224 / 385
コルカタ編 本章
クオリアの双子
しおりを挟む
「じゃあ、僕たちは行くから」
女神さまが言った。やけに軽い調子である。
「行くって、どこに――」
少女は問うが、その言葉は、途中で途切れる。この行き止まりの部屋から、どう抜け出すのか。そう思ったのだけれど、なんのことはない。彼女は――彼女たちは、その姿をすでに消しかけている。それは、三次元よりも高位の、移動法だった。
「それが、『虚言』の性能ね?」
「君が理解できる程度のことを、いま、解説している暇はない。余計な邪魔が入ったせいで、時間がなくなったからね」
体を薄れさせながらも、女神さまは少女に近寄り、その、視線をぶつける。どちらも美しい、宝石のような双眸を。少女の緑眼と、女神さまの碧眼と。
「君の記憶を消したのは、君自身だ」
「――――っ!!」
「まあ、驚くほどのことでもないね。こんな――人を超えた僕たちではなくとも、普通の人間でも起こり得る事態だ。だが、あのときの君がそれを行ったとなれば、それは、君自身ですら、そう容易く想起できないほどの強度で実行されただろう。過去の心的外傷から心を守るために、君は、君自身で、君を封印した。だから――」
「ええ、わたしは自分で、わたしの記憶を、思い出せるわ」
「……いい子だ」
それを目の当たりにすることは、彼女にとって酷かもしれない。しかし、向き合わないままに物語を終えることなど、それこそできない。であれば、せめて――。
「僕には出せなかった答えを、期待しているよ」
女神さまは、言うと、少女の頭を一度、撫でた。まったくもって僕たちは同一だけれど、それでも、僕の方が少しだけ、先を行っているからね。そう、心でだけ、思って。
「おい、そろそろ」
下僕が控えめに、言う。見ると、いいかげん、九尾も行動を起こしそうだ。というより、なぜこれまで動かなかったのか? それは、『ニーニス教典』の意識改竄がまだわずかに、動きを阻害していたからである。しかし、それももう、時間の問題だ。
「……ああ、そうだ」
だから、最後に、女神さまは言う。きっと、忘れていたわけでもないだろうに、思い出したように、すっとぼけて。
「言っておかなければならないことがあったんだ」
「……? なにかしら?」
無邪気にいたずらに、女神さまは笑って、少女の耳元に、口を寄せる。そうして、内緒話のように、口遊んだ。
「ムウの言ったことは、もう忘れていい。君は僕に殺されなかったし、僕を殺すこともなかった」
おめでとう。乗り越えたね。そう言って、口を離す。
最後に、「じゃあね」、と、笑って、女神さまはこの世界線から、消えた。
*
狐に抓まれたように、もとよりそこには、なにもいなかったように、女神さまとその下僕は、いなくなった。
「……あ――」
名残惜しそうに、少女は、手を伸ばす。その行動に関して、少女は、自らその意味を理解することはできなかったが、それこそが、きっと、失われた記憶の理由なのだろう、と、思い至る。
「おい、そろそろいいのか?」
焦ったように、男が少女に、問う。忘れていたわけではない。しかし、それでも後ろ髪は引かれたままだ。
ぶるる。と、それを振り払うように首を振って、両頬を、叩く。
「ごめんなさい。大丈夫。……行きましょう」
「ああ。……つーか、いまのが『女神さま』か? なんつーか、……すげえな」
期せずして見てしまった女性の全裸に、男はそう、感想を漏らした。なんとも、具体的には表現しないままに。
「なに見てんのよ。変態」
だが当然、その言葉の意味を少女は、完全に理解していた。蔑視を向けて、一歩、男から距離を取る。
「いや、嫌でも目につくわ!」
男は抗議する。「あと、なんなんだあの、隣にいた野郎は」。なんか見てるだけで腹立つわ。と、男は誤魔化すように付け足した。それが、実に的を得ていることを、知らないままに。
はあ。と、嘆息。して、少女は「というか、先に行ってて」、と、促した。それから自身は、部屋の隅へ。当然と、こちらも忘れてなどいない。
*
「……立ちなさい」
驚くほどの長時間、そこにそうしていた紳士に向かって、視線と、強い言葉を落とす。
「……ノラ。……わたしは――」
どうやら、嘔吐は止まっている。しかし、滅入った感情はいまだ、紳士の足を動かすには至らないようだ。
「いま、あなたの感傷に付き合っている時間はないの。とっとと立ちなさい」
「わたしは、許されない過ちを犯した。……置いて行ってください。あなたに合わせる顔がない」
