箱庭物語

晴羽照尊

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台湾編 序章 ルート3

郭公の托卵み

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 ぎゅっ……、と、ワンピースの裾を、両手で握る。覚悟は、したつもりだ。しかし、貴人のもとへ歩み寄る足は、震えてうまく動かない。

「おい、ノラ。無理すんな。奪うことはしたくない。だからって、いますぐ交渉に乗る必要はないだろ。いったん落ち着いて、後日――」

 丁年が声を上げるが、少女は首を振る。

「ここで逃して、次があるとも限らないわ。それに、一度でも視線を逸らしたら、それだけでもう、二度と見付けることすら、できないかもしれない」

 さきほど、一瞬だけ取り乱して、瞬間だけ視線を外してしまった。それだけで、次に見付けるのにだいぶ苦労をした。もしかしたら、少女ほどの卓越した目がなければ、その時点でもう、二度と見付けることはできなくなっていたかもしれない。

 現に、紳士はどうやら、いまだに貴人を目視できていない。さっきからずっと黙っているが、ひとりだけ貴人を視認できずにいて、状況に置いてけぼりにされているからでもあるのだろう。

 貴人の、その、あまりに薄すぎる気配は、どうやら体質だ。ゆえに、いまの少女で無理なら、きっと誰にも、彼を、見付けようと思って見付けることは不可能である。そう、少女は判断した。

 ちなみに、丁年が貴人を知覚できているのは、少女と貴人とのやり取りを発端に、視覚を向上させる『異本』、『ベェラーヤ・スミャルチ』を用いて、ようやっとかすかに、見えている、という程度のことである。ところでこの『ベェラーヤ・スミャルチ』。本来ならモスクワでの一件が終わったのちに、男に渡されるものであったはずだが、丁年はなんやかんやと、いまだ己が自身で取り扱っていた。
 先に少女が貴人を見付けていなければ、『異本』を用いたとて視認できなかったろうし、それだけのおぜん立てがあったうえで、いまだに彼は、薄ぼんやりとしか貴人を、見付けられていない。つまりは当然、丁年としても、一度視線を外せばもう二度と、彼を見付けることは不可能だろう。

 それを、丁年自身も解っているから、彼は言葉を噤んだ。噤もうとした。

「ノラっ!」

 だが、少女を止めたい思いは、理屈じゃなかった。それゆえに、理屈じゃない声を、上げる。

 しかし逆に、その声を聞いて、少女は落ち着いた。冷静に、理屈をこねることができた。

「敵対していない以上、力で奪い取るのは、なしよ。そして、彼に限っては、交渉材料は、わたしの下着のみ。ふう……。参ったわ。完全に詰んでるもの」

 理屈――とはいえそれは、言い連ねてみれば、驚くほどのシンプルさだった。それゆえに、一部の隙もない。裏をかくのも、虚を突くのも不可能だ。
 そのように、少女は諦める。そもそも気付かぬうちに、何度も見られているのだ。貴人の言う通り、減るものじゃない。いいじゃない、パンツくらい。そう、少女は思って、なんとか一歩を、踏み出した。

 まだ足は、震えたまま。

        *

 二歩目に足を上げて、それをおろす間に、ぐい、と、手を引かれた。

「ノラ」

 振り返ると、そこには紳士が、いた。

 いや、『いた』といっても、それは、ずっと前からだ。だいぶ長いこと言葉を発していなかったが、ちゃんと少女のそばにいて、事態を見守っていた。状況の把握もできていないままに会話に参加することは避け、それでも、少女が貴人から飛び退き怯えたときには優しく、静かにそれを受け入れた。ただ、それだけにそこにいて、彼も、自分になにかできないかを窺っていたのだ。

 それが、満を持して、動いた。彼はいまだ貴人の姿を見てもいないし、声に関してもおぼろげにしか聞いていない。だが、少女や丁年の言葉から、なにかを理解しかけていた。

 まだ、理解していない。そのままで、少女を制止する。

「ヤフユ」

 貴人を視界から外さないように、顔半分だけ紳士を振り向き、少女も、彼の名を呼んだ。半分しか見えない表情からだけでも、紳士は、少女の内心にある葛藤を読み取った。紳士は決して、他人の感情に聡いわけではないが、ここ一番というときには鋭く、的確にその心を悟るようなタイプだった。

「あなたは気にしなくていいわ。なにも問題ないの」

 少女は、軽く笑って、言った。少女の慧眼からでは、紳士が、まったく貴人を認知できていないことは自明だった。丁年だけでもなだめるのに面倒なのだ。そこに紳士の反対も加わると、少女の意思も揺らがされてしまう。それは避けたかった。

「ノラ。わたしは、状況を

 紳士は、強く印象付けるように、そう言った。
 そして、不意に一歩を踏み出す。貴人の要求に従い、彼に進み出た少女。彼女をもさらに追い越し、玄関へと歩みを進める。紳士は、貴人を視認していない。だから、、どしどしと足を踏みしだき、、進んだ。

