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悠遠(とても遠い出来事)
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ぺん助とパン太が笑った。
ぺん助とパン太とは、家の机の上の除菌シートの上に鎮座しているぬいぐるみのことである。
2人との出会いは100円ショップだった。友達と買い物に来ている時にたまたま目につき「かわいいな…」と触っているうちに愛着が湧いてしまった。その時たまたま友達とはぐれてしまい「多分勝手に買い物してるだろ」と思い私も気ままに見つけたペンギンのぬいぐるみで遊んでいたのである。
いい歳した女性が店のぬいぐるみで遊んでいいものか…と一瞬考えたが、なんとも言えないこの愛くるしいペンギンの魅力に囚われ、私はそのふこふこの手足をパタパタさせたり澄んだ瞳をじっと見つめたりと、存分にぬいぐるみとの時間を楽しんでいた。
「探したんだけど、ずっとここにいた?」
気づくと友達の美衣が手に商品を持って立っていた。
「うん、ずっとここにいたよ?もう買ったの?」
ううん、まだ。と言いながら私の手元を見る美衣。「なにそれ。ぬいぐるみ?」
「うん、なんか可愛くなっちゃってー」ペンギンの手をヒョコッと上げる。
「買うの?」「うーん」
私はぬいぐるみを買ったことがない。部屋にあるぬいぐるみは全部UFOキャッチャーの景品だし、しかもそれらも姉やら友達やらに貰ったものばかりだ。
ましてや100円ショップで1つ300円払って買おうなんて。
しかし私の心はもう決まっていた。
「買うわ」
パン太はぺん助と一緒に並んで売られていて、美衣とふざけてパン太とぺん助で遊んでいるうちに欲しくなった。ぺん助も1人よりは友達がいた方が楽しいだろうとも思った。
そういう訳で私は660円を支払い、100円ショップで初めてぬいぐるみを買った。これまでも、そしてらこれからもそんな場面はやってこないだろうという位珍しい事だった。
一緒に暮らしてから知ったのだがぺん助とパン太はなかなか気難しいコンビである。
と、言ってもぬいぐるみなので何かを話しているだとか、帰ってきたら置き場所が違うだとか、そういったファンシー要素もホラー要素もない。
全ては私の「そんな気がする」だけで成り立っている。だけなのだけれど。
ぺん助とパン太は買ってしばらくして名前を付けた。名前が付くと余計愛着が湧くものである。
これは人でも同じことなのかな。
私の名前は父が付けてくれた。由来は特にないらしい。小さい頃は少し落胆したけれど、「あまねを初めて見た時に、あぁこの子はあまねだって思ったんだ」と父は言った。不思議と私もそれで納得した。
ある日父は車の前に飛び出した女の子を助けるため、道路に飛び出した。
それ以来父とは会えなくなった。優しい父だったからつい助けたくなってしまったんだろう、と今ではそう思えるように、やっとなった。
でもしばしばまた父に会いたいと思う。
口には出さないのだけれど。
ある日の夕方、その日はとても暑くて美衣と遊んだ帰り道だった。美衣とソフトクリームの看板を見つけては「食べる…?」というのを繰り返し、1日で3つもソフトクリームを食べてしまった。
美衣と別れた後、私は1人で図書館へ向かった。大好きな場所の一つである。
自動ドアを潜るとしん、と静まりながらもヒソヒソと聞こえる話し声や足音が静かに響き、本をめくる気配が伝わってきた。
私は目的の本棚を周り好きな作家さんをチェックしていた。新作の本が並んでいた時は飛び上がるほどに嬉しい。
まさに今、好きな作家さんの初めて見る背表紙があった。なにこれ、初めて見つけた!
手に取ってみると新作ではないらしく、若干皺が寄った薄い本だった。しかし初めて手に取る本に違いはなく、この喜びは消えない。
その時ふと気配を感じ、振り返ると男の人が立っていた。大学生くらいだろうか、私が振り返ると少し驚いたようだった。私も少なからず驚き、お互いぺこぺこ頭を下げながら距離をとる。
男の人は私が眺めていた作家の欄をゆっくり目で追っているようだった。手に持っている本が何冊かあり、後ろから盗み見るとどれも私好みの作家のものだった。
趣味が合いそうだな…とぼんやりと思いながら他の棚へと足を伸ばした。
その日は収穫が多く、読みたい本がたくさんあった。しかし残念ながら本は7冊までしか借りられず手元の本を一冊は手放さなければならない…
泣く泣く手放す本を選んでいると名案が浮かんだ。一冊はここで読んでしまえばいいんだ!
