箱庭物語

晴羽照尊

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コルカタ編 本章

地に宿る時と屍の結集

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 あれ? と、思う。瞬間に、動く!

「――――っ!!」

 男へ、背後からふいに振り降ろされた――それに触れることはできないと、即座に判断し、それを持つ腕を、下から蹴り上げ、少女は弾いた。だが、認知できてはいても、長すぎた刃渡りに、その切先に、わずかに頬が傷付けられる。それを、汗を拭うようにひと撫で。それだけで――かすり傷程度ではあったとはいえ、即座に、それは、消えた。

 確認、する。あと数十秒。それなら、まだ、大狐も動けないだろう。と、判断。

「感謝、しなきゃねえ……」

 かの妖怪は、ゆらりゆらりと上体を揺らし、恍惚の表情で、そこに、いた。さきほど、下僕に消される以前の、もはや朽ち果てそうで、しわしわにひしゃげた、小柄な姿とは違う。その肌には張りがあり、決して多くも残っていなかったはずの毛髪も――総白髪に染まっていたはずのそれも、じっとりと艶を戻した紅色に変えて、腰ほどまでに伸ばしている。赤黒かった肌も、やや病的に白くなり、青い血管がところどころ浮き出ていた。

 つまり言うと、端的に、

「『カルガラの骨本』。原初の『異本』……ねえ? くっくっく。ありゃあ、原始状態に『異本』じゃねえ。生まれた瞬間に――受精卵状態に『異本』のようだ」

「『滑瓢ぬらりひょん之書』で、?」

 その一冊――『白鬼夜行びゃっきやこう 滑瓢之書』は、の『異本』だ。つまり、少女の扱う『シェヘラザードの遺言』と同質のもの。であれば、少女と同じように、自らの成長をも操作できる、ということらしかった。

「おまえさんのものとは違って、若返れはしないんだがね。あくまでこっちは『老練』の『異本』。だから、老いさらばえたじじいの身では、もう、あとがなかった。くっくっく。……よくぞ、よくぞ若返らせてくれたっ!」

 言いながら、その、若返った力で、再度、見えない大鎌を、振り――。

「ノラっ!」

 先の会話パートの隙を、紳士は見逃さなかった。そして、状況判断も完璧だ。少女がいかに相手の動きを読めようと、どうしても相手の扱う、見えない刃のリーチに翻弄される。
 だから、『箱庭百貨店』より抜き出す。刀身を薄紅に、妖しく、滲ませるように染めた、一振りの刀――焃淼語かくびょうがたりを。そしてそれを、投げ渡した。

「ありがと、ヤフユ!」

 少女らしく、瞬間、無邪気に笑う。欲しかったものを、最高のタイミングで渡してくれた。その、以心伝心に、嬉しくなって。
 だが、それもつかの間。すぐに宝石のような緑眼を尖らせて、戦意を向ける。切先も、相手の、風の大鎌へ。

「馬鹿めっ! 『鎌鼬かまいたち』は風の刃! その刀身に、実体はないぞっ!」

 言葉通りである。そして、実体がないとなれば、物理的に受け止めることは不可能。その斬撃は、焃淼語を通り抜け、ガード不能の裂傷を少女へ、及ぼす。

「同じ言葉を、そのまま返すわ」

 逆に言えば、風の刃では、実体のある焃淼語での攻撃は受け止められない。そうだ。最初から少女は、防御など考えていない。あるのは、攻撃の意思のみ。

「――――っ!」

 その無鉄砲な猛進に意表を突かれ、妖怪は、身を引いた。ゆえに互いの斬撃は空を切り、そして互いに、数歩、距離を隔てる。

「なんて、向こう見ずな――」

「ハクっ! ヤフユっ! 逃げるわよ!」

 そんな妖怪の感想などに耳を向けている暇などない。今度こそ本当に、大狐が動き始めた。

「はっきり言うわ! 絶対に勝てない!」

 ゆえの、撤退。少女は言葉を選ぶこともせずに、はっきりと、言いきった。

 ――――――――

『白鬼夜行 大蝦蟇おおがま之書』。その、真骨頂。カエルのごとき跳躍力。それを発揮する、尋常じゃないほどの脚力。それを、全力で酷使して、優男は、進んだ。

「はあ……はあ……。これで、ほとんど――」

 ほとんどの構成員を脱出させた。どうやら妖怪の奇襲に合い気絶していたが、優男が九尾きゅうびによる被害が及ぶであろうことを伝えに向かうと、そのときには、すべての構成員が、なんとか意識を取り戻していたころで、自力での脱出を促すことができた。場合によっては自ら担いでいくしかないかと考えていた優男だったが、前述の理由により、かなりいいペースで避難は進んでいる。

「あとは……ちっ……エルファの娘たちですか」

 施設中でももっとも安全な、ゆえに、もっとも入り組んだ先の、遠い部屋にいることが仇になった。ともすれば、そんな深層にまで大狐は攻め入らないかもしれないことを期待することもできなくはない、が、万一にも辿り着いてしまっては勝ち目がない。死、あるのみ。そう思えば、可能性が低かったとしても、放っておくわけにはいかないだろう。あるいは、大狐そのものが到達しなかったとて、あの巨体が暴れながら突き進めば、地下に築いたこの施設そのものが崩れ落ち、残った者を生き埋めにもしかねない。

 ちなみに、大男には声をかけられなかった。そちらはそちらで修羅場だったから。あれはあれで、割り込めばこちらの命がない。そう、優男は判断せざるを得なかった。

 そして、奇妙なことに、僧侶とギャルは消えていた。大方、ギャルが僧侶を担いで移動したのだろうが、どこに行ったかは不明である。……逃げてくれているといいが。そう、願うしかない。

 ……あれ。そういえば、まだもうひとり、いたような?
 指折り数えてみるに、もうひとりいるはずだ。誰だろう? ううん……。と、唸ってみるも、優男は、思い出せないで――。

「あ……」

 ある部屋で、ほうけた声を上げ、優男は急ブレーキをかけた。そこには、悪人面を無様に歪めて、白目を剥いて眠っている、悪人顔の馬鹿がいた。

        *

 一考して、優男は、走りを再開した。

 いや、いくらムカつく悪人顔とて、よもやみすみす見捨てたりはしない。が、おそらく揺り起そうものなら面倒なことになり、時間がとられる。であれば、先に娘たちを逃がす方がいい。との、判断だ。決して、あんな馬鹿死ねばいいんですよとか思っていない。決して。

 で、なんとか施設の最奥、エルファ・メロディアの娘たちが居住する部屋に辿り着いてみるに、そちらもそちらで、面倒なことになっていた。

「ま、また負けた……のう……」

 うなだれる女流。幸か不幸か、その姿は優男から見て、後ろ姿だったが、どうやら全裸だった。艶めかしい黒肌が眩しい。

「も、もう脱ぐ服、ないです……」

 幼女はまだ肌着を保っていた。その薄着を自らの両腕で抱き、寒さになのか、恐怖になのか、震えていた。

「わーい。また勝ったね! シド」

「勝ちー」

 娘たちは相反するテンションでハイタッチした。こちらはどうやら、一枚も脱がされてはいない。

 嘆息して、敗者のあられもない姿を見ないように、カードの散らかる床を見る。どうやら、シーバーでもしていたようだ。二対二で行うトリックテイキングゲームの一種だが、確かに、そのゲームに関して、娘たちは卓越していた。優男も何度か、ギャルや僧侶と組んで娘たちとプレイしたことがある。その経験から言うなら、この娘たちふたりは、そんじょそこらの双子よりよほど、意思疎通が神がかっていると言えた。

 ともあれ、なんともほのぼのと、あるいは殺伐と、対極に切り出しにくい状況だった。とはいえ、状況は逼迫している。優男はこのあと、なんとか声をかけるに至るのだが、やはりその結果はいろいろと、面倒なことになるのだった。

 ――――――――

 若返った妖怪は、ある意味、生まれ変わっているともいえるのに、なぜだか残っている――額にある一文字の切り傷を自ら撫で、なにかを回想する。

「似た気配を感じるねえ……」

 感傷。それに、つき従うように、大狐が顔を寄せた。だから、妖怪は、額と同じように大狐を、撫でる。

「それにしても、あのお嬢ちゃん、逃げる、って?」

 くっくっく。と、呼吸がつまったように、喉奥から笑いを上げた。さも、おかしそうに。

「じじいが――いや、おれがこうなったいま、いったいどこに逃げるってんだい?」

 ギュウウゥゥ――。大狐が、甲高く、鳴く。

「本当はもう少し、新しい体を試してみたかったが、まあ、いい。あいつらも、WBOも、この全地球をも、……いま、ここから、すべて、飲み込もうじゃないか」

 二冊の『異本』を掲げ、念じる。この『異本』に宿る、あらゆる妖怪たちの、行脚を。行進を。蹂躙を。

「『白鬼夜行』。〝全地侵蝕ぜんちしんしょく〟」

 その一声を皮切りに、周囲はぼんやりと滲み、幾重もの影を生み出していく。それは『百』というにも、そこから『一』を引いた『九十九』というにも、さらに膨大な数量を以て、一歩、また一歩と、進軍を開始する。

「さて、あいつら……いや、この星は、いったい何日もつかねえ?」

 くっくっく。と、やはり呼吸を困難に行うように、妖怪は――妖怪の王は、最強の軍勢の中央で、笑った。


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