8 / 11
七
しおりを挟む
「さて、話を聞かせてもらおうか。藤岡屋」
文次朗に問われて、藤岡屋由蔵は顔をあげた。
その瞳に動揺は見られない。いつもと同じく、強く貪欲な光を放っている。
「何のことでしょうか」
「とぼけるな。おぬし、すべてを知っていて、私を屋台に送り込んだな」
文次朗は正面から由蔵をにらんだ。今回ばかりは、言い逃れを許すわけにはいかない。
「鳥越の隠居に本を渡した帰り、屋台に行くように仕向けたのは、二人が面倒を抱えていると知っていたからであろう。敵持ちの戸川がいるのに、関は何もせずに放っている。戸川もまた返り討ちをねらうわけでもなく、逆に関に討たれる時を待ち望んでいる。歪んだ敵討ちで、おぬしが好きそうな話だ」
由蔵は無言である。紙の山に囲まれながら、文次朗を見ている。
いつもと同じ光景だ。藤岡屋の座敷にいる時は、決して文机から離れず、ただ話し相手を見つめるだけだ。
妙な圧力を感じるのは、紙の山のせいだ。由蔵の住み処に飛び込んだからこそ、どこかやりにくいと思っている。その筈なのだが……。
得体の知れない緊張感をおぼえながら、文次朗は先をつづける。
「されど、得体の知れない武家が出てきて、話が変わってきた。奴らは、戸川殿をねらっていた。こちらが声をかけなければ、取り囲んで討ち果たしていただろう。いや、それだけではない。関殿の周りにも、同じような連中が出ている。昨日、姿を見た」
気になった文次朗は、三日ほど屋台の様子を見ていた。
すると、店じまいの寸前、武家の集団が現れ、辺りをうろついていることに気づいた。
身なりは整っており、主持ちであることは間違いない。
おそらく、戸川を襲った連中の仲間だろう。関もまた何らかの理由があってねらわれていた。
「もはや、単なる敵討ちではすまない。大きな企てが動いており、放っておけば二人とも屠られる。そのあたりをわかっていて、私をさし向けたのであろう」
文次朗は珍しく感情をあらわにした。
何度か藤岡屋に振り回されることはあったが、たわいのないことばかりだった。
ツケにしていた団子の代金を払ったり、酒屋から彼の呑む酒を運ぶように仕向けられたりした。多少の損はあっても、酒を呑ましてもらったり、写本を回してもらったりで帳尻はたやすくあった。
しかし、今回は違う。
人の命がかかっていて、それもきわめて危うい。
さすがに放ってはおけない。無駄死にを見るのは気分が悪い。
「どうなのだ?」
「そうだと言ったら、どうしますか」
由蔵の声が響く。それは普段よりも低く、さながら山を下りてくる北風のようであった。
「私の首を取りますか」
「しない。ただ、二度とここには来ない」
文次朗は言い切った。嘘はない。
由蔵は彼の視線を正面から受け止める。文机に筆を置くまでは、かなり時間がかかった。
「平野様のお気持ちはわかりました。まあ、お怒りはごもっともかと」
「藤岡屋」
「はい。おっしゃるとおり、あの二人が理由ありであることを知っていました。敵討ちの子細もつかんでいて、平野様がかかわれば何か話が転がるのではないかと考えておりました。ですが、二人をねらう者がいることは知りませんでした。正しくいえば今は知っておりますが、それは平野様に話をした後のことでした。思いのほか話は面倒なことになっていて、今日にでも話をして手を引いてもらうつもりでいました」
「誠か」
「平野様に嘘は言いませんよ。ご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした」
由蔵が頭を下げた。何を考えているのかわからぬ傲岸な男が謝るのははじめてのことで、正直、文次朗は驚いた。
「わかった。信じよう」
「平野様。もうあの二人にはかかわらないでください。こちらで何とかします」
「それはできん。彼らとは縁もできた。今さら引くつもりはない」
文次朗は座り直し、由蔵を見た。
「話してくれ。何があったのか」
「よろしいので」
「かまわん。引くつもりはないと言ったであろう」
「わかりました。では」
由蔵は、事の次第をすべて語った。
話は簡潔で、きわめてわかりやすかったが、すべてを語り終えるまでは半刻ほどかかった。それだけ事態が複雑に絡みあっていたということだ。
文次朗は嘆息した。
「まさか、そんなことになっていようとは」
「欲がからむと、まあ、こうなります。一度、握ったものは手放したくないようで。子供にできることが大人になると、むずかしくなりますな」
「早々に動かねばならぬ。手をこまねいていると、あの二人が危ない」
「平野様、手を貸していただきますか」
「無論だ。何をすればいい」
「すぐに会っていただきたいのですよ。すべての鍵を握る者に」
由蔵が名をあげると、文次朗は息を呑んだ。
旗本の部屋住みが顔をあわせるには、むずかしい相手だ。
だが、ここはやるしかない。今となっては手段を選んでいられなかった。
文次朗に問われて、藤岡屋由蔵は顔をあげた。
