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台湾編 本章 ルート『正義』
夢の足跡
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1992年、三月。台湾。
結局、丸一年以上は、また忙しなく過ごした。子どもを育てることが、こんなにも大変なことだとは、やはり若男の、想定を超えていたのだ。
まず、寝てくれない。お昼寝もたくさんしていることから、夜にちゃんと寝てくれなかった。寝かしつけるにも夜泣きして大変だし、やっと眠ったと思えば1~2時間ほどで起きて、また泣く。
「ほんと、元気元気、いっぱい! はあい、大丈夫、大丈夫よ。ママ、ここにいるからね」
だが、そんな睡眠不足の中でも若女は、子どもよりも元気そうに、なにより嬉しそうに、子をあやすのだった。
お風呂も、大変だ。シャワーが怖いのか、お風呂に入れようとするだけで泣き始めるし、強く抵抗するから、体を洗うのも一苦労だ。
「もう、そんな暴れても、綺麗綺麗にするんだからね! ママを舐めるなよ、ごらあ!」
そんな手のかかる子に対しても、若女は根気よく接した。自分の時間を、すべて育児に、家事に捧げる。若男も大いに手伝ったが、それでもよほど、彼女の方が熱心だった。
そうだ。まだ、考えが甘かった。そう、若男は痛感した。金や、時間や、効率。まだ事業を始めていないゆえに、若男も多くの時間を、育児と家事に費やせた。母一人で育児するわけでもない。自分たちはよほど、他の家庭より余裕がある。
それでも、懸命にやっても、まだ足りない、労力がかかった。普通に考えれば解ったはずなのに。子どもが――人間がひとり、増えるのだ。自分自身の面倒をまったくみられない人間が、生まれ落ちるのだ。その負担は、当然と両親へ、乗っかる。普通のことなのに、その重みを、若男は軽んじていた。
なによりも、愛する人を独占されることに、若男は思い当たっていなかった。その感情は、間違っている。そう言い聞かせるけれど、それでもどうしても、嫉妬してしまうのである。
エディプスコンプレックスの、逆だ。若男は生まれたばかりの自分の息子に、母親を――若女を奪われるような恐怖を、感じたのだった。
「シンファ――」
思わず、若男は育児に追われる若女の、その背中に、抱き着いた。
「あ……。あらあら、こっちにもおっきな子どもがいたんだった。えへへ。ママ忘れてた」
子をあやす手はそのままに、彼女は彼のことも、小さくあやした。
「……疲れてないか、シンファ」
「疲れてるのはリュウくんでしょ。大丈夫だから、寝て?」
少しだけ皴ができた目元に指を滑らせ、若男は嘆息する。
「隈ができてるぞ。俺が面倒を見るから、おまえが寝ろ」
「うそ!? 気を付けてたのに! のに! む~ん!」
そんな可愛らしい彼女を、息子ごと抱え上げ、若男は寝室へ向かった。
「ちょ……リュウくん! ジャーくんの前で恥ずかしいでしょ! ママとしての威厳が――」
「知らん。とにかく寝ろ。ジャーくんは俺が預かる」
「なんだと! 身代金はおいくら!? おっぱい揉ませればいいの? いまなら母乳も出るよ!?」
「残念ながら、揉むほどないな」
「うきー! これでもジャーくん産んで、おっきくなったんだからね! ほれほれ、揉んでみ?」
腕の上で暴れる若女を、ベッドへ降ろし、嘆息する。元気だ。元気すぎる。どこかで爆発しそうなほど、若女は忙しなく、騒がしい。
そんな状況にしてしまっている自分自身を恥じた。だが、とはいえ他に、なにをどうしていいかも、若男には解らない。
だから仕方なく、その口だけを、塞いでおく。両手は、息子を奪うのに――彼女から引き剥がすのに忙しい。だから、口で、口を、塞いだ。
「……また今度な。いまは、寝ろ」
育児も、家事も、多く手伝ってきた。だがそれでも、抱え上げた命の重みに、まだ、委縮する。母親を求めて、普段以上に暴れる、己が息子に、わずかに腹を立てた。
その感情は、生物としておかしい。自分の子だ。子孫繁栄の、その一環だ。喜ばしいことだ。と、若男は自分に、言い聞かせる。
そうしなければ自分を保ってもいられない。やはりここでも、自分は落ちこぼれだ。それでも――。
「近々、ハネムーンにでも行こう。卒業祝いにも、結婚祝いにも、どこにも行けてないからな」
寝室の照明を落として、若男は言った。「わ! 楽しみ楽しみ! どこ行く? どこ行く!?」。興奮して若女の眼が冴えてしまわないうちに、「寝ろ」と、若男は扉を閉めた。
――あいつと一緒なら、全部、大丈夫だ。そう確信して、若男は、息子を懸命に、あやした。
*
――で、向かった先が、なぜだか結局、台湾だった。
「本当に、こんなところでよかったのか?」
