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台湾編 序章 ルート1
渺茫夢月
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夢を、見ていた。
息苦しい靄の中を、走っている。
視線は、よほど低い。まだ幼少のころだろうか?
「あっはははははは! ははぁ!」
少年の、声だ。いや、まだ少年とも呼べないかもしれない。盛り上がった嬌声と相まって、女子であったとしても、おかしくはない。
しかし、男は彼が、男子だと理解した。夢の中ゆえの、不思議な確信をもって。
そして夢の中の少年も、万全たる万能感をもって、駆けている。力いっぱいに。
世界が己を守っていることを、信じて疑わないように。
「わっ……ぶ――!」
だから、当然の制裁とでもいうように、足裏は滑った。世界の寵愛を信じ切っていた少年は、たいした受け身もとれずに、顔面からずっこける。
「う、ええええええええぇぇぇぇんんんん!!」
少年は、血の味を知った。痛みを知った。
この世は、抗いようもない理不尽に満ち溢れていると、言外に悟った。
この世界に、これだけ痛くて、辛くて、苦しい思いがあることを、知った。
そして――。
『あらあら、もう、元気元気、いっぱいなんだから』
そっと触れる、温かい手。
少年を抱き上げ、抱擁する、柔らかい肌。
『大丈夫大丈夫。痛い痛いなのは、あなたがちゃんと、生きているから、なんだからね』
心に染み入るような響きで、彼女は言った。少年の頭を撫で、あるいは、転倒にて傷めた額や頬も――体中を、撫で回す。その存在すべてを、愛しむように。
少年は、安堵に洟をすすり、女性の方へと顔を向ける。
だが、その表情は、ひどく至近にあるのに、靄に隠れて、曖昧模糊としていた――。
――――――――
男は、目を覚ました。じんわりと、後頭部が冷たい。
「お、やっと起きたか、ハク」
声に、上半身を持ち上げる。見ると、やはり女傑が、浴衣姿でくつろいでいた。胸元をはだけさせ、のんきにお茶をすすっている。
「ああ……寝てたのか、俺」
眠る以前のことを思い出せない。いまは……台湾に来ていて、それから、温泉……だったか? そう、記憶を辿る。
そうしながらあくびをすると、ふと、涙がこぼれた。
「どしたん? 怖い夢でも見とったん?」
「いや……」
あくびのせいで流れただけだろう。そう思い、涙を、腕で強引に拭う。
それから想起する。夢……。そういえば、なにか夢を見ていたような? ……だが、思い出せなかった。
辛かったような、嬉しかったような。そして、懐かしかったような……。そんな感情だけが、所在なさげにただ乱雑と、心を占めている。
「それより……あいつはどうした? なんだっけ、あの……フルーアだっけ?」
彼女のことを思い出そうとすると、なぜか頭が沸騰してきた。見たはずもない、彼女の、艶めかしい女の顔が、ふと想起される。
「あ?」
なぜだか、威圧感強めに、女傑は凄んだ。敵意にも近い。男には、そんな感情を向けられる覚えがなかった。
女傑も、少しだけそのようにしていたが、すぐに我に返ったように肩を落とす。どこかばつの悪いような顔付きに変わった。
「別の部屋や。当たり前やろ。あのアホ、放っといたら、床まで潜り込んでくるで」
「あっはっは。んな馬鹿な」
冗談だと思い、男は笑った。そんな男を、女傑はじっとりと見つめる。
はあ、と、嘆息し、女傑は頭を抱えた。
「ハク。おまえ、にぶちんやから効果なかったけどな、あいつずっと、露骨にハニートラップ仕掛けとったやろ。女の肉体は武器や。戦地なら、普通にそれは、利用できるただの道具でしかない」
道具。という語彙に、男は気を引き締めた。そばかすメイドに、なんらかの策を仕掛けられていた、という点についてではない。ただ、彼女の育った環境――EBNAでの、あの、おぞましい教育を想起したのである。
「そういう言い方をするな」
「初心なハクには、ちょっと気分悪いかもしれへんけど、それが現実や。やから、必要以上の交流はすんな。ハク、あいつは――『家族』やないやろ」
「…………」
女傑の言うことは、理解できた。現段階でWBOとは、敵対してはいないとはいえ、敵となる可能性はある。そのうえ、少なくとも、友人でも、家族でもないし、現状では、将来的にそうなるとも思ってはいない。であれば、隙を見せるわけにも、いかないのだ。
もちろん、ここまでも、隙を見せないよう、警戒を怠らずにきた。それが達成できていたかはともかく、そのつもりで心構えをしてきた。その気持ちを、男は再度、引き締める。
それでも、わずかの心のつっかえを、残したままに。
*
それから、女傑に誘われて、夕食へ向かった。日本庭園のような美しい情景を望める宴会場だ。流水の音が滴る日本庭園。その中に浮く、四畳半の茶室。そこで舞踊を行うそばかすメイドを眺めながら、日本食と日本酒に舌鼓を打つ。
「日本食ってこんなんなんだな」
男は言った。特段に非難するでも、感嘆しているでもなさそうだ。
「なぁにをカマトトぶっとんねん。ハクは日本人やろが」
女傑は機嫌よさそうに笑った。酔っているのかもしれない。浴衣から片肩をはだけさせ、男に半分、体重を預けている。
「日本人だからだよ。故郷の名産なんて、地元民は意外と、食ってねえんだ」
そもそも、男は、若いころは盗人であったり、貧乏な生活をしてきた。そして成人したころからは、『異本』集めに世界を巡る日々だった。訪れた各国での名物は食したが、なかなか日本食を食べる機会は、なかったのである。
それに……。と、ふと、思う。
あくまで、自分の記憶が日本から始まっているというだけで、けっして、自分が日本生まれであると、男は確信していない。とはいえ、物心ついたときから日本にいたのだから、やはり普通に、日本人だと思う方が可能性は高いのだろうけれど。
少なくとも、両親のことを覚えているわけではない。と、ふと、思った。大人になってからは、忙しさも含めて考えることなどなかったが、それでも、自分にも両親と呼ばれるはずの存在はいるはずだ。いまだ存命かはともかく。
そんな彼らに、会いたいなどとは微塵も思わない。愛情はおろか、憎しみすら湧いてこない。それだけ、印象がなさすぎるのだ。
まあ、いい。と、男は捨て置く。自分の『家族』は、いま見知っている、彼ら彼女らだけでいい。血なんか繋がっていなくても、心の通った、本当の、『家族』だけで……。
そう。無理やり納得するように、男はお猪口をあおった。もやもやする感情もろとも、力ずくで、腹の中に、押し込む。
舞踊を終えたそばかすメイドが、笑顔でこちらに向かってくる。
*
夜。
男が寝静まった後。
「くだらん小細工すんのは、もうやめとけぇや、フルーア」
酒瓶を片手に、女傑がそばかすメイドに、背後から近付く。そばかすメイドは窓際に腰掛け、じっと空を見上げている。細く尖った、三日月を。
「せやねえ。あん者には効果なさそうやし……攻め方を、変えよか」
女傑を振り向き、そばかすメイドは、不敵に、笑う。
「フルーア」
「冗談やん」
からからと、そばかすメイドの笑いは、軽薄に変わった。
ひとしきり笑い、落ち着く。それから、真剣な眼差しへ。
「けんど、おもろい男やなあ。氷守薄。あんな平凡な男が、信じられへん偉業を為しつつある。それも、ご本人ぜんぜん、自覚あらへんやん」
ほんにけったいやわあ。そう言って、そばかすメイドは、目を細めた。三日月のように。
それは、獲物を見据えたときの、猫の目のようだった。
「おまえ、ハクに手ぇ出すなら、うちも本気で、おまえを殺すで」
女傑は逆に、瞳をかっ開き、そばかすメイドを見下ろした。いまとなってはたったひとつ、残った隻眼で。その片割れを奪った、相手を。
「ほんま、パラちゃんは怖いわあ」
冗談みたいに言って、そばかすメイドは、口角を上げた。それから、数秒、彼女らは見つめ合い、やがて、そばかすメイドの方から、目を逸らす。
目だけでなく、顔もそむける。女傑が声をかける前と同じように、彼女は、月を見上げた。
「言葉の裏なく、ちゃあんと、案内はすんわ。リュウ様からも言われとる。安心せえ」
そう言うと、彼女は天へ、腕を伸ばした。その月を、掴もうとするように。
その姿に、哀愁を感じる。WBOを敵とするかはともかく、そばかすメイドは、女傑にとって、まぎれもない敵だった。一度、本気で殺し合った。そのときに、片目を奪われた。それ以外でも、ずっとずっと、いがみ合ってきた。
それでも――それゆえに、長く、多く、感情を交わし合った。その結果、好敵手に好感を抱くような、親近感も抱いてしまっている。そしてそれが、女傑には嫌ではなかった。
だから、……きっと、これが、最後なのだから。と、思う。
最後に、少しくらい穏やかに、酒を酌み交わしてでもおこうか、と。
持つ酒瓶に、力を込め。彼女の悲しそうな背中を見て。月に手を伸ばす、その姿を見て――。
女傑は、肩を落として、部屋に戻った。酒瓶を傾け、ひとり、飲む。
後悔のような、苦い味がした。
息苦しい靄の中を、走っている。
視線は、よほど低い。まだ幼少のころだろうか?
