箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
上 下
323 / 385
台湾編 本章 ルート『暴食』

ハコニワノイシ

しおりを挟む
 1989年、九月。イタリア、エミリア=ロマーニャ州、ボローニャ県。
 ボローニャ大学。

「ぐー。すぴー。ふにゃー」

「……おい、てめえ……毎度毎度――」

 震える拳を握り締め、『先生マエストロ』は言う。
 いつも通りに拳骨を振り上げ、叱ろうとした。

『人間。この身は方今ほうこん、我が入れ物である』

 だが、容易に拳骨は防がれる。不可思議な感触だった。なにものも彼の拳を妨げてはいないのに、けっしてその先へは踏み入れられない。精神を惑わされてでもいるのか、自ら拳を止めたかのよう。だが、どれだけ意思を強く持とうと、やはり拳は、彼女から一定の距離を保ち、その先へ進めない。まるで、金縛りにでもあったようだ。そう、『先生マエストロ』は感じた。

『良い。環境は許容しよう。だが、我に危害を――』

「またかこのボケええええぇぇぇぇ!!」

『ぐわああああぁぁぁぁ――――!!』

 若女は、いきなり叫んだかと思えば、己が顔面を殴り飛ばし、それはもう飛んで、吹き飛んだ。声音を目まぐるしく変えて、ひとり芝居――というか、気でも違ったかのような行動を取る。

「私が寝てる隙に、何度も何度も、勝手に外に出るなって言ってるでしょうが! そのせいで寝不足よ! 私!」

 ぷんぷん! 鼻血を流しながら凛とした顔で、若女は言った。怒ってはいるが、どこか楽しそうでもある。

『人間。なんじ、我を――』

「ふんっ!」

『ぶふうぉっ!』

 若女のものとは思えない、低い声が、自身の手で両頬を思い切り叩き、醜く表情を歪めながら、盛大に唾を吹いた。

「なんかいじわる言おうとした! そういうの解るんだからね!」

 壁に向かって指差し、憤慨して抗議する。それからうにうにと自身の両頬をつねり、彼女はやはり、面白い顔をした。
 ややあって――。

「……! あっ! いなくなった! もう! もうもうっ! 困ったら引きこもるのズルっ! やーい、ばーか! ばーかばーか!」

 ふん! と、そっぽを向いて、つかつかと彼女は、席についた。

「じゃ、おやすみ。『先生マエストロ』」

 ぐー。すぴー。ふにゃー。と、即座によだれを垂れ流し、無防備に眠ってしまった。『先生マエストロ』は拳を持ち上げる。しかし、さすがに起こそうとはもう、思えなくなっていた。

 この責任の一端は、自分にある。そう、思うから。

        *

「……最近、寝過ぎじゃないですか、シンねえさん」

 昼食ののち……とはいえ、幾度もあくびを漏らしながら歩く彼女に、才女は心配そうな目を向ける。

「うーん。私が寝たら、なにかしてるっぽいんだよね、イシちゃん。だからあんまり夜、寝れなくて」

「イシちゃん?」

「うんうん、イシちゃん。たぶん石の精霊かなんかでしょ、あれ」

 そう言って、若女は自分を指さした。それから、「あれっていうか、これね」などと、眠そうに言い直す。

 才女は、シリアでの出来事を思い起こした。あの、『石板』。それから彼女に取り憑いた、人格。……いや、その存在は、人間のそれではない。その『意思』は、さらに高位の、存在のようだった。

『石の精霊ではない。我は、天稟てんぴん天与てんよの化身』

「うわっ! イシちゃんだ!」

『否。我は――』

「イシちゃん! シンねえさんの身体から出てってください! 私は怒っていますよ!」

 ぷんぷん! 才女は、尊敬する若女の真似をして、怒りをあらわにしてみた。

『……。受肉は、六合の再編に必要な行程。未だこの身は必須』

「……よく解らないですけど、あなたは目的を果たせば、シンねえさんから出て行くってことですか?」

『然り。但しどわああああぁぁぁぁ――――!!』

 唐突に、その存在は、己が取り憑いた人体によって殴り飛ばされた。

「いけないいけない。ちょっと寝てた。……もうっ! 私の身体で、難しい言葉使うのやめてよね! きゃーシンねえさん知的で素敵! とか、ゾイちゃんが思ったらどうするの!」

