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翌日、文次朗は、さっそく鳥越の隠宅を訪ね、写本を渡した。
相手はかつて油問屋を営んでいた大物で、勉強がしたくて表舞台から退いていた。家には書籍が積まれており、そこには論語集注のような珍しい写本もあった。
つい文次朗は話し込んでしまい、隠宅を辞去したのは申の刻を過ぎてからだった。
晩春のやわらかい日射しが江戸の町を照らす。花の香りがかすかに漂うが、これは椿であろうか。
ふと視線を転じれば、町娘が手代とおぼしき人物に連れられて、鳥越の神社から浅草橋方面に向かっている。参拝をすませたのか、顔はほがらかだ。
彼方から聞こえるのは子供の声で、親に呼ばれて家に向かっているようだ。お兄さんがなおも遊びたい弟を無理に引っぱっているようで、いやだいやだという叫ぶが途切れることなくつづく。
四月に入れば、一気に暖かくなり、空の色も青さを増す。
今年も江戸の夏は暑いのか。
文次朗は甚内橋を渡ると、池田屋敷の裏手から御蔵方面に足を向けた。
目的のものは、鳥越橋の手前にあった。
「あれがそうか」
ごく普通の屋台だ。二八の文字が行灯には描かれており、客を迎えるための縁台が用意されている。
昨日、文次朗は、隠宅からの帰りに、この蕎麦屋に寄って欲しいと言われていた。何かあるのかと訊くと、何もない、ただ蕎麦を食べればいいとのことだった。
何のことかはわからないが、とにかく頼まれたのならば、きちんとやり遂げたい。手間賃をもらっているのだから、なおさらだ。
「すまぬ。蕎麦を一つもらえるか」
主に声をかけると、低い声が返ってきた。あまり愛想は感じられない。
文次朗が屋台をのぞくと、三〇代後半の男がちょうど鍋に蕎麦を放り込んだところだった。ひどく痩せており、頬の肉は完全に落ちている。肩幅も狭く、懐から見える胸には骨が浮かびあがっていた。
衰えた身体と裏腹だったのが、その目だ。隠しきれない鋭さがあり、単なる町の者とは思えない。
文次朗は縁台に腰を下ろすと、男に話しかけた。
「いつもここでやっているのか」
「さようで」
「私もよくここは通りかかるのであるが、気づかなかったな。いつからやっている?」
「四ヶ月前からで」
「去年の暮れか。それまではどこにいた?」
「芝です。いろいろあって、こちらに移ってきました」
あいかわらず低い声だ。目線は決して合わせようとしない。
「お侍さんがこんなところで蕎麦とは。珍しいですね」
男から語りかけてきたので、文次朗は驚きながら応じた。
「私は蕎麦が大好きでね。おもしろい屋台があるから、行ってみろと言われた」
「どなたで?」
「古本屋の主だよ。まあ、どちらかというと物の怪の類ではあるが」
へえと応じたところで、蕎麦がゆであがったようで、巧みな腕裁きで引っ張りあげ、ざるに置く。
「お待ち」
「では……」
そこで文次朗は目を細めた。
背後から殺気が来る。鋭い。
刀の柄に手を伸ばしたところで、文次朗の隣に褐色の着物を身にまとった男が座ってきた。
背は彼よりも大きいが、蕎麦屋の主と同じく痩せており、顔は汚れが付いているのか黒みを帯びている。月代も髭も伸び放題で、着物の袖もほつれている。
零落した武士といったところだが、先刻の殺気はなんであったか。尋常のものとは思えない。
「いつもの」
武士は高い声で注文し、主は無言で応じる。
ゆであがるまで、さして時はかからなかった。
異変が起きたのは、縁台にざるそばが置かれた時だった。
男の手が刀に伸びる。
思わず文次朗は身体を寄せ、刀の鍔でその腕を押さえた。
「何をするか。どけ」
「物騒であろう。ここは蕎麦を食うところだ」
「余計なことを」
「いいからやめよ。どうしてもというのなら、せめて食べてからにせよ」
文次朗に諭されて、武士は蕎麦を見つめる。手をつけるまでたいして時はかからず、なくなるまでの時もきわめて短かった。
「勝負だ、九郎左衛門」
食べ終わると武士は柄に手をかけた。
声をかけられたであろう相手は、まったく反応しない。ただ、煮立った鍋を見ているだけだ。
「今日こそ決着をつけよう。これ以上、長引かせても仕方あるまい」
いったい何だ。見世物にしては、いささか剣呑である。
立ち去るには機を逸した。立ち合わねばならぬのか。
「敵を討つのであれば、今をおいてないぞ。九郎左衛門。さあ、尋常に勝負だ」
九郎左衛門と呼ばれた男は何も言わない。ただ手元の庖丁を見ているだけだ。
「そこに、脇差しを隠していることは知っている。おぬしの腕ならば、たやすく儂を倒せる。さあ、早々に敵を取れ。この戸川虎之助。逃げも隠れもせぬ」
なんだ、これは。
敵討ちの場面であろうが、妙におかしい。
話から察するに、九郎左衛門は敵持ちで、その相手は目の前にいる武士らしい。
絶好の好機であるはずなのに、まるで動こうとせず、視線をそらして立ち尽くしている。
それを見て相手の武士は自分を討てと言い、その貧相な身体をさらしていた。
何が起きているのか。しばし呆然としながら、文次朗は屋台を挟んでにらみあう二人を見ていた。
相手はかつて油問屋を営んでいた大物で、勉強がしたくて表舞台から退いていた。家には書籍が積まれており、そこには論語集注のような珍しい写本もあった。
つい文次朗は話し込んでしまい、隠宅を辞去したのは申の刻を過ぎてからだった。
晩春のやわらかい日射しが江戸の町を照らす。花の香りがかすかに漂うが、これは椿であろうか。
ふと視線を転じれば、町娘が手代とおぼしき人物に連れられて、鳥越の神社から浅草橋方面に向かっている。参拝をすませたのか、顔はほがらかだ。
彼方から聞こえるのは子供の声で、親に呼ばれて家に向かっているようだ。お兄さんがなおも遊びたい弟を無理に引っぱっているようで、いやだいやだという叫ぶが途切れることなくつづく。
四月に入れば、一気に暖かくなり、空の色も青さを増す。
今年も江戸の夏は暑いのか。
文次朗は甚内橋を渡ると、池田屋敷の裏手から御蔵方面に足を向けた。
目的のものは、鳥越橋の手前にあった。
「あれがそうか」
ごく普通の屋台だ。二八の文字が行灯には描かれており、客を迎えるための縁台が用意されている。
昨日、文次朗は、隠宅からの帰りに、この蕎麦屋に寄って欲しいと言われていた。何かあるのかと訊くと、何もない、ただ蕎麦を食べればいいとのことだった。
何のことかはわからないが、とにかく頼まれたのならば、きちんとやり遂げたい。手間賃をもらっているのだから、なおさらだ。
「すまぬ。蕎麦を一つもらえるか」
主に声をかけると、低い声が返ってきた。あまり愛想は感じられない。
文次朗が屋台をのぞくと、三〇代後半の男がちょうど鍋に蕎麦を放り込んだところだった。ひどく痩せており、頬の肉は完全に落ちている。肩幅も狭く、懐から見える胸には骨が浮かびあがっていた。
衰えた身体と裏腹だったのが、その目だ。隠しきれない鋭さがあり、単なる町の者とは思えない。
文次朗は縁台に腰を下ろすと、男に話しかけた。
「いつもここでやっているのか」
「さようで」
「私もよくここは通りかかるのであるが、気づかなかったな。いつからやっている?」
「四ヶ月前からで」
「去年の暮れか。それまではどこにいた?」
「芝です。いろいろあって、こちらに移ってきました」
あいかわらず低い声だ。目線は決して合わせようとしない。
「お侍さんがこんなところで蕎麦とは。珍しいですね」
男から語りかけてきたので、文次朗は驚きながら応じた。
「私は蕎麦が大好きでね。おもしろい屋台があるから、行ってみろと言われた」
「どなたで?」
「古本屋の主だよ。まあ、どちらかというと物の怪の類ではあるが」
へえと応じたところで、蕎麦がゆであがったようで、巧みな腕裁きで引っ張りあげ、ざるに置く。
「お待ち」
「では……」
そこで文次朗は目を細めた。
背後から殺気が来る。鋭い。
刀の柄に手を伸ばしたところで、文次朗の隣に褐色の着物を身にまとった男が座ってきた。
背は彼よりも大きいが、蕎麦屋の主と同じく痩せており、顔は汚れが付いているのか黒みを帯びている。月代も髭も伸び放題で、着物の袖もほつれている。
零落した武士といったところだが、先刻の殺気はなんであったか。尋常のものとは思えない。
「いつもの」
武士は高い声で注文し、主は無言で応じる。
ゆであがるまで、さして時はかからなかった。
異変が起きたのは、縁台にざるそばが置かれた時だった。
男の手が刀に伸びる。
思わず文次朗は身体を寄せ、刀の鍔でその腕を押さえた。
「何をするか。どけ」
「物騒であろう。ここは蕎麦を食うところだ」
「余計なことを」
「いいからやめよ。どうしてもというのなら、せめて食べてからにせよ」
文次朗に諭されて、武士は蕎麦を見つめる。手をつけるまでたいして時はかからず、なくなるまでの時もきわめて短かった。
「勝負だ、九郎左衛門」
食べ終わると武士は柄に手をかけた。
声をかけられたであろう相手は、まったく反応しない。ただ、煮立った鍋を見ているだけだ。
「今日こそ決着をつけよう。これ以上、長引かせても仕方あるまい」
いったい何だ。見世物にしては、いささか剣呑である。
立ち去るには機を逸した。立ち合わねばならぬのか。
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