先程発見した薄い本ならきっとすぐに読める!私はウキウキした足取りで回覧席に向かう。席はほとんど埋まっていて、探しながら不安になった。
その時奥の隅の席が空いているのを見つけた。やった!
1人掛けとはいかないが贅沢は言うまい。一つの机に2人は座れる設計になっているのだ。
本やら荷物やらを机に乗せながらなんとなく先に座っていた人に会釈をする。すいませんね~ここちょっと借りますね~
それに気づいてその人も小さく会釈をしてくれる。あれ、さっきの大学生さんだ。
大学生さんも気づいたようで「あ、」と声に出していた。
なぜか少し面白くて2人で声を殺して笑った。「すいません、席借りますね」
「いや、僕の机とかじゃないので」
ふふふと笑いながら私は席に座る。
「あの」
「はい?」
小声で私たちは会話を続けた。
「その本…」
大学生さんはわたしの持っている薄い本を指差して言った
「その本、面白いですか?」
私は持っているその薄い本を見て
「あー私も初めて読むんですよ、今日初めて見つけて」
「そうなんですね、僕もその作家さんが好きで。でも僕もその本見るの初めてです」
あんまり世の中に出回ってない本なのかなぁ。結構レアな本なのかも。おぉそれは貴重な…と言いながらまた2人でクスクス笑った。
「良かったら、読みますか?」
私は大学生さんに本を差し出す。
「いやいや!まだ読んでないんでしょ?大丈夫だよ」大学生さんは慌てて本を私のところへ押し戻す。
「うーん、まぁそうですけど…でも…」
「じゃぁ、ほら、読み終わったら貸してください、ね?」
確かに薄い本なのですぐに読み終われそうだった。
「じゃぁ急いで読みますね!」
「大丈夫なので、ゆっくり読んでください」
大学生さんは笑った。私はこれからこの笑顔をきっと忘れないだろうと思った。日向に手を浸しているようなその温かな笑顔に私は頭がぽぅっとなってしまったのだった。
携帯を机の上に置く。見ると大学生さんも白い携帯で、なんだかそれだけで少し嬉しい気持ちになった。
読むことに意識を集中させないと大学生さんの横顔ばかり気にしてしまいそうだった。薄くて読みやすいと思ったがやはりそれなりに内容は濃く、そして素晴らしい内容展開だった。あまりに夢中になりすぎて読み終わった瞬間に閉館のアナウンスが聞こえた時は理解できなかった。えっ、もうそんな時間?
「すいません!こんなに時間がかかっちゃって…!」
図書館の警備員だろうか、怖い顔で館内を歩き回っている。「閉園の時間です、本の返却貸出は速やかに行ってください」と大きな声で怒鳴っているようだった。
大学生さんは私が読み終わるまで待っててくれたんだろうか。申し訳なさでいっぱいなのと警備員の怖さで少しパニックになる。
「大丈夫ですよ、俺も読みたい本ゆっくり読めたし、この本も借りれますから」
大学生さんはにっこりとして私から本を受け取った。「楽しみです」
そこにとうとう怖い警備員が来た「閉園時間ですので!お早めに!」
私と大学生さんは震え上がって急いで貸出し手続きをして転げ出るように図書館を出た。
はぁはぁと息を切らしながら「さっきの警備員、なんか高校の時の数学の先生に似てるんだよな…」と大学生さんは笑っていた。その話し方だとやっぱり高校は卒業しているのかもしれない。
「怖かった…ですね」
「ね…」
またどちらともなく2人で笑い出した。
「あ!!」
大学生さんが大きな声を出したのでびっくりしてしまった。
「あ…、ごめん、用事があったのを思い出して…えっと、それじゃぁまたね」
大学生さんはそのまま風のように走り去ってしまった。
取り残された私はぽかんとしばらく立っていたが、気を取り直してバス停へと足を向けた。
日中の暑さは嘘のように心地よい風が吹いていた。空には薄いピンクや紫色の雲が広がり、綺麗な夕焼けが滲んでいた。
「もっと話したかったな…」
独り言を言いながらまた会えないかな、と淡い期待を抱きながら歩いていた。
「あれ?!」
気づいたのは家に着いてからだった。逆にどうしてそれまで気づかなかったのか。いつもよりぼーっとしていたのは認める。そのぼーっとしてしまった理由が目の前にあった。
「どうしよう…困ったな」
手に持った携帯をとりあえず机の上に置く。良く似ているけど私の携帯ではない。ということはきっと…
「開けてみてもいいかな…」
でもプライバシーの侵害?でもそんなこと言ったら何もできないし…
ブブブブッ目の前の携帯が震えた。私は飛び上がった。なんだか今日は驚かされてばっかりだ。
画面には私の携帯番号が表示されている。
おそろおそる電話に出る。「…はい」
「あ、もしもし?」
電話越しなので少し違和感があるが大学生さんの声だった。
「あ、図書館のー」
「そう、携帯さ…」「あ、すいません…」「いやこちらこそ…」「急いでましたもんねあの時」「あの警備員のせいだね」「…ですね笑」
耳に届く大学生さんの声がなんだかくすぐったくて笑ってしまう。
「えーっとどうしよっか?」
「できれば早く戻したい…ですよね?」
「そうだよね…」
とは言え外は暗くなりつつある。
「今日はもう遅いから明日でもいいかな?」
明日はちょうど日曜だった。
「いいですが、えっと、そちらはいいんですか?」
「すぐるだよ」
「え?」
「名前、棚部すぐる」
「すぐる、、さん」「はい」「笑」
「私はあまねです」
「あまねさん」「はい」「笑」
誰かに、それも慣れない声で名前を呼ばれるとどこかこしょばい気持ちになった。
でもそれは悪くなかった。
「じゃぁ、明日の11時に図書館前でもいいかな」
「はい」
「ほんとにごめんね」
「いやこちらもです」
「それじゃぁ、また明日」
「あ、あの!」
「なに?」
「あの本なんですけど、最後の展開がどんでん返しで…最後はなんと」
「わあー!!!言わないで!何で言おうとするの!?」
必死に耳を塞ぐすぐるさんの姿を思い浮かべて笑った。「ふふ、冗談ですよ」
「いや冗談に聞こえなかったけど…」
「ふふふ笑、じゃぁおやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
数秒後プッと通信が切れる音がした。画面を見るとかわいい黒猫がこちらを見ていた。心なしかその猫の顔もニヤニヤ笑っているように見えた。
ふと机の上に視線を移すとその時気づいた。
ぺん助とパン太が笑っていた。
ぺん助とパン太とは、家の机の上の除菌シートの上に鎮座しているぬいぐるみのことである。
2人との出会いは100円ショップだった。友達と買い物に来ている時にたまたま目につき「かわいいな…」と触っているうちに愛着が湧いてしまった。その時たまたま友達とはぐれてしまい「多分勝手に買い物してるだろ」と思い私も気ままに見つけたペンギンのぬいぐるみで遊んでいたのである。
いい歳した女性が店のぬいぐるみで遊んでいいものか…と一瞬考えたが、なんとも言えないこの愛くるしいペンギンの魅力に囚われ、私はそのふこふこの手足をパタパタさせたり澄んだ瞳をじっと見つめたりと、存分にぬいぐるみとの時間を楽しんでいた。
「探したんだけど、ずっとここにいた?」
気づくと友達の美衣が手に商品を持って立っていた。
「うん、ずっとここにいたよ?もう買ったの?」
ううん、まだ。と言いながら私の手元を見る美衣。「なにそれ。ぬいぐるみ?」
「うん、なんか可愛くなっちゃってー」ペンギンの手をヒョコッと上げる。
「買うの?」「うーん」
私はぬいぐるみを買ったことがない。部屋にあるぬいぐるみは全部UFOキャッチャーの景品だし、しかもそれらも姉やら友達やらに貰ったものばかりだ。
ましてや100円ショップで1つ300円払って買おうなんて。
しかし私の心はもう決まっていた。
「買うわ」
パン太はぺん助と一緒に並んで売られていて、美衣とふざけてパン太とぺん助で遊んでいるうちに欲しくなった。ぺん助も1人よりは友達がいた方が楽しいだろうとも思った。
そういう訳で私は660円を支払い、100円ショップで初めてぬいぐるみを買った。これまでも、そしてらこれからもそんな場面はやってこないだろうという位珍しい事だった。
一緒に暮らしてから知ったのだがぺん助とパン太はなかなか気難しいコンビである。
と、言ってもぬいぐるみなので何かを話しているだとか、帰ってきたら置き場所が違うだとか、そういったファンシー要素もホラー要素もない。
全ては私の「そんな気がする」だけで成り立っている。だけなのだけれど。
ぺん助とパン太は買ってしばらくして名前を付けた。名前が付くと余計愛着が湧くものである。
これは人でも同じことなのかな。