「こんなところ!? 私の故郷を馬鹿にするの!?」
冗談っぽく目を吊り上げる若女に、若男は苦笑した。
「地元だろう。せっかくのハネムーンだ。もっと――」
「いいのいいの。私、安心するところ、好きだし」
それに関しては若男も同意見だった。それに、学生時代に彼女とは、いくつか国を旅している。逆にこういうのも悪くないかもな。と、いとも簡単に、若男は思った。
「それに、ジャーくんにも私の故郷、見てほしかったし」
そして容易く、若男の機嫌は少し、落ち込んだ。彼女の腕に抱かれる男性に、どうしても嫉妬する。
「あっ! 天燈! 飛ばそうよ、リュウくん!」
「俺がジャーくん預かるから、おまえがふたり分――いや、三人分、飛ばせ」
大義名分を得て、若男は彼女から、息子を引き剥がす。子どもみたいに駆けて行く彼女を見送り、ぐずりだした息子をなだめる。
こうして、十分では、天燈を飛ばした。
「『ジャーくんが、素直でまっすぐ、いい子に育ちますように』」
「…………」
「『あと、リュウくんとずっと、ラブラブでいられますように』」
「……それは、書かなくてもいい」
その言葉に、若女は、笑った。
台北、文山区、猫空。
「うわあ……高いよ、リュウくん」
「そうだな。……ちょっとジャーくん貸せ」
「はいはい。……ジャーくん。パパが抱っこしてくれるって」
「ほら、ジャーくん。地面が遠いぞ。落ちたら大変だな」
「ちょ……こら! リュウくん! なにジャーくんいじめてんの! 怒るよ! ぷんぷん!」
幼稚な嫌がらせに、若男は恥じ入った。
信義区。夜市。
「あ、あれも! それも食べたい! あっちの! あれあれ、昔から好きなんだぁ」
「どれだけ食う気だ」
「ちょっとだけ! 余ったら余ったら、リュウくんが食べるから心配してない!」
「心配してくれ」
その夜はふたりして、食い倒れた。
そして、北投区。日勝生加賀屋。
「わあい! 温泉温泉! 貸し切り貸し切り!」
「騒ぐな。子どもか」
「騒ぐよ! 子どもで結構だもん! ほらほら、ジャーくんも行くよ!」
「おい。ジャーくんはまだ……って、遅かったな」
「あらあら、もう、元気元気、いっぱいなんだから」
「……おまえのせいだ」
元気に転んだ息子を、抱き上げた。
どれもこれも、なにもかも。若男にとって、人生で、最高の思い出だ。
彼は、いまでも想起する。思い出して、無意味な後悔に苛まれる。
あれだけの幸福があったから、バチが当たったんだ。そう、思ってしまうのだ。
そして、それを認めるように、彼の人生で最大の不幸が、もう、すぐそこにまで、迫っていた――。
結局、丸一年以上は、また忙しなく過ごした。子どもを育てることが、こんなにも大変なことだとは、やはり若男の、想定を超えていたのだ。
まず、寝てくれない。お昼寝もたくさんしていることから、夜にちゃんと寝てくれなかった。寝かしつけるにも夜泣きして大変だし、やっと眠ったと思えば1~2時間ほどで起きて、また泣く。
「ほんと、元気元気、いっぱい! はあい、大丈夫、大丈夫よ。ママ、ここにいるからね」
だが、そんな睡眠不足の中でも若女は、子どもよりも元気そうに、なにより嬉しそうに、子をあやすのだった。
お風呂も、大変だ。シャワーが怖いのか、お風呂に入れようとするだけで泣き始めるし、強く抵抗するから、体を洗うのも一苦労だ。
「もう、そんな暴れても、綺麗綺麗にするんだからね! ママを舐めるなよ、ごらあ!」
そんな手のかかる子に対しても、若女は根気よく接した。自分の時間を、すべて育児に、家事に捧げる。若男も大いに手伝ったが、それでもよほど、彼女の方が熱心だった。
そうだ。まだ、考えが甘かった。そう、若男は痛感した。金や、時間や、効率。まだ事業を始めていないゆえに、若男も多くの時間を、育児と家事に費やせた。母一人で育児するわけでもない。自分たちはよほど、他の家庭より余裕がある。
それでも、懸命にやっても、まだ足りない、労力がかかった。普通に考えれば解ったはずなのに。子どもが――人間がひとり、増えるのだ。自分自身の面倒をまったくみられない人間が、生まれ落ちるのだ。その負担は、当然と両親へ、乗っかる。普通のことなのに、その重みを、若男は軽んじていた。
なによりも、愛する人を独占されることに、若男は思い当たっていなかった。その感情は、間違っている。そう言い聞かせるけれど、それでもどうしても、嫉妬してしまうのである。
エディプスコンプレックスの、逆だ。若男は生まれたばかりの自分の息子に、母親を――若女を奪われるような恐怖を、感じたのだった。
「シンファ――」
思わず、若男は育児に追われる若女の、その背中に、抱き着いた。
「あ……。あらあら、こっちにもおっきな子どもがいたんだった。えへへ。ママ忘れてた」
子をあやす手はそのままに、彼女は彼のことも、小さくあやした。
「……疲れてないか、シンファ」
「疲れてるのはリュウくんでしょ。大丈夫だから、寝て?」
少しだけ皴ができた目元に指を滑らせ、若男は嘆息する。
「隈ができてるぞ。俺が面倒を見るから、おまえが寝ろ」
「うそ!? 気を付けてたのに! のに! む~ん!」
そんな可愛らしい彼女を、息子ごと抱え上げ、若男は寝室へ向かった。
「ちょ……リュウくん! ジャーくんの前で恥ずかしいでしょ! ママとしての威厳が――」
「知らん。とにかく寝ろ。ジャーくんは俺が預かる」
「なんだと! 身代金はおいくら!? おっぱい揉ませればいいの? いまなら母乳も出るよ!?」
「残念ながら、揉むほどないな」
「うきー! これでもジャーくん産んで、おっきくなったんだからね! ほれほれ、揉んでみ?」
腕の上で暴れる若女を、ベッドへ降ろし、嘆息する。元気だ。元気すぎる。どこかで爆発しそうなほど、若女は忙しなく、騒がしい。
そんな状況にしてしまっている自分自身を恥じた。だが、とはいえ他に、なにをどうしていいかも、若男には解らない。
だから仕方なく、その口だけを、塞いでおく。両手は、息子を奪うのに――彼女から引き剥がすのに忙しい。だから、口で、口を、塞いだ。
「……また今度な。いまは、寝ろ」
育児も、家事も、多く手伝ってきた。だがそれでも、抱え上げた命の重みに、まだ、委縮する。母親を求めて、普段以上に暴れる、己が息子に、わずかに腹を立てた。
その感情は、生物としておかしい。自分の子だ。子孫繁栄の、その一環だ。喜ばしいことだ。と、若男は自分に、言い聞かせる。
そうしなければ自分を保ってもいられない。やはりここでも、自分は落ちこぼれだ。それでも――。
「近々、ハネムーンにでも行こう。卒業祝いにも、結婚祝いにも、どこにも行けてないからな」
寝室の照明を落として、若男は言った。「わ! 楽しみ楽しみ! どこ行く? どこ行く!?」。興奮して若女の眼が冴えてしまわないうちに、「寝ろ」と、若男は扉を閉めた。
――あいつと一緒なら、全部、大丈夫だ。そう確信して、若男は、息子を懸命に、あやした。
*
――で、向かった先が、なぜだか結局、台湾だった。
「本当に、こんなところでよかったのか?」
「こんなところ!? 私の故郷を馬鹿にするの!?」
冗談っぽく目を吊り上げる若女に、若男は苦笑した。
「地元だろう。せっかくのハネムーンだ。もっと――」
「いいのいいの。私、安心するところ、好きだし」
それに関しては若男も同意見だった。それに、学生時代に彼女とは、いくつか国を旅している。逆にこういうのも悪くないかもな。と、いとも簡単に、若男は思った。
「それに、ジャーくんにも私の故郷、見てほしかったし」
そして容易く、若男の機嫌は少し、落ち込んだ。彼女の腕に抱かれる男性に、どうしても嫉妬する。
「あっ! 天燈! 飛ばそうよ、リュウくん!」
「俺がジャーくん預かるから、おまえがふたり分――いや、三人分、飛ばせ」
大義名分を得て、若男は彼女から、息子を引き剥がす。子どもみたいに駆けて行く彼女を見送り、ぐずりだした息子をなだめる。
こうして、十分では、天燈を飛ばした。
「『ジャーくんが、素直でまっすぐ、いい子に育ちますように』」
「…………」
「『あと、リュウくんとずっと、ラブラブでいられますように』」
「……それは、書かなくてもいい」
その言葉に、若女は、笑った。
台北、文山区、猫空。
「うわあ……高いよ、リュウくん」
「そうだな。……ちょっとジャーくん貸せ」
「はいはい。……ジャーくん。パパが抱っこしてくれるって」
「ほら、ジャーくん。地面が遠いぞ。落ちたら大変だな」
「ちょ……こら! リュウくん! なにジャーくんいじめてんの! 怒るよ! ぷんぷん!」
幼稚な嫌がらせに、若男は恥じ入った。
信義区。夜市。
「あ、あれも! それも食べたい! あっちの! あれあれ、昔から好きなんだぁ」
「どれだけ食う気だ」
「ちょっとだけ! 余ったら余ったら、リュウくんが食べるから心配してない!」
「心配してくれ」
その夜はふたりして、食い倒れた。
そして、北投区。日勝生加賀屋。
「わあい! 温泉温泉! 貸し切り貸し切り!」
「騒ぐな。子どもか」
「騒ぐよ! 子どもで結構だもん! ほらほら、ジャーくんも行くよ!」
「おい。ジャーくんはまだ……って、遅かったな」
「あらあら、もう、元気元気、いっぱいなんだから」
「……おまえのせいだ」
元気に転んだ息子を、抱き上げた。
どれもこれも、なにもかも。若男にとって、人生で、最高の思い出だ。
彼は、いまでも想起する。思い出して、無意味な後悔に苛まれる。
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