「そんなことは知らないわ」
少女は無慈悲に言うと、紳士の、その顔を掴んで、自分の方へ向けた。それでも、紳士はせめて、視線だけは逸らす。どうしても逃げ切れない罪に――無駄だと知っていても――抗うように。
「ここに残るなら、死ぬわよ?」
「……ああ、それがいい。……わたしは、それくらいのことをした」
「そう」
少女はやはり、無感情に言う。言って、そして、いまだ膝を抱えて座り込む紳士の隣に、同じように膝を抱えて、座り込んだ。
「ノラ……! あなたは、早く――」
「懐かしいわね」
言って、少女は、彼の肩に頭を、預けた。
いつか、ワンガヌイから日本へ帰る飛行機の中で、こうして眠ったことを――あのときの安らぎを、思い出して。
「ねえ、ヤフユ。わたしは、諦めていたのよ」
「…………」
紳士は、言葉を紡げない。後悔と、自らへの怒り、そして、どうしても湧き上がってしまう喜びに、さらに自分を嫌悪する気持ちが、消えないから。
「家族を失って、ひとりになって……もう死んでしまった方がマシだって、生きる気力を失くしてたわたしを、ハクは、見付けてくれた。わたしの名前を、呼んでくれた。だけどそれは――少なくとも最初は、ただの打算だった。意図があった。だからわたしは、ひとりで生きていかなきゃって、そう、意気込んでた。家族なんてもう作れない。そういうふうに、諦めていたの」
少女は語る。悠長に。まだそこにいる巨大な脅威など、取るに足らないとでも言うように。ゆったりとその時間を、噛み締めるように。
「幸い、『シェヘラザードの遺言』の力で、この――わたしのすべては、人類の限界にまで達した。そつなく生きていくのは、容易だったでしょう。でも、ひとりでなんでもできてしまうからこそ、理由はなくなった。誰かを頼って――そばに居続けるだけの、理由が」
「それは――」
違う。と、紳士は思った。誰かのそばに居ることに――居たいと思うことに、理由などいらない。それこそが人間なのだから。と、そう言いたかった。だが少女は、それを待たずして――遮るように、続ける。
「解ってるの。理由なんかいらないって。だけど、そうもいかないのよ。年齢以上に大人びてしまったわたしには、大人としての理由が必要だったの。変に世界を俯瞰できたから、わがままが言えなくなってしまったのね。それがいかに子どもらしい、幼稚な言い分だって、理解してしまう頭があったから」
少女は、無理矢理に笑うでもなく、あからさまに悲しむでもなく、心中を表情に出さないように、言った。感情の話をしているのに、論理的に理屈付けて理解してほしい、と、そう、思ったから。
「あの――新潟の屋敷での生活は、楽しかったわね。わたしがちょうど『遺言』の力を失っていたときとはいえ、まるでわたしを、十四歳の、年相応の、ただの可愛い少女のように、扱ってくれた。ジンは言うまでもないけれど、ハルカも、カナタも、シュウも――そして、あなたも。わたしを、特別扱いしないでくれた。それがね、嬉しかったの」
ワンガヌイの街で、少女から、ふとこぼれてしまった感情。『ここに住みたくなった』。それを少女は後日、回想して、嬉しいやら悲しいやら、複雑な心境になったものだ。
もう家族なんか作れない。男とともに、果てるまで旅をし続ける。そう思っていたのに、ふと、定住することをイメージしてしまった。それは未来への希望ではあったが、当時の少女にしてみれば、男へ対する裏切りのような感情だとも思えるものだった。助けてもらっておいて、それはないだろう、と。
しかし、一度抱いてしまった希望は、目を逸らせはしても、そこから消えることなど、なかったのだ。
「違う、わたしは――」
ただ、下心があっただけだ。少女のことを愛してしまった。だったら、無理でもなんでも、対等でいなければいけない。そう、紳士は思ったのだ。
だから、少女も、同じ気持ちで、彼の腕に、擦り寄う。
「わたしは、下心があるから、こうしているの。あなたに纏わりついて、あなたとともに過ごして、あなたと結婚して。……あなたを失うのが怖い。家族を失うのが怖い。……もうひとりにはなりたくないって――だから、これは、わたしのわがまま。……だから、あなたとともに死ねるなら、わたしは本望なの」
「ノラ……」
「人生は長いのよ? いろんなことが起きるわ。それなのに、片時も離れずに、一時も気持ちが離れずに、思い合うことなんてできない。今回のことも、べつに浮気だなんて、言ったりはしないわ」
そもそも、あの人は――。言おうかとも考えたが、まあそれは、もう少しくらい、黙っていてもいいだろう。そう、思う。