「あっはははははは! ははぁ!」
少年の、声だ。いや、まだ少年とも呼べないかもしれない。盛り上がった嬌声と相まって、女子であったとしても、おかしくはない。
しかし、男は彼が、男子だと理解した。夢の中ゆえの、不思議な確信をもって。
そして夢の中の少年も、万全たる万能感をもって、駆けている。力いっぱいに。
世界が己を守っていることを、信じて疑わないように。
「わっ……ぶ――!」
だから、当然の制裁とでもいうように、足裏は滑った。世界の寵愛を信じ切っていた少年は、たいした受け身もとれずに、顔面からずっこける。
「う、ええええええええぇぇぇぇんんんん!!」
少年は、血の味を知った。痛みを知った。
この世は、抗いようもない理不尽に満ち溢れていると、言外に悟った。
この世界に、これだけ痛くて、辛くて、苦しい思いがあることを、知った。
そして――。
『あらあら、もう、元気元気、いっぱいなんだから』
そっと触れる、温かい手。
少年を抱き上げ、抱擁する、柔らかい肌。
『大丈夫大丈夫。痛い痛いなのは、あなたがちゃんと、生きているから、なんだからね』
心に染み入るような響きで、彼女は言った。少年の頭を撫で、あるいは、転倒にて傷めた額や頬も――体中を、撫で回す。その存在すべてを、愛しむように。
少年は、安堵に洟をすすり、女性の方へと顔を向ける。
だが、その表情は、ひどく至近にあるのに、靄に隠れて、曖昧模糊としていた――。
――――――――
男は、目を覚ました。じんわりと、後頭部が冷たい。
「お、やっと起きたか、ハク」
声に、上半身を持ち上げる。見ると、やはり女傑が、浴衣姿でくつろいでいた。胸元をはだけさせ、のんきにお茶をすすっている。
「ああ……寝てたのか、俺」
眠る以前のことを思い出せない。いまは……台湾に来ていて、それから、温泉……だったか? そう、記憶を辿る。
そうしながらあくびをすると、ふと、涙がこぼれた。
「どしたん? 怖い夢でも見とったん?」
「いや……」
あくびのせいで流れただけだろう。そう思い、涙を、腕で強引に拭う。
それから想起する。夢……。そういえば、なにか夢を見ていたような? ……だが、思い出せなかった。
辛かったような、嬉しかったような。そして、懐かしかったような……。そんな感情だけが、所在なさげにただ乱雑と、心を占めている。
「それより……あいつはどうした? なんだっけ、あの……フルーアだっけ?」
彼女のことを思い出そうとすると、なぜか頭が沸騰してきた。見たはずもない、彼女の、艶めかしい女の顔が、ふと想起される。
「あ?」
なぜだか、威圧感強めに、女傑は凄んだ。敵意にも近い。男には、そんな感情を向けられる覚えがなかった。
女傑も、少しだけそのようにしていたが、すぐに我に返ったように肩を落とす。どこかばつの悪いような顔付きに変わった。
「別の部屋や。当たり前やろ。あのアホ、放っといたら、床まで潜り込んでくるで」
「あっはっは。んな馬鹿な」
冗談だと思い、男は笑った。そんな男を、女傑はじっとりと見つめる。
はあ、と、嘆息し、女傑は頭を抱えた。
「ハク。おまえ、にぶちんやから効果なかったけどな、あいつずっと、露骨にハニートラップ仕掛けとったやろ。女の肉体は武器や。戦地なら、普通にそれは、利用できるただの道具でしかない」
道具。という語彙に、男は気を引き締めた。そばかすメイドに、なんらかの策を仕掛けられていた、という点についてではない。ただ、彼女の育った環境――EBNAでの、あの、おぞましい教育を想起したのである。
「そういう言い方をするな」
「初心なハクには、ちょっと気分悪いかもしれへんけど、それが現実や。やから、必要以上の交流はすんな。ハク、あいつは――『家族』やないやろ」
「…………」
女傑の言うことは、理解できた。現段階でWBOとは、敵対してはいないとはいえ、敵となる可能性はある。そのうえ、少なくとも、友人でも、家族でもないし、現状では、将来的にそうなるとも思ってはいない。であれば、隙を見せるわけにも、いかないのだ。
もちろん、ここまでも、隙を見せないよう、警戒を怠らずにきた。それが達成できていたかはともかく、そのつもりで心構えをしてきた。その気持ちを、男は再度、引き締める。
それでも、わずかの心のつっかえを、残したままに。
*
