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台湾編 本章 ルート『正義』
Period.
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1992年、四月。
半月ほどのハネムーンから帰宅し、落ち着いたころだ。若男や若女も、あるいはその子も、また数日を穏やかに過ごした。近場とはいえ各所を巡り歩いた。その疲れもあったのだろう。
このころには彼らの子も、乳児期と比べれば格段に手がかからなくなっていた。それでも、両親が懸命に世話をするくらいの必要はあったが、彼らにも心のゆとりができるほどには、成長していた。
なにもかもが順調だ。そう、若男は思っていた。思い通りというわけにもいかない。子育ての大変さを軽く見ていたし、それにより起業に関しては、まだなにも進んでいない。それでも、大切な家族は安らかに息づいているし、そこには多くの幸福があった。想定より遅い歩みでも、たしかに進んでいる感覚もある。
このままでいい。彼はそう思っていた。こんな時間が、ずっと続けば、それでいい。そんなありきたりなことを、思うのだ。
それは、彼にとっては、ささやかな願いだった。だが、世界にとっては、あまりに強欲な、過ぎた願い――。
若女は、知っていた。だから、彼女は常に、全力だった。子育てにも、家事にも。そして、家族を愛することにも。一瞬すら気を抜かないほどに、懸命だった。
世界は、すてきで、残酷だ。この世界の創造主は、必ず、相反するものを散りばめている。真実があれば、嘘があり。生があれば、死もある。そして必ず――幸福があるなら、不幸だって訪れる。彼女はそれを、知っていた。
いや、知らしめられていた。それは、世界の外側から――形而上からもたらされた存在に。認識よりも強く、意識よりも深く、抗うこともできずに、知らしめられたのだ。
世界は、終わる。だから、その前に――。
*
「なにをしている」
唐突な言葉に、若女は思わず、両肩を上げた。
「眠らないのか、シンファ」
振り返ると、自身は眠そうな表情をして、若男がそこに、立っていた。特段に不審がられている様子はない。若女はひそかに、書いていたものを、閉じた。
「もう寝るとこ。これ、書いてたの」
そうして、それを見せつける。表紙には『育児日記』と、ラベルが張られていた。
「そんなものを書いていたのか」
若男は素直に驚いた。もう、息子が生まれて一年以上も経っているが、彼女がそんなものを書いていたことを、初めて知ったのだ。
「まあね。ジャーくんの成長を、あの子がここに在ることを、残したくて。……それに――」
『あ』と発音するような口で、彼女は言葉を止めた。その言葉を否定するように視線を下げて、それから、愛しい我が子にするように、『育児日記』を抱き締めた。
その様子に、若男はわずかに、首をかしげる。だが、深く追求はしなかった。
「ちょっと読ませてくれ。俺もジャーくんの成長を確かめたい」
「だぁめ。恥ずかしいから」
「なにが恥ずかしいんだ?」
「ジャーくんのことだけじゃなくて、あなたのことも書いてるから」
「それは俺が恥ずかしいな」
「私のほうが恥ずかしいの」
ともあれ強情に、彼女は日記を抱えて、放そうとしなかった。若男としても、無理に見たいというほどでもなかった。それゆえ、強く彼女に強制したりはしない。
「完成したら、見せたげる」
「完成って……。いつ完成するんだ?」
「ジャーくんが大人になって、結婚して、おじいちゃんになって、いつか――安らかに天に還ったら」
「おまえは、いつまで生きるつもりだ」
冗談のような言葉に、冗談を言う。だが、当の彼女は、真剣そうな様子だった。真剣というか、自身の言葉を反芻して、暗い未来を思っているような。
人は、いつか必ず死ぬことを、再認識しているような、表情だ。それは、自身の息子に対してなのか、あるいは、自分や、その伴侶に向けたものなのか――。
「まあ、きっと……そのうちね」
悲しそうな表情のまま、彼女は笑う。いまは、それだけでいい。若男は思う。