「ふう……」

 と、立ち止まり、息を吐く。
 わたしは知らない。なにも知らない。そう、言い聞かす。それは半分本当で、半分が嘘だった。

「うおおおおおぉぉぉぉ――――!!」

 叫びを上げ、邪念を吹き飛ばす。

 紳士は、。だが、少女や丁年の言動から、状況を理解しかけていた。その理解を、吹き飛ばす。

 狂乱に、足を踏みしだき、腕を振り乱し、暴れる。

 紳士は、紳士然と生きてきた。亡き父を手本に、悠然と、泰然と、常に冷静沈着に、格好よく、と、志して生きてきた。

 だから、そんな幼稚な挙動、まったくもって。それゆえに、さらに幼稚に、手慣れぬ不格好に、ただただ無心に、暴れた。理性的にしていては、気付いてしまうから。少女や丁年が、理性的に選択肢から外した、暴力の行使を諦めてしまう理由に、気付いてしまうから。

「うちの嫁に、なにしてくれるんだっ――!!」

 そこからあえて目を逸らして、愚昧に、暴力に訴えた。理性で敗北しつつあった少女を――嫁を、守るために。

        *

 一分。二分、三分――五分と、紳士は暴れ続けた。そのような幼稚な行動以前に、暴力などというものすらほとんど縁がなかった彼が、一心不乱に、意識して頭空っぽのまま、暴れた。それは、彼に近しい者たちから見ては、相当に幻滅すべき暴行だった。
 彼の目的を察してはいても、少女も、丁年も、声を荒げて紳士を止めた。だが、一向に制止を聞きやしない。本当に、気でも違ってしまったかのようなその奇行が止まったのは、たっぷりと五分、暴れた後だった。

「はあ……はあ……。はあ……――」

 本当に力いっぱい、暴れることに終始していたのだろう。加減ない暴動は、紳士の体を限界まで酷使していたようだ。もとより彼は、体力的に、一般的な成人男性より劣っている。
 それでも、大きく体を俯けたまま、だけは少女へ向けて差し出す。貴人が持っていた、最後の『異本』。その二冊。



 変化を回帰させる『異本』、『嫋嫋縷縷じょうじょうるる』。

 そして、才能を開花させる『異本』、『マラトンの茎』。



 少女の目でも、その存在すら確認できなかった、最後の二冊。それを紳士は、力ずくで、暴力的に、貴人から奪い取ったのである。

「なに……やってるのよ」

 少女は、いまだあっけにとられたまま、紳士の差し出す『異本』を受け取った。その声には、怒気すら宿っている。

「知らないね。わたしはふと思い立ち、玄関で暴れていただけだ。特段の意味もなく」

 紳士は素知らぬ顔で、俯けていた顔を――上体を、起こした。やり切った、清々しい顔――ですら、ない。事後であるとはいえ、そこに感情を抱くことは、その行動に意味を与えてしまいかねないから。かもしれない。もしさきほどの狂乱に意味が生まれてしまえば、やはり少女や丁年、紳士自身の思惑に反する。『異本』蒐集に際して、理不尽な暴力を極力排したい、という、矜持に。

 どういうふうに追い込まれたのか。それを紳士は、本当に解っていない。だが、それでも少女が――自らの嫁が、穢されようとしている。それは解った。理解して、どうにかしたいと思った。
 葛藤は、あった。それでも、紳士にはこういう行動しか、思い付かなかった。そしてそれは、恥も外聞も捨て去れば、実行できることだった。

 若者の――自身の父の生きざまを真似るには、まさに対極ともいえる一手だった。尊敬し、羨望し、目指してきた振る舞いとは、まったくの別物だった。

『きみは、ぼくの代わりにはなれない』

 父、稲雷いならいじんの遺言だ。それを意識したからではないが、本当にその行動は、彼とは程遠い。それはどちらかというと、少女の父親、氷守こおりもりはくのような、そんな行動だった。

 本当に無様で、格好悪く、見れたものでもない醜悪な一手だった。それでも、目的だけは達成している。

「ああ……もうっ!」

 そんな紳士の覚悟を読み取ったからこそ、少女も、強く悪態をつけなかった。そもそも、すべては自分の責任だ。どうやら伸びてしまっている貴人を、その存在を察知できなかった、それゆえに、追い詰められてしまった、己の責任。そう、少女は思って、地団太を踏む。
 その勢いのまま床を蹴り、紳士の胸に飛び込む。強く強く押さえつけていた震えが、思い出したように蘇る。だから、腕に力を込めないと、へなへなとへたり込みそうだった。

「ハクから悪影響受けるのは、もうやめてよね」

 そう、切に願う言葉を、伝えた。

 本当にもう、紳士のあんな、格好悪い姿は、見たくない。切に切に、少女は思った。


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