それから、女傑に誘われて、夕食へ向かった。日本庭園のような美しい情景を望める宴会場だ。流水の音が滴る日本庭園。その中に浮く、四畳半の茶室。そこで舞踊を行うそばかすメイドを眺めながら、日本食と日本酒に舌鼓を打つ。
「日本食ってこんなんなんだな」
男は言った。特段に非難するでも、感嘆しているでもなさそうだ。
「なぁにをカマトトぶっとんねん。ハクは日本人やろが」
女傑は機嫌よさそうに笑った。酔っているのかもしれない。浴衣から片肩をはだけさせ、男に半分、体重を預けている。
「日本人だからだよ。故郷の名産なんて、地元民は意外と、食ってねえんだ」
そもそも、男は、若いころは盗人であったり、貧乏な生活をしてきた。そして成人したころからは、『異本』集めに世界を巡る日々だった。訪れた各国での名物は食したが、なかなか日本食を食べる機会は、なかったのである。
それに……。と、ふと、思う。
あくまで、自分の記憶が日本から始まっているというだけで、けっして、自分が日本生まれであると、男は確信していない。とはいえ、物心ついたときから日本にいたのだから、やはり普通に、日本人だと思う方が可能性は高いのだろうけれど。
少なくとも、両親のことを覚えているわけではない。と、ふと、思った。大人になってからは、忙しさも含めて考えることなどなかったが、それでも、自分にも両親と呼ばれるはずの存在はいるはずだ。いまだ存命かはともかく。
そんな彼らに、会いたいなどとは微塵も思わない。愛情はおろか、憎しみすら湧いてこない。それだけ、印象がなさすぎるのだ。
まあ、いい。と、男は捨て置く。自分の『家族』は、いま見知っている、彼ら彼女らだけでいい。血なんか繋がっていなくても、心の通った、本当の、『家族』だけで……。
そう。無理やり納得するように、男はお猪口をあおった。もやもやする感情もろとも、力ずくで、腹の中に、押し込む。
舞踊を終えたそばかすメイドが、笑顔でこちらに向かってくる。
*
夜。
男が寝静まった後。
「くだらん小細工すんのは、もうやめとけぇや、フルーア」
酒瓶を片手に、女傑がそばかすメイドに、背後から近付く。そばかすメイドは窓際に腰掛け、じっと空を見上げている。細く尖った、三日月を。
「せやねえ。あん者には効果なさそうやし……攻め方を、変えよか」
女傑を振り向き、そばかすメイドは、不敵に、笑う。
「フルーア」
「冗談やん」
からからと、そばかすメイドの笑いは、軽薄に変わった。
ひとしきり笑い、落ち着く。それから、真剣な眼差しへ。
「けんど、おもろい男やなあ。氷守薄。あんな平凡な男が、信じられへん偉業を為しつつある。それも、ご本人ぜんぜん、自覚あらへんやん」
ほんにけったいやわあ。そう言って、そばかすメイドは、目を細めた。三日月のように。
それは、獲物を見据えたときの、猫の目のようだった。
「おまえ、ハクに手ぇ出すなら、うちも本気で、おまえを殺すで」
女傑は逆に、瞳をかっ開き、そばかすメイドを見下ろした。いまとなってはたったひとつ、残った隻眼で。その片割れを奪った、相手を。
「ほんま、パラちゃんは怖いわあ」
冗談みたいに言って、そばかすメイドは、口角を上げた。それから、数秒、彼女らは見つめ合い、やがて、そばかすメイドの方から、目を逸らす。
目だけでなく、顔もそむける。女傑が声をかける前と同じように、彼女は、月を見上げた。
「言葉の裏なく、ちゃあんと、案内はすんわ。リュウ様からも言われとる。安心せえ」
そう言うと、彼女は天へ、腕を伸ばした。その月を、掴もうとするように。
その姿に、哀愁を感じる。WBOを敵とするかはともかく、そばかすメイドは、女傑にとって、まぎれもない敵だった。一度、本気で殺し合った。そのときに、片目を奪われた。それ以外でも、ずっとずっと、いがみ合ってきた。
それでも――それゆえに、長く、多く、感情を交わし合った。その結果、好敵手に好感を抱くような、親近感も抱いてしまっている。そしてそれが、女傑には嫌ではなかった。
だから、……きっと、これが、最後なのだから。と、思う。
最後に、少しくらい穏やかに、酒を酌み交わしてでもおこうか、と。
持つ酒瓶に、力を込め。彼女の悲しそうな背中を見て。月に手を伸ばす、その姿を見て――。
女傑は、肩を落として、部屋に戻った。酒瓶を傾け、ひとり、飲む。
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