消えて――残り香になってしまったからこそ、逆に、彼女の存在が少しだけ、少女にも解ってきた。『女神さま』。その、存在を。
そりゃあ、嫌悪感も抱くわけだ。親近感も。彼女とわたしは、同じなんだ。そのように、少女は納得する。
たとえば、同じ『赤色』であっても、人によって、見え方が違うように。その主観の違いを、究極的には、他人同士では分かち合えないように。ただ、見る人にとって違う、というほどの、違いでしかない。
それは、各人が抱く、恋心の違いにも似ていた。人を思う気持ちは千差万別だが、その感情は――『感じ』は、同じ『恋』であり、『愛』なのである。
少女は、そんなことを思って、いたずらに、笑った。少し、しがみついている腕を、つねったりなんかして。言語化できない気持ちを――『感じ』を、示すように。
「ノラ……痛い……痛いっ!」
「あんですって?」
「なんでもない……です」
「そ?」
じゃあ、帰りましょうか。言って、少女は、紳士から離れて、立ち上がる。だから仕方なく、紳士も――ようやっと、立ち上がった。
「今度こそ、いいんだよな?」
男が、もう、冷や汗だらだらで、そこに、まだ、いた。
「わたしは、先に行っててって、ちゃんと言ったからね。逃げ遅れても知らないわよ?」
「まあ、なんとかなんだろ。ゼノは先に行かせたし。あいつ、隙を狙ってました、とか言って、ずっと隠れてやがったんだ。ちゃっかりしてるぜ」
そうは言うが、始めた準備体操は、まさにぎこちない。格好をつけるにも、娘を思うのも結構だが、大概がんばりすぎである。
「ハクさん、あの――」
「いや、マジで時間ねえから、おまえの贖罪を聞いてる場合じゃねえよ」
早口でそう、男はまくしたてた。
「だから、帰ったら一発、殴らせろ」
死ぬなよ。そう言って、ようやっと、動き出す。
男と少女と紳士と、そして、大狐が。
女神さまが言った。やけに軽い調子である。
「行くって、どこに――」
少女は問うが、その言葉は、途中で途切れる。この行き止まりの部屋から、どう抜け出すのか。そう思ったのだけれど、なんのことはない。彼女は――彼女たちは、その姿をすでに消しかけている。それは、三次元よりも高位の、移動法だった。
「それが、『虚言』の性能ね?」
「君が理解できる程度のことを、いま、解説している暇はない。余計な邪魔が入ったせいで、時間がなくなったからね」
体を薄れさせながらも、女神さまは少女に近寄り、その、視線をぶつける。どちらも美しい、宝石のような双眸を。少女の緑眼と、女神さまの碧眼と。
「君の記憶を消したのは、君自身だ」
「――――っ!!」
「まあ、驚くほどのことでもないね。こんな――人を超えた僕たちではなくとも、普通の人間でも起こり得る事態だ。だが、あのときの君がそれを行ったとなれば、それは、君自身ですら、そう容易く想起できないほどの強度で実行されただろう。過去の心的外傷から心を守るために、君は、君自身で、君を封印した。だから――」
「ええ、わたしは自分で、わたしの記憶を、思い出せるわ」
「……いい子だ」
それを目の当たりにすることは、彼女にとって酷かもしれない。しかし、向き合わないままに物語を終えることなど、それこそできない。であれば、せめて――。
「僕には出せなかった答えを、期待しているよ」
女神さまは、言うと、少女の頭を一度、撫でた。まったくもって僕たちは同一だけれど、それでも、僕の方が少しだけ、先を行っているからね。そう、心でだけ、思って。
「おい、そろそろ」
下僕が控えめに、言う。見ると、いいかげん、九尾も行動を起こしそうだ。というより、なぜこれまで動かなかったのか? それは、『ニーニス教典』の意識改竄がまだわずかに、動きを阻害していたからである。しかし、それももう、時間の問題だ。
「……ああ、そうだ」
だから、最後に、女神さまは言う。きっと、忘れていたわけでもないだろうに、思い出したように、すっとぼけて。
「言っておかなければならないことがあったんだ」
「……? なにかしら?」
無邪気にいたずらに、女神さまは笑って、少女の耳元に、口を寄せる。そうして、内緒話のように、口遊んだ。
「ムウの言ったことは、もう忘れていい。君は僕に殺されなかったし、僕を殺すこともなかった」
おめでとう。乗り越えたね。そう言って、口を離す。
最後に、「じゃあね」、と、笑って、女神さまはこの世界線から、消えた。
*
