箱庭物語

晴羽照尊

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台湾編 序章 ルート2

ひとりとひとりのランデヴー

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 台北南部、文山ぶんざん区。

 台北MRT――台湾における地下鉄――の終点、動物園駅。その名の通り、駅そばには『台北市立動物園』という、広大な動物園がある。その大きさ、東京ディズニーランドの二倍。これは、東南アジアで最大の広さである。昆虫館やコアラ館、ペンギン館から、地元台湾の動物を集めたエリアや、大人気のパンダも飼育されている、高名な動物園である。

 が、今回の目的地はここではない。この動物園駅からほど近いところに、『猫空マオコンロープウェイ』という、全長四キロ越えの、ロープウェイがある。これに乗り、約三十分。丘陵地帯である文山区の、小高い丘の上に広がる、猫空へ到着する。

 クリスタルキャビンと名付けられた、足元が強化ガラス張りになっているロープウェイに乗り、景色を楽しみながら登る。『台北101』がある信義区、その高層ビル群が広がる都会と接した文山区であるのに、少し丘を上れば、見渡す限りの緑が広がる。この地域は、鉄観音茶の名産地なのである。

「…………」

「…………」

 黙って、いた。男はともかく、なかば強引にふたりきりのデートにもつれ込ませた、メイドまでもが黙っていた。

「……いい、景色だな」

 男が言う。

「は、はい……」

 メイドが応えた。

 つまるところが、緊張、していた。いくらいまでは男にぞっこんとはいえ、これだけ強引にふたりきりになったことなどない。いや、そもそも、エディンバラ以降、男とメイドがふたりきりというシチュエーション自体が、ほとんどなかったはずである。
 だから、緊張、してしまっていた。メイドは、緊張していた。本当に、自分自身では抑えきれないほどに、心臓が跳ねている。別段、愛の告白でもしようなどとも、まったく思っていない。どころか、特別、大切な話をする予定もない。ただただ、そばにいたいだけ。それだけで男を連れ出したのだというのに、そうとは思えないほどに、緊張、していた。

「あぁ……なんだ。……久しぶりだな?」

 間が持たずに、男は無駄な会話を――雑談を、振る。

「はい……」

 淡白な返答。しかし、男の片腕にまとわりつくメイドの腕に、少し、力がこもった。

 長く離れた時間を、取り戻すように。あるいは、もう離さないと、そう言いたげに。

 こんなときに限って、約五人が乗れるロープウェイには、他の乗客がいなかった。沈黙が長く支配する移動時間を、カタカタと、規則的に鳴動するロープウェイの音だけが、やけに大きく響いていく。

        *

 約三十分の移動を終え、猫空の地に降り立つ。ずっと眺めていた景色同様、見渡す限りの自然が広がる。だが、観光地としても有名なスポットだ。行きのロープウェイにこそ誰も乗り合わせていなかったが、ちらほら、観光客らしき人々が見える。

「えっと……どっちだろうな……。……あっちか?」

 悪い段取りで、男がエスコートする。珍しいことだが、実のところ、この場所へのデートを選んだのは、男だった。メイドは、男をなかば強引に、他の者たちから引き離した後から、ずっともじもじしていたから。仕方なしと、男がプランを立てたのである。

「どうした、メイ。行くぞ」

 しどろもどろながらも、あたりをつけ、歩き出した男だったが、連れがついてこないので、すぐに声をかけた。

「あ、はい! 申し訳ありません」

 呆けていた彼女は、声をかけると慌てて、男のそばまで駆け寄った。

 メイドは、緊張、している。その自覚が、ようやく湧いてきたところだった。ここまでの道中では、ただどぎまぎする感情に振り回されていたが、それをようやく、意識できたのである。

 しかし、客観的にそれを理解してみて、どこか、精神と肉体が乖離したような、浮遊感を感じていた。緊張はしている。男の声がするたび、体が跳ね、男の顔をうまく、直視できない。それなのに、体は彼のそばにいたいと、強欲に欲し、たじろいでしまうことを解っていながら、そばに寄ってしまう。彼の腕を取り、身を寄せてしまっていた。

「…………」

 だから、男も判断に困る。距離を取られ、拒絶されるなら、機嫌を損ねたのだと理解しただろう。しかしいまは、言葉数が少なく、態度もそっけないのに、力強く腕を絡めてくる。そばに寄って、体を触れさせてくるのだ。少なくとも、悪感情は抱いていないのだろう。であるなら、どうしていつものように、凛とし、はきはきと語らないのか。なぜ常に伏し目がちで、頬を染めているのか。そこに理解を及ぼせないのである。