悲しくとも、辛くとも、笑えていれば、それでいい。そうやって、いまだ残る不安から、目を逸らす。自分を騙して、大丈夫だと、言い聞かせる。
世界に『異本』などというものが溢れても、それは、自分たちとはかかわりのない、物語だ、と――。
「……そろそろ寝るぞ。寝室に来い」
「わあ、リュウくんから熱烈なお誘い! ふたりめ、作っちゃう?」
楽しそうで、愛らしい。可愛らしい妻に、夫は苦笑した。
「ジャーくんだけで手いっぱいだ。いまはまだ、無理だな」
それは、未来を夢想する言葉。まだ人生は続くと、この幸福は続くと、願う言葉。
果てなき幸福を、まだ彼は、信じていたのだ。
「先、行ってて」
彼の言葉に、彼女は、言った。
「もう少しで、終わるから」
抱えていた『育児日記』を見せつけて、そう、笑う。
薄暗い部屋に浮かんだ彼女の笑顔は、どことなく、不気味に美しかった。
*
「なにごとも、終わらせ方が難しいのよね」
若男を見送り、若女は改めて、テーブルへ向かう。『育児日記』と書かれたラベルを剥がして、その本当の存在を、この世に顕現させた。
広げ、ページを繰り、書きかけの部分を見つける。その物語は、もう、完成を目前にしていた。
「『大いなる意思』。……『解放』。……『神』。……神は人間を作った。自らのかたちとして――」
ぶつぶつと、言葉を吐く。彼女の物語は、それらに抗う冒険譚。
「『箱庭』は壊れる。すべては均される。人は、神になる」
だから、繋ぎとめる糸が、必要だ。人が人であるための――人々が人々であるための。
『家族』が、『家族』であるための――。
「……『因果』――」
そうだ。最終的に、そうなる。
目に見えない、触れられもしない。その存在を確信できない。だが、この世でもっとも、強い糸。繋がり。
はたして彼女は、物語を、完成させた――。
――――――――
『人の意思など、容易き事』
『物語の終焉。神意』
『是にて、六合の再編は成される』
『776冊目。最終にして極致』
『我が存在意義も、達成』
『故、見届けよう』
『人の世の、完結を――』
『…………――』
半月ほどのハネムーンから帰宅し、落ち着いたころだ。若男や若女も、あるいはその子も、また数日を穏やかに過ごした。近場とはいえ各所を巡り歩いた。その疲れもあったのだろう。
このころには彼らの子も、乳児期と比べれば格段に手がかからなくなっていた。それでも、両親が懸命に世話をするくらいの必要はあったが、彼らにも心のゆとりができるほどには、成長していた。
なにもかもが順調だ。そう、若男は思っていた。思い通りというわけにもいかない。子育ての大変さを軽く見ていたし、それにより起業に関しては、まだなにも進んでいない。それでも、大切な家族は安らかに息づいているし、そこには多くの幸福があった。想定より遅い歩みでも、たしかに進んでいる感覚もある。
このままでいい。彼はそう思っていた。こんな時間が、ずっと続けば、それでいい。そんなありきたりなことを、思うのだ。
それは、彼にとっては、ささやかな願いだった。だが、世界にとっては、あまりに強欲な、過ぎた願い――。
若女は、知っていた。だから、彼女は常に、全力だった。子育てにも、家事にも。そして、家族を愛することにも。一瞬すら気を抜かないほどに、懸命だった。
世界は、すてきで、残酷だ。この世界の創造主は、必ず、相反するものを散りばめている。真実があれば、嘘があり。生があれば、死もある。そして必ず――幸福があるなら、不幸だって訪れる。彼女はそれを、知っていた。
いや、知らしめられていた。それは、世界の外側から――形而上からもたらされた存在に。認識よりも強く、意識よりも深く、抗うこともできずに、知らしめられたのだ。
世界は、終わる。だから、その前に――。
*
「なにをしている」
唐突な言葉に、若女は思わず、両肩を上げた。
「眠らないのか、シンファ」
振り返ると、自身は眠そうな表情をして、若男がそこに、立っていた。特段に不審がられている様子はない。若女はひそかに、書いていたものを、閉じた。
「もう寝るとこ。これ、書いてたの」