狐に抓まれたように、もとよりそこには、なにもいなかったように、女神さまとその下僕は、いなくなった。
「……あ――」
名残惜しそうに、少女は、手を伸ばす。その行動に関して、少女は、自らその意味を理解することはできなかったが、それこそが、きっと、失われた記憶の理由なのだろう、と、思い至る。
「おい、そろそろいいのか?」
焦ったように、男が少女に、問う。忘れていたわけではない。しかし、それでも後ろ髪は引かれたままだ。
ぶるる。と、それを振り払うように首を振って、両頬を、叩く。
「ごめんなさい。大丈夫。……行きましょう」
「ああ。……つーか、いまのが『女神さま』か? なんつーか、……すげえな」
期せずして見てしまった女性の全裸に、男はそう、感想を漏らした。なんとも、具体的には表現しないままに。
「なに見てんのよ。変態」
だが当然、その言葉の意味を少女は、完全に理解していた。蔑視を向けて、一歩、男から距離を取る。
「いや、嫌でも目につくわ!」
男は抗議する。「あと、なんなんだあの、隣にいた野郎は」。なんか見てるだけで腹立つわ。と、男は誤魔化すように付け足した。それが、実に的を得ていることを、知らないままに。
はあ。と、嘆息。して、少女は「というか、先に行ってて」、と、促した。それから自身は、部屋の隅へ。当然と、こちらも忘れてなどいない。
*
「……立ちなさい」
驚くほどの長時間、そこにそうしていた紳士に向かって、視線と、強い言葉を落とす。
「……ノラ。……わたしは――」
どうやら、嘔吐は止まっている。しかし、滅入った感情はいまだ、紳士の足を動かすには至らないようだ。
「いま、あなたの感傷に付き合っている時間はないの。とっとと立ちなさい」
「わたしは、許されない過ちを犯した。……置いて行ってください。あなたに合わせる顔がない」
「そんなことは知らないわ」
少女は無慈悲に言うと、紳士の、その顔を掴んで、自分の方へ向けた。それでも、紳士はせめて、視線だけは逸らす。どうしても逃げ切れない罪に――無駄だと知っていても――抗うように。
「ここに残るなら、死ぬわよ?」
「……ああ、それがいい。……わたしは、それくらいのことをした」
「そう」
少女はやはり、無感情に言う。言って、そして、いまだ膝を抱えて座り込む紳士の隣に、同じように膝を抱えて、座り込んだ。
「ノラ……! あなたは、早く――」
「懐かしいわね」
言って、少女は、彼の肩に頭を、預けた。
いつか、ワンガヌイから日本へ帰る飛行機の中で、こうして眠ったことを――あのときの安らぎを、思い出して。
「ねえ、ヤフユ。わたしは、諦めていたのよ」
「…………」
紳士は、言葉を紡げない。後悔と、自らへの怒り、そして、どうしても湧き上がってしまう喜びに、さらに自分を嫌悪する気持ちが、消えないから。
「家族を失って、ひとりになって……もう死んでしまった方がマシだって、生きる気力を失くしてたわたしを、ハクは、見付けてくれた。わたしの名前を、呼んでくれた。だけどそれは――少なくとも最初は、ただの打算だった。意図があった。だからわたしは、ひとりで生きていかなきゃって、そう、意気込んでた。家族なんてもう作れない。そういうふうに、諦めていたの」
少女は語る。悠長に。まだそこにいる巨大な脅威など、取るに足らないとでも言うように。ゆったりとその時間を、噛み締めるように。
「幸い、『シェヘラザードの遺言』の力で、この――わたしのすべては、人類の限界にまで達した。そつなく生きていくのは、容易だったでしょう。でも、ひとりでなんでもできてしまうからこそ、理由はなくなった。誰かを頼って――そばに居続けるだけの、理由が」
「それは――」
違う。と、紳士は思った。誰かのそばに居ることに――居たいと思うことに、理由などいらない。それこそが人間なのだから。と、そう言いたかった。だが少女は、それを待たずして――遮るように、続ける。
「解ってるの。理由なんかいらないって。だけど、そうもいかないのよ。年齢以上に大人びてしまったわたしには、大人としての理由が必要だったの。変に世界を俯瞰できたから、わがままが言えなくなってしまったのね。それがいかに子どもらしい、幼稚な言い分だって、理解してしまう頭があったから」
少女は、無理矢理に笑うでもなく、あからさまに悲しむでもなく、心中を表情に出さないように、言った。感情の話をしているのに、論理的に理屈付けて理解してほしい、と、そう、思ったから。