「あ、思わないから大丈夫です」

「思わないらしいよばかやろー!」

『汝が精神は頑強に過ぎる。又、奇態且つ梼昧とうまい

 語尾に、『うにに……』と声と頬が伸びる。

「難しい言葉使うなつってんだろうが。それと、褒めるならちゃんとちゃんと、褒めてよね」

「シンねえさん、たぶん微塵も褒められていません。それと、めっちゃ注目集めるからひとり芝居やめてください」

「ひとり芝居じゃないの! ないないの! ごめんねうちのイシちゃんが。一緒にいて恥ずかしかったら距離取ってね」

 少し寂しそうな顔で、若女は言った。

「いやですよ。私、シンねえさんと一緒にいたいですし」

 すました表情で、才女は言う。だが、その頬はまるで、つねられたように赤くなっていた。

「はわはわぁ……。ゾイちゃんかわかわ! もうっ! キスしていい?」

 言いながら、彼女はすでに、キスしている。

「そういうのは、ヨウ先輩にしててください」

 邪険そうにするも、強く抵抗しない。それが無駄だということも知っているし、それに、言葉や顔ほど、嫌がっていないから。

「リュウくん最近冷たいの。ひえひえ。あーでも、ゾイちゃんあったか。ぬくぬく」

「人で暖をとらないでください」

 むしろ、暴れたり自分で自分を殴ったり、身体が火照っているのは彼女のほうだ。それを思うと、いたたまれない。だからそれを押し返して、才女は、嘆息する。

 彼女に呆れたのではない。呆れたとすれば、自分自身。あるいは、自分たち。
 なにもできない自分たちに、才女は、辟易したのだ。

        *

 ふわあぁ……。と、あくびをして、才女は部屋に入る。彼女も――彼女たちも、最近あまり、眠れていない。

「おお、おちびさん。どうだい、シンファの様子は」

 仮眠につきかけていた美男が、眠そうに言った。艶のある紅色の長髪が、わずかにくすんでいる。

「ラージャン。おちびさんはやめてください。まあ、言っても無駄でしょうし、いいですけど」

「それで?」

 眠気で、おそらく少し、頭が回っていない。ソファにもたれ、うとうとしかけている彼に、才女は、端的に話すことにした。

「シンねえさんが寝てる間に、イシちゃん、なんかしてるみたいだって」

「イシちゃん?」

「あの人格を、シンねえさんはそう呼んでました。石の精霊だとか……あ、でも本人は、天稟天与の化身だとか、言っていましたね」

「天稟天与、ねえ」

 まどろみに思考を沈めて、美男は目を閉じた。寝かせておこう。そう、才女は思う。どうせ伝えられることは、これくらいだ。
 毛布でもかけてやろうかと、周囲を見渡す。ラックに置かれたダンボール箱の中に、それはあった。

「おつかれちゃん。クレマンお戻りー? じゃあ、うち代わるわー」

 奥の部屋から、テンション高めに、子女がやってくる。テンションも声もハイだが、その表情には、わずかの疲労が見てとれた。

「しー、静かにしてください。ラージャン、寝たとこです」

 才女が口元にあてた人差し指、そして、それを続けて向けた相手を見て、「なるへそ」と、子女は声を落とす。

「とにかく、フアたんの様子は、うちが見とくわ。……なんか報告ある?」

 端的な質問に、端的に情報共有する。「ん」、と、短く了解して、子女は外へ出た。見送ってから、美男に毛布を掛ける。そうして、今度は才女が、奥の部屋へ。

「ヨウくん。シンねえさんに会ってないんですか」

 入るなり、才女は棘のある声で、そう言った。

「報告を聞こう、ゾーイ」

 質問には答えずに、若男は言う。
 呆れて、それでも、才女は言うべきことを、言った。あくびを噛み殺して。

「天稟天与……」

「つまりは『才能』、って、ことですよね」

「…………」

 なんとも応えずに、若男はただ、に向き合ったままだ。
 あの日、数週間前に、シリアのあの発掘隊から、なかば強引に借り受けてきた、『石板』。太古の知識が詰まった、それは、だと、想定された。

「あ」

 と、もうひとつ思い出して、才女は声を上げる。そばのソファで寝落ちしかかっていた『先生マエストロ』が肩を震わせ、顔を上げた。

「そういえば、シンねえさんの身体を借りてるのは、なにかに必要だからとか。なんだったかな……六合の、再編?」

 たしかに、難しい言葉を使われると敵わない。うまく記憶に定着しない。才女は眠気も相まって、頭痛さえ覚えながら、記憶をひねり出した。

「六合……つまりは、『世界』の再編か……」

先生マエストロ』が言う。その言葉に、若男が拳を握るのを、才女は、自身の低い視点から、見た。

「休め、リュウ」

 それを見かねたのか。それは解らないが、『先生マエストロ』が彼の肩を叩く。

「いえ、眠くありません」

「だったら、シンファの様子でも見とってやれ」

「それはいま、リオが行っています」

 はあ、と、『先生マエストロ』が嘆息した。それから、才女にちらりと、目を向ける。

「シンねえさんが寂しがってましたよ、ヨウくん。『リュウくんひえひえ』、だって」

 わずかに肩を落として、若男は頭を搔いた。

「……少し、眠ります。頭が働かなくなってきた」

 そう言うと、彼は隣の部屋に、そそくさと行ってしまった。才女が続けようとした言葉から、逃げるように。

「まあ、気持ちは解らんでもない」

 言って、『先生マエストロ』が若男の代わりに、『石板』に向かった。

「解らんでもないんですか」

 わずかに蔑むような目を向けて、才女も、更新されている資料に目を通す。
 だがはたして、若女を蝕む存在の研究は、やはり進捗が芳しくなかったけれども。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

婚約破棄させてください!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,276pt お気に入り:3,020

見習い陰陽師の高校生活

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:32

異世界ダンジョン経営 ノーマルガチャだけで人気ダンジョン作れるか!?

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:249

欲しいものはガチャで引け!~異世界召喚されましたが自由に生きます~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:49pt お気に入り:5,171

浮気の認識の違いが結婚式当日に判明しました。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:5,459pt お気に入り:1,218

処理中です...