そうして、それを見せつける。表紙には『育児日記』と、ラベルが張られていた。
「そんなものを書いていたのか」
若男は素直に驚いた。もう、息子が生まれて一年以上も経っているが、彼女がそんなものを書いていたことを、初めて知ったのだ。
「まあね。ジャーくんの成長を、あの子がここに在ることを、残したくて。……それに――」
『あ』と発音するような口で、彼女は言葉を止めた。その言葉を否定するように視線を下げて、それから、愛しい我が子にするように、『育児日記』を抱き締めた。
その様子に、若男はわずかに、首をかしげる。だが、深く追求はしなかった。
「ちょっと読ませてくれ。俺もジャーくんの成長を確かめたい」
「だぁめ。恥ずかしいから」
「なにが恥ずかしいんだ?」
「ジャーくんのことだけじゃなくて、あなたのことも書いてるから」
「それは俺が恥ずかしいな」
「私のほうが恥ずかしいの」
ともあれ強情に、彼女は日記を抱えて、放そうとしなかった。若男としても、無理に見たいというほどでもなかった。それゆえ、強く彼女に強制したりはしない。
「完成したら、見せたげる」
「完成って……。いつ完成するんだ?」
「ジャーくんが大人になって、結婚して、おじいちゃんになって、いつか――安らかに天に還ったら」
「おまえは、いつまで生きるつもりだ」
冗談のような言葉に、冗談を言う。だが、当の彼女は、真剣そうな様子だった。真剣というか、自身の言葉を反芻して、暗い未来を思っているような。
人は、いつか必ず死ぬことを、再認識しているような、表情だ。それは、自身の息子に対してなのか、あるいは、自分や、その伴侶に向けたものなのか――。
「まあ、きっと……そのうちね」
悲しそうな表情のまま、彼女は笑う。いまは、それだけでいい。若男は思う。
悲しくとも、辛くとも、笑えていれば、それでいい。そうやって、いまだ残る不安から、目を逸らす。自分を騙して、大丈夫だと、言い聞かせる。
世界に『異本』などというものが溢れても、それは、自分たちとはかかわりのない、物語だ、と――。
「……そろそろ寝るぞ。寝室に来い」
「わあ、リュウくんから熱烈なお誘い! ふたりめ、作っちゃう?」
楽しそうで、愛らしい。可愛らしい妻に、夫は苦笑した。
「ジャーくんだけで手いっぱいだ。いまはまだ、無理だな」
それは、未来を夢想する言葉。まだ人生は続くと、この幸福は続くと、願う言葉。
果てなき幸福を、まだ彼は、信じていたのだ。
「先、行ってて」
彼の言葉に、彼女は、言った。
「もう少しで、終わるから」
抱えていた『育児日記』を見せつけて、そう、笑う。
薄暗い部屋に浮かんだ彼女の笑顔は、どことなく、不気味に美しかった。
*
「なにごとも、終わらせ方が難しいのよね」
若男を見送り、若女は改めて、テーブルへ向かう。『育児日記』と書かれたラベルを剥がして、その本当の存在を、この世に顕現させた。
広げ、ページを繰り、書きかけの部分を見つける。その物語は、もう、完成を目前にしていた。
「『大いなる意思』。……『解放』。……『神』。……神は人間を作った。自らのかたちとして――」
ぶつぶつと、言葉を吐く。彼女の物語は、それらに抗う冒険譚。
「『箱庭』は壊れる。すべては均される。人は、神になる」
だから、繋ぎとめる糸が、必要だ。人が人であるための――人々が人々であるための。
『家族』が、『家族』であるための――。
「……『因果』――」
そうだ。最終的に、そうなる。
目に見えない、触れられもしない。その存在を確信できない。だが、この世でもっとも、強い糸。繋がり。
はたして彼女は、物語を、完成させた――。
――――――――
『人の意思など、容易き事』
『物語の終焉。神意』
『是にて、六合の再編は成される』
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『我が存在意義も、達成』
『故、見届けよう』
『人の世の、完結を――』
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