その瞳に動揺は見られない。いつもと同じく、強く貪欲な光を放っている。
「何のことでしょうか」
「とぼけるな。おぬし、すべてを知っていて、私を屋台に送り込んだな」
文次朗は正面から由蔵をにらんだ。今回ばかりは、言い逃れを許すわけにはいかない。
「鳥越の隠居に本を渡した帰り、屋台に行くように仕向けたのは、二人が面倒を抱えていると知っていたからであろう。敵持ちの戸川がいるのに、関は何もせずに放っている。戸川もまた返り討ちをねらうわけでもなく、逆に関に討たれる時を待ち望んでいる。歪んだ敵討ちで、おぬしが好きそうな話だ」
由蔵は無言である。紙の山に囲まれながら、文次朗を見ている。
いつもと同じ光景だ。藤岡屋の座敷にいる時は、決して文机から離れず、ただ話し相手を見つめるだけだ。
妙な圧力を感じるのは、紙の山のせいだ。由蔵の住み処に飛び込んだからこそ、どこかやりにくいと思っている。その筈なのだが……。
得体の知れない緊張感をおぼえながら、文次朗は先をつづける。
「されど、得体の知れない武家が出てきて、話が変わってきた。奴らは、戸川殿をねらっていた。こちらが声をかけなければ、取り囲んで討ち果たしていただろう。いや、それだけではない。関殿の周りにも、同じような連中が出ている。昨日、姿を見た」
気になった文次朗は、三日ほど屋台の様子を見ていた。
すると、店じまいの寸前、武家の集団が現れ、辺りをうろついていることに気づいた。
身なりは整っており、主持ちであることは間違いない。
おそらく、戸川を襲った連中の仲間だろう。関もまた何らかの理由があってねらわれていた。
「もはや、単なる敵討ちではすまない。大きな企てが動いており、放っておけば二人とも屠られる。そのあたりをわかっていて、私をさし向けたのであろう」
文次朗は珍しく感情をあらわにした。
何度か藤岡屋に振り回されることはあったが、たわいのないことばかりだった。
ツケにしていた団子の代金を払ったり、酒屋から彼の呑む酒を運ぶように仕向けられたりした。多少の損はあっても、酒を呑ましてもらったり、写本を回してもらったりで帳尻はたやすくあった。
しかし、今回は違う。
人の命がかかっていて、それもきわめて危うい。
さすがに放ってはおけない。無駄死にを見るのは気分が悪い。
「どうなのだ?」
「そうだと言ったら、どうしますか」
由蔵の声が響く。それは普段よりも低く、さながら山を下りてくる北風のようであった。
「私の首を取りますか」
「しない。ただ、二度とここには来ない」
文次朗は言い切った。嘘はない。
由蔵は彼の視線を正面から受け止める。文机に筆を置くまでは、かなり時間がかかった。
「平野様のお気持ちはわかりました。まあ、お怒りはごもっともかと」
「藤岡屋」
「はい。おっしゃるとおり、あの二人が理由ありであることを知っていました。敵討ちの子細もつかんでいて、平野様がかかわれば何か話が転がるのではないかと考えておりました。ですが、二人をねらう者がいることは知りませんでした。正しくいえば今は知っておりますが、それは平野様に話をした後のことでした。思いのほか話は面倒なことになっていて、今日にでも話をして手を引いてもらうつもりでいました」
「誠か」
「平野様に嘘は言いませんよ。ご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした」
由蔵が頭を下げた。何を考えているのかわからぬ傲岸な男が謝るのははじめてのことで、正直、文次朗は驚いた。
「わかった。信じよう」
「平野様。もうあの二人にはかかわらないでください。こちらで何とかします」
「それはできん。彼らとは縁もできた。今さら引くつもりはない」
文次朗は座り直し、由蔵を見た。
「話してくれ。何があったのか」
「よろしいので」
「かまわん。引くつもりはないと言ったであろう」
「わかりました。では」
由蔵は、事の次第をすべて語った。
話は簡潔で、きわめてわかりやすかったが、すべてを語り終えるまでは半刻ほどかかった。それだけ事態が複雑に絡みあっていたということだ。
文次朗は嘆息した。
「まさか、そんなことになっていようとは」
「欲がからむと、まあ、こうなります。一度、握ったものは手放したくないようで。子供にできることが大人になると、むずかしくなりますな」
「早々に動かねばならぬ。手をこまねいていると、あの二人が危ない」
「平野様、手を貸していただきますか」
「無論だ。何をすればいい」
「すぐに会っていただきたいのですよ。すべての鍵を握る者に」
由蔵が名をあげると、文次朗は息を呑んだ。
旗本の部屋住みが顔をあわせるには、むずかしい相手だ。
だが、ここはやるしかない。今となっては手段を選んでいられなかった。
0
あなたにおすすめの小説
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる