪を短く切り揃えている。前髪は眉にかからず、サイドは耳にかからず。その短髪をポマードで固めて、さらに整える。たとえば日本であれば、どこででも見かけるような、ただの社会人。その様相である。

「イ……ヒャヒャヒャヒャ……」

「あ~あ。こりゃ、ちょっと壊れてるな」

 そう言うと、その若人は、社会人らしく持ち歩いていたビジネスバッグから、一冊の本を取り出す。煤色の装丁、その一冊を。

「AEDってあるじゃん? 私、最近知ったんだけど。あれって、決して人命を蘇生するための道具じゃなくって、こう、バグった心臓を電気ショックでさせて、つまりはリセットする機械なんだってさ」

 つまりは、それを使うだけで人命救助は終了するのではなく、その後、止まった心臓を再起動させるために、胸骨圧迫を行い、また、疾く治療を施す必要もある。
 なにごとかを解説して、若人は齧っていたものを口に放り込み、両手を自由にした。片腕には一冊の本。もう片手で、そばかすメイドに少し、労わるように触れる。

「イヒャッ! イ、ヒヒヒヒ……」

「ということで、一回殺すね」

 事務的に語ると、その言葉通り、瞬間でそばかすメイドは息を引き取った。その死体を、さも重労働そうに持ち上げて、若人は危なっかしく歩き出す。

「やっぱ誰か連れてくるべきだったかなあ。この『異本』、連続使用できないってのもバグだよねえ。……私が適応できればよかったのだけれど、まあ、それは過ぎた願いかな」

 そばかすメイドを抱えて、ビジネスバッグをも持ち上げる――その前に、ひとつ、煎餅を取り出し口に咥えて、気合を入れた。

 細い女性ひとりとはいえ、抱えて帰るというのは、貧弱な彼には、なかなかに厳しいミッションなのだから。


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