「あの――新潟の屋敷での生活は、楽しかったわね。わたしがちょうど『遺言』の力を失っていたときとはいえ、まるでわたしを、十四歳の、年相応の、ただの可愛い少女のように、扱ってくれた。ジンは言うまでもないけれど、ハルカも、カナタも、シュウも――そして、あなたも。わたしを、特別扱いしないでくれた。それがね、嬉しかったの」
ワンガヌイの街で、少女から、ふとこぼれてしまった感情。『ここに住みたくなった』。それを少女は後日、回想して、嬉しいやら悲しいやら、複雑な心境になったものだ。
もう家族なんか作れない。男とともに、果てるまで旅をし続ける。そう思っていたのに、ふと、定住することをイメージしてしまった。それは未来への希望ではあったが、当時の少女にしてみれば、男へ対する裏切りのような感情だとも思えるものだった。助けてもらっておいて、それはないだろう、と。
しかし、一度抱いてしまった希望は、目を逸らせはしても、そこから消えることなど、なかったのだ。
「違う、わたしは――」
ただ、下心があっただけだ。少女のことを愛してしまった。だったら、無理でもなんでも、対等でいなければいけない。そう、紳士は思ったのだ。
だから、少女も、同じ気持ちで、彼の腕に、擦り寄う。
「わたしは、下心があるから、こうしているの。あなたに纏わりついて、あなたとともに過ごして、あなたと結婚して。……あなたを失うのが怖い。家族を失うのが怖い。……もうひとりにはなりたくないって――だから、これは、わたしのわがまま。……だから、あなたとともに死ねるなら、わたしは本望なの」
「ノラ……」
「人生は長いのよ? いろんなことが起きるわ。それなのに、片時も離れずに、一時も気持ちが離れずに、思い合うことなんてできない。今回のことも、べつに浮気だなんて、言ったりはしないわ」
そもそも、あの人は――。言おうかとも考えたが、まあそれは、もう少しくらい、黙っていてもいいだろう。そう、思う。
消えて――残り香になってしまったからこそ、逆に、彼女の存在が少しだけ、少女にも解ってきた。『女神さま』。その、存在を。
そりゃあ、嫌悪感も抱くわけだ。親近感も。彼女とわたしは、同じなんだ。そのように、少女は納得する。
たとえば、同じ『赤色』であっても、人によって、見え方が違うように。その主観の違いを、究極的には、他人同士では分かち合えないように。ただ、見る人にとって違う、というほどの、違いでしかない。
それは、各人が抱く、恋心の違いにも似ていた。人を思う気持ちは千差万別だが、その感情は――『感じ』は、同じ『恋』であり、『愛』なのである。
少女は、そんなことを思って、いたずらに、笑った。少し、しがみついている腕を、つねったりなんかして。言語化できない気持ちを――『感じ』を、示すように。
「ノラ……痛い……痛いっ!」
「あんですって?」
「なんでもない……です」
「そ?」
じゃあ、帰りましょうか。言って、少女は、紳士から離れて、立ち上がる。だから仕方なく、紳士も――ようやっと、立ち上がった。
「今度こそ、いいんだよな?」
男が、もう、冷や汗だらだらで、そこに、まだ、いた。
「わたしは、先に行っててって、ちゃんと言ったからね。逃げ遅れても知らないわよ?」
「まあ、なんとかなんだろ。ゼノは先に行かせたし。あいつ、隙を狙ってました、とか言って、ずっと隠れてやがったんだ。ちゃっかりしてるぜ」
そうは言うが、始めた準備体操は、まさにぎこちない。格好をつけるにも、娘を思うのも結構だが、大概がんばりすぎである。
「ハクさん、あの――」
「いや、マジで時間ねえから、おまえの贖罪を聞いてる場合じゃねえよ」
早口でそう、男はまくしたてた。
「だから、帰ったら一発、殴らせろ」
死ぬなよ。そう言って、ようやっと、動き出す。
男と少女と紳士と、そして、大狐が。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
Re:コード・ブレイカー ~落ちこぼれと嘲られた少年、世界最強の異能で全てをねじ伏せる~
たまごころ
ファンタジー
高校生・篠宮レンは、異能が当然の時代に“無能”として蔑まれていた。
だがある日、封印された最古の力【再構築(Rewrite)】が覚醒。
世界の理(コード)を上書きする力を手に入れた彼は、かつて自分を見下した者たちに逆襲し、隠された古代組織と激突していく。
「最弱」から「神域」へ――現代異能バトル成り上がり譚が幕を開ける。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる