戯作者になんてなりたくない

中岡潤一郎

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 翌日になっても、文次朗は混乱していた。
 屋台の情景がどうにも頭を離れなかったからだ。

 敵討ちにしては、奇妙すぎる。

 正面から対峙していながら、互いに手を出そうとしない。追われる側はともかく、追う側が反応しないのはおかしい。

 結局、昨日も屋台の主が手を出さなかったので、武家は口を閉ざして立ち去ってしまった。その顔は真っ赤で、事が思惑どおりに進まなかったことを示していた。

 いったい、どういうことなのか。文次朗は興味をそそられた。
 事の次第を確かめるため、改めて鳥越橋の南詰に向かおうとしたのだが、屋敷を出たところで思わぬ人物と顔をあわせた。

「朝っぱらから申し訳ない」

 頭を下げたのは、昨日の武士であった。

「戸川虎之助と申す。貴殿に話があって参上した。よろしいか」
「それはかまわぬが」

 面食らいながらも、文次朗は近くの小料理屋に虎之助を案内した。
 行きつけの店で、食事が安く、二階にあがれば話もできるので、重宝していた。
 向かい合うような形で座ると、戸倉は頭を下げた。

「昨日はお見苦しいところを」
「いえ、こちらこそ余計な口出しをした。よく私の屋敷がわかったな」
「貴殿が名乗ってくれたので、それを頼りに調べました。近くの小間物屋と貸本屋が詳しくて、津軽様の屋敷の裏にあると教えてくれました」
「それはそれは」
「戯作を書いていると聞きました。なかなか器用かと」

 文次朗は、手にした茶碗を落としかけた。動揺が悟られぬように平静を装う。

「誰から聞いた?」
「近くの貸本屋です。屋敷を捜している時にたまたま」

 あいつか。まったく余計な事を。

「その件はくれぐれも内密に。差し障りがある故な」
「は、はあ」
「して、ご用件は? わざわざ来たのだ。何か話があると見たが」
「はい。実はお願いしたことがございまして。せき九郎左衛門とのことなのです。実は、手前は、あの者の敵でして」
「昨日もそう言っていたな。それにしては、様子が変だったが」

 詳しいことを訊かせていただきたいと文次朗が切り出すと、戸倉は言葉を選んで話を進めた。

 冒頭で、戸倉は自分たちがある大名の家臣であると語った。家の名は明かさなかったが、領地が相模国金沢とのことなので、おおよそ見当はついた。
 二人とも勘定方を務めていたが、ある時、関の兄が戸倉ともめ事を起こし、領内で斬り合いとなった。その時、関の兄は斬られて亡くなり、戸倉は騒ぎが大きくなるのを怖れて出奔した。

「なるほど、それで関殿が敵討ちに出たのか」
「九郎左衛門が来ると知って、手前は逃げました。当初は駿府にいたのですが、追われるようにして上方へ行き、そのまま西国に流れました。しばし伊予松山におりましたが、そこも安寧の地ではなかったので大坂に戻り、越前、加賀へと足を運びました。北国を大きく回って、江戸に戻ってきたのは一年前のことです」
「追われるようになって何年だ」
「五年です。長いようで短い日々でした」

 戸倉は息をつく。やつれた身体は追われて厳しい生活を送っていたせいか。

 敵討ちは、討つ側にも討たれる側にも負担が大きい。
 敵持ちは、追われているとわかっているので、気の休まることがない。常に追っ手の影に神経を尖らせ、気配を感じたら早々に逃げる。諸国をさまよう日々が延々とつづくことになり、それは心に大きな陰を刻む。

 一方の追っ手も、敵を見つけられねば、ずっと故国を離れて旅をつづけることとなり、安定した生活を送ることはできない。十年、十五年と諸国をさまよう者もおり、最後にはあきらめてしまうこともある。

 戯作のように華々しい戦いが展開することはなかったはずで、戸倉も関も長く苦悶の日々を送っていたに違いない。

「もしやして、関殿の前に現れたのは疲れたからか」
「さよう。もう追いかけられるのはしんどくなりました。身を隠していても、何もよいことはありませぬ。ならば、いっそ討たれてやろうと。さすれば、すべてがうまくいきますので」
「すべてがうまく、か」
「江戸に九郎左衛門がいるのはわかっていました。ただ、まさか屋台の主に身をやつしていようとは思わなかったので、捜すのにいささか手間取りましたが」
「それは確かにな」
「決着をつけるため、正体を明かして果たし合いを申し入れたのですが、九郎左衛門は何とも申しません。ただ蕎麦を出して食わせてくれるだけでした。人のいない時に、刀を抜いても見たのですが、応じることはありませんでした。いったい何を考えているのか」

 戸倉は首を振った。その仕草は重く、疲れを感じさせる。

「いつまでも、このままというわけにはいきませぬ。そこで、平野殿に、九郎左衛門の真意を聞いていただきたいのです。いや、無茶なお願いであることは承知しております。昨日あったばかりの方に、このような話をするのもどうかと思います」
「い、いや、ちょっと待ってくれ。手前は……」
「何とぞお願いします。これも袖振りあうも縁と思って」

 戸倉はにじって下がり、両手を突いて頭を下げた。

 いや、まいった。まさか、こんなことになろうとは。
 断るのはたやすい。文次朗は敵討ちに何らかかわりはなく、知らぬ事に手を出すつもりはないと言えば片はつく。面倒に巻きこまれるのは、うまくない。
 だが、放っておくのも気が引ける。たまたまとはいえ、あのような馬を見てしまったからには、なおさらだ。
 流されがちに自分に軽く腹をたてながらも、文次朗は声をかけた。

「顔をあげてくれ。それでは、話もできぬ」
「ですが……」
「まずは関殿がどのような人物か聞かせてくれ。それがわからなければ、かの者の心を探ることもできぬ」

 戸倉は顔をあげる。その表情には先刻までとまるで違う輝きがあった。
 面倒なことになったとは思うが、もう逃げるわけにはいかなった。
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