 いや、もしかしたら……という、漠然とした予感はあった。しかし、それを具体的にイメージするには、男は卑屈過ぎた。いや、男が、というより、男のこれまでの人生が、卑屈だったのだ。

 だから、そのうちなんか、なんとか事態が好転しやしないかと、適当で、曖昧な、願望だけを抱え、捨て置いた。気の利いた言葉も言えやしない。紳士的な立ち振る舞いも、できやしない。

「まあ、せっかくだから、茶でも飲もうぜ。ついでに昼飯だな」

 時刻は昼をだいぶ過ぎていたが、遅めの昼食だ。朝食は北投の温泉宿で、割と豪華に食べてきたので、男としては、これくらいの時間で、ちょうどよく腹が減ってきたタイミングでもあった。

「はい」

 相も変わらず、端的に、メイドは答え、男と歩調を合わせる。

 やりづれえな。男はそう思い、あいた手でボルサリーノを押さえ、小さく嘆息した。

        *

 せっかく茶葉の名産地ということで、それにちなんだ食事を男は選んだ。茶葉を用いた料理――聞くだに珍しいが、この日は、茶葉入りのチャーハン、茶葉入りのオムレツ、茶油で揚げた唐揚げ、茶葉の天ぷら。とにかく、茶葉に関するらしい料理をいくつか注文し、こちらも産地物として、台湾ビールを注文する。

「じゃあまあ、食うか」

「はい」

 さすがにカフェでは向かい合って座り、軽くビールのジョッキを合わせる。男は緊張からか、その一杯をほとんど一気に飲み干した。

 茶葉料理は、どれも予想を裏切るほどのものではなかった。茶葉の風味がする――ような、しないような、ほのかに香る程度の、普通のものだ。だが、そのぶん癖もなく、きりっとした爽快感があり、苦みも弱めな台湾ビールと合わせると、ぐいぐいと食べ進められた。それゆえに、ビールも、進む。

 いつの間にか、男はビールを、四杯も飲み干していた。料理もほとんど食べ終え、水連菜のガーリック炒めや茶葉入りの小籠包までいただき、さらにビールを飲む。

 メイドも、口数こそ少ないものの、飲食は進んでいるようだった。男に合わせている部分もあったのだろう。彼女もたしかに酒豪だが、すでに三杯は飲み干している。緊張を紛らわす意味合いもあるのかもしれないが。

「食べやすいからか、つい食いすぎたな」

 一通りの飲食を終え、最後に木柵もくさく正叢せいそう鉄観音茶をいただく。ちなみに『木柵』はこのあたりの地名であり、『正叢』とは正統派という意味合いである。

「ええ、お腹いっぱいです」

 にこやかに言う男に、メイドも、やや柔和になった様子で、答えた。アルコールの助けもあったのかもしれない。外見には、さして膨れているようにも見えない腹部を、妊婦のようにとろんとした目で、見つめている。

 ややの隙に、ふたりはシンクロして、台湾茶を啜る。烏龍茶のような味わいに、フルーティな香りが混じっている。だが、軽く酔った男には、他のお茶との違いなど、まったくもって解らなかった。

「たまにはこうして、まったりするのもいいもんだな」

 なんの気なしに、男は言う。それは心からの、本音だった。

「ええ。……あの――」

 メイドは、台湾茶の入った湯呑を置き、男を直視する。台北で会ってのち、彼女が男に、これだけまっすぐ視線を向けたのは、初めてかもしれなかった。

 だから、男は眉を上げて、姿勢を正す。

「なんだか、変な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした。もう、大丈夫ですので」

 言うが、その声には覇気がなく、また、頬もまだ、少し赤らんだままだった。いや、それはアルコールのせいかもしれないけれど。ともあれ、まだ本調子には見えなかったが、メイドがそう言うなら、そうなのだろう。そう思い、男も、気にしないこととする。

「ああ。気にしてねえ。楽しんでくれてるならいいんだ」

「はい。楽しい、です。……本当に、楽しくて、幸せです」

 メイドは、語尾に向かうにつれ、徐々に衰えていく声音で、そう言った。せっかく直視した視線も、だんだん下がっていく。
 だから、男にも照れが移って、彼も軽く、頬を掻いた。

「じゃあ、まあ、……行くか」

 立ち上がる男に、メイドは自然と、体を寄せ、腕を絡める。

 男はこのとき、彼女のその仕草に、いままでにないくらいの狼狽を覚えた。それでも、努めて平静に、歩く。

 そろそろ日が、暮れ始めた。


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