私の名前は父が付けてくれた。由来は特にないらしい。小さい頃は少し落胆したけれど、「あまねを初めて見た時に、あぁこの子はあまねだって思ったんだ」と父は言った。不思議と私もそれで納得した。
ある日父は車の前に飛び出した女の子を助けるため、道路に飛び出した。
それ以来父とは会えなくなった。優しい父だったからつい助けたくなってしまったんだろう、と今ではそう思えるように、やっとなった。
でもしばしばまた父に会いたいと思う。
口には出さないのだけれど。
ある日の夕方、その日はとても暑くて美衣と遊んだ帰り道だった。美衣とソフトクリームの看板を見つけては「食べる…?」というのを繰り返し、1日で3つもソフトクリームを食べてしまった。
美衣と別れた後、私は1人で図書館へ向かった。大好きな場所の一つである。
自動ドアを潜るとしん、と静まりながらもヒソヒソと聞こえる話し声や足音が静かに響き、本をめくる気配が伝わってきた。
私は目的の本棚を周り好きな作家さんをチェックしていた。新作の本が並んでいた時は飛び上がるほどに嬉しい。
まさに今、好きな作家さんの初めて見る背表紙があった。なにこれ、初めて見つけた!
手に取ってみると新作ではないらしく、若干皺が寄った薄い本だった。しかし初めて手に取る本に違いはなく、この喜びは消えない。
その時ふと気配を感じ、振り返ると男の人が立っていた。大学生くらいだろうか、私が振り返ると少し驚いたようだった。私も少なからず驚き、お互いぺこぺこ頭を下げながら距離をとる。
男の人は私が眺めていた作家の欄をゆっくり目で追っているようだった。手に持っている本が何冊かあり、後ろから盗み見るとどれも私好みの作家のものだった。
趣味が合いそうだな…とぼんやりと思いながら他の棚へと足を伸ばした。
その日は収穫が多く、読みたい本がたくさんあった。しかし残念ながら本は7冊までしか借りられず手元の本を一冊は手放さなければならない…
泣く泣く手放す本を選んでいると名案が浮かんだ。一冊はここで読んでしまえばいいんだ!
先程発見した薄い本ならきっとすぐに読める!私はウキウキした足取りで回覧席に向かう。席はほとんど埋まっていて、探しながら不安になった。
その時奥の隅の席が空いているのを見つけた。やった!
1人掛けとはいかないが贅沢は言うまい。一つの机に2人は座れる設計になっているのだ。
本やら荷物やらを机に乗せながらなんとなく先に座っていた人に会釈をする。すいませんね~ここちょっと借りますね~
それに気づいてその人も小さく会釈をしてくれる。あれ、さっきの大学生さんだ。
大学生さんも気づいたようで「あ、」と声に出していた。
なぜか少し面白くて2人で声を殺して笑った。「すいません、席借りますね」
「いや、僕の机とかじゃないので」
ふふふと笑いながら私は席に座る。
「あの」
「はい?」
小声で私たちは会話を続けた。
「その本…」
大学生さんはわたしの持っている薄い本を指差して言った
「その本、面白いですか?」
私は持っているその薄い本を見て
「あー私も初めて読むんですよ、今日初めて見つけて」
「そうなんですね、僕もその作家さんが好きで。でも僕もその本見るの初めてです」
あんまり世の中に出回ってない本なのかなぁ。結構レアな本なのかも。おぉそれは貴重な…と言いながらまた2人でクスクス笑った。
「良かったら、読みますか?」
私は大学生さんに本を差し出す。
「いやいや!まだ読んでないんでしょ?大丈夫だよ」大学生さんは慌てて本を私のところへ押し戻す。
「うーん、まぁそうですけど…でも…」
「じゃぁ、ほら、読み終わったら貸してください、ね?」
確かに薄い本なのですぐに読み終われそうだった。
「じゃぁ急いで読みますね!」
「大丈夫なので、ゆっくり読んでください」
大学生さんは笑った。私はこれからこの笑顔をきっと忘れないだろうと思った。日向に手を浸しているようなその温かな笑顔に私は頭がぽぅっとなってしまったのだった。
携帯を机の上に置く。見ると大学生さんも白い携帯で、なんだかそれだけで少し嬉しい気持ちになった。
読むことに意識を集中させないと大学生さんの横顔ばかり気にしてしまいそうだった。薄くて読みやすいと思ったがやはりそれなりに内容は濃く、そして素晴らしい内容展開だった。あまりに夢中になりすぎて読み終わった瞬間に閉館のアナウンスが聞こえた時は理解できなかった。えっ、もうそんな時間?
「すいません!こんなに時間がかかっちゃって…!」
図書館の警備員だろうか、怖い顔で館内を歩き回っている。「閉園の時間です、本の返却貸出は速やかに行ってください」と大きな声で怒鳴っているようだった。
大学生さんは私が読み終わるまで待っててくれたんだろうか。申し訳なさでいっぱいなのと警備員の怖さで少しパニックになる。
「大丈夫ですよ、俺も読みたい本ゆっくり読めたし、この本も借りれますから」
大学生さんはにっこりとして私から本を受け取った。「楽しみです」
そこにとうとう怖い警備員が来た「閉園時間ですので!お早めに!」
私と大学生さんは震え上がって急いで貸出し手続きをして転げ出るように図書館を出た。
はぁはぁと息を切らしながら「さっきの警備員、なんか高校の時の数学の先生に似てるんだよな…」と大学生さんは笑っていた。その話し方だとやっぱり高校は卒業しているのかもしれない。
「怖かった…ですね」
「ね…」
またどちらともなく2人で笑い出した。
「あ!!」
大学生さんが大きな声を出したのでびっくりしてしまった。
「あ…、ごめん、用事があったのを思い出して…えっと、それじゃぁまたね」
大学生さんはそのまま風のように走り去ってしまった。
取り残された私はぽかんとしばらく立っていたが、気を取り直してバス停へと足を向けた。
日中の暑さは嘘のように心地よい風が吹いていた。空には薄いピンクや紫色の雲が広がり、綺麗な夕焼けが滲んでいた。
「もっと話したかったな…」
独り言を言いながらまた会えないかな、と淡い期待を抱きながら歩いていた。
「あれ?!」
気づいたのは家に着いてからだった。逆にどうしてそれまで気づかなかったのか。いつもよりぼーっとしていたのは認める。そのぼーっとしてしまった理由が目の前にあった。
「どうしよう…困ったな」
手に持った携帯をとりあえず机の上に置く。良く似ているけど私の携帯ではない。ということはきっと…
「開けてみてもいいかな…」
でもプライバシーの侵害?でもそんなこと言ったら何もできないし…
ブブブブッ目の前の携帯が震えた。私は飛び上がった。なんだか今日は驚かされてばっかりだ。
画面には私の携帯番号が表示されている。
おそろおそる電話に出る。「…はい」
「あ、もしもし?」
電話越しなので少し違和感があるが大学生さんの声だった。
「あ、図書館のー」
「そう、携帯さ…」「あ、すいません…」「いやこちらこそ…」「急いでましたもんねあの時」「あの警備員のせいだね」「…ですね笑」
耳に届く大学生さんの声がなんだかくすぐったくて笑ってしまう。
「えーっとどうしよっか?」
「できれば早く戻したい…ですよね?」
「そうだよね…」
とは言え外は暗くなりつつある。
「今日はもう遅いから明日でもいいかな?」
明日はちょうど日曜だった。
「いいですが、えっと、そちらはいいんですか?」
「すぐるだよ」
「え?」
「名前、棚部すぐる」
「すぐる、、さん」「はい」「笑」
「私はあまねです」
「あまねさん」「はい」「笑」
誰かに、それも慣れない声で名前を呼ばれるとどこかこしょばい気持ちになった。
でもそれは悪くなかった。
「じゃぁ、明日の11時に図書館前でもいいかな」
「はい」
「ほんとにごめんね」
「いやこちらもです」
「それじゃぁ、また明日」
「あ、あの!」
「なに?」
「あの本なんですけど、最後の展開がどんでん返しで…最後はなんと」
「わあー!!!言わないで!何で言おうとするの!?」
必死に耳を塞ぐすぐるさんの姿を思い浮かべて笑った。「ふふ、冗談ですよ」
「いや冗談に聞こえなかったけど…」
「ふふふ笑、じゃぁおやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
数秒後プッと通信が切れる音がした。画面を見るとかわいい黒猫がこちらを見ていた。心なしかその猫の顔もニヤニヤ笑っているように見えた。
ふと机の上に視線を移すとその時気づいた。
ぺん助とパン太が笑っていた。
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