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第7話 雨のロビーと、ルール⑤
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翌朝、出社してすぐに空気の違いに気づいた。フロアのあちこちで画面をのぞき込む人、押し殺した声。
背中に小さく汗がにじむ。エレベーターの鏡に映る自分の表情を整えたところで、スマホが震えた。
> Reo:心配しないで。
短い文字に、肺の奥がひとつ膨らむ。私は同じ印を返した。
> Mio:OK。
経理の島につくと、柏木くんが小声で近づいた。
「先輩……これ、見ました?」
差し出されたのはニュースサイト。
《若手社長・如月玲央、謎の女性と“同居”か》という見出しの横に、ぼやけた写真。昨夜のエントランスだ。
胸の奥がぎゅっと縮まる。けれど私は、画面をそっと伏せて微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう」
午前中は玲央さんから送られてきた文字と向き合って心をしずめ、昼休み、私は静かな非常階段で深呼吸をひとつ。そこへタイミング悪く、雨が降り出したのか、ガラス越しに空が暗くなる。再びスマホが震えた。
> Reo:昼、少しだけ会える? B1の車寄せ。
胸が跳ねる。私は了解を返してエレベーターへ。ちょうどその時、柏木くんが傘を二本持って駆け寄ってきた。
「花宮先輩、雨ですよ。俺、下まで送ります」
「えっ、でも――」
「気にしないでください。記者も外にいますし」
善意だ、とわかっている。それでも、胸のどこかがざわつく。断りあぐねて並んでエレベーターに乗ると、そこにはすでに秘書の月島さんがいた。無表情の眼差しで、私たちの距離を一度だけ測る。
「花宮さん。社長がお待ちです。――お連れします」
扉が閉まり、静かな下降。B1で開いた瞬間、黒い車の後席ドアが内側から開いた。
「どうぞ」
玲央さんの声。柏木くんが私を見て、小さく頭を下げた。
「気をつけてください」
車内のドアが閉まる。雨音が遠くなる。途端に、世界が二人だけになった。
「……写真の件、すみません。僕の判断が甘かった」
「謝らないでください。私、平気です」
「平気じゃない顔をしてますよ。――手を」
求められるまま、指を重ねる。触れた瞬間、胸のざわめきがほどけていく。
玲央さんは、私の手を包んだまま穏やかに言った。
「ルールを一つ、増やしましょう」
喉が鳴る。
「ルール⑤――“不安は隠さず、僕にすぐ言うこと”。それがどんなに小さなものでも、です」
「……小さなものでも?」
「小さなものほど、聞かせてください。君の不安は、全部、どうにかしてあげるのが僕の仕事です」
言葉の最後だけ、声が低くなった。ひどい甘さで、涙が出そうになる。
「じゃあ、ひとつだけ……。さっき、柏木くんが、傘で送ろうって」
「――知っています」
即答に目を瞬くと、彼はふっと肩を落として笑う。
「月島が全部、僕に報告しますから。嫉妬しない日なんて、今のところ一日もない」
「えっ……」
「午後は大きな会議が続きます。終わったら、すぐに帰ります。玄関で――ルール①の続き、できますか」
「……頬。が、限界です」
「十分です。頬は、僕の理性の最後の護符なので」
まじめな顔で言うから、笑いそうになってしまう。
車を降りる間際、彼は窓越しにもう一度私の手を握った。
「美桜。君は立派に強い。でも――僕に、守らせてください」
うなずくしかできなかった。
◇ ◇ ◇
午後、社長室前を通りすぎるたびに扉の向こうの空気が張る。
たぶん彼は、外部役員との会議や、メディア対策を考えているはず。
妨げにならないように目線を落とし、夕方、私は先に退社の準備をした。
エントランスは相変わらずざわめいていた。ガラスの外を、雨が真珠みたいに滑り落ちる。
傘を開こうとしたその時、横から伸びた黒い傘が私の頭上へふわりとかざされた。
「送ります」
月島さんだった。いつもの無表情が、わずかに柔らかい。
「今日は、社長からの“おねがい”ですから」
「……ありがとうございます」
B2の車寄せへ向かう途中、雨粒の幕に光るフラッシュが二回。体が強張るのを、月島さんがさりげなく遮る。
「正面対応は社長がします。花宮さんは、日常を続けるだけでいい」
ドアが開く。乗り込んだ瞬間、玲央さんの空気が胸いっぱいに満ちて、やっと息ができた。
「おかえり」
低い声。私の手から傘を受け取ると、そのまま指先を絡める。
「……ただいま、玲央さん」
「ルール①、僕からよろしいですか」
私の頬に唇が触れる前、彼は一度だけためらう。
触れたのは、ほんの一秒。けれど体温は長く残った。
私が笑うと、彼も少しだけ笑顔を見せた。
◇ ◇ ◇
その夜。食卓のキャンドルに火を点ける。炎の向こうで、玲央さんがタブレット端末を閉じた。
「正式に広報を動かしました。“交際相手がいることは事実、プライベートには踏み込まないでほしい”と伝えます」
「私の名前は……?」
「出しません。君の生活を守りたい」
ほっとする私を見て、彼は一息だけ息をついだ。
「ただ、明日、父と会います。政略婚の話を、正式に断るために。――同席してくれますか」
「私が、行っていいんですか」
「僕の“現実の選択”を、君に見てほしい」
その言葉が、胸の一番奥に灯をともす。私は小さく頷いた。
「行きます。……怖いですけど」
「怖いと不安を言えたので、ルール⑤は早くも合格です」
ふっと笑った彼が、キャンドルの炎を指でさえぎる。影が寄り添い、近づく。
「美桜。君がそばにいてくれるから、僕は強くなる。――だから、明日もおねがいします」
「はい。OK、です」
たった二文字。けれど、どんな長い言葉よりも、今の私たちには確かな合図だった。
窓の外、雨はまだやまない。
けれど、私たちの間には、消えない灯がひとつ。“25”という小さな炎が、静かに揺れていた。
背中に小さく汗がにじむ。エレベーターの鏡に映る自分の表情を整えたところで、スマホが震えた。
> Reo:心配しないで。
短い文字に、肺の奥がひとつ膨らむ。私は同じ印を返した。
> Mio:OK。
経理の島につくと、柏木くんが小声で近づいた。
「先輩……これ、見ました?」
差し出されたのはニュースサイト。
《若手社長・如月玲央、謎の女性と“同居”か》という見出しの横に、ぼやけた写真。昨夜のエントランスだ。
胸の奥がぎゅっと縮まる。けれど私は、画面をそっと伏せて微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう」
午前中は玲央さんから送られてきた文字と向き合って心をしずめ、昼休み、私は静かな非常階段で深呼吸をひとつ。そこへタイミング悪く、雨が降り出したのか、ガラス越しに空が暗くなる。再びスマホが震えた。
> Reo:昼、少しだけ会える? B1の車寄せ。
胸が跳ねる。私は了解を返してエレベーターへ。ちょうどその時、柏木くんが傘を二本持って駆け寄ってきた。
「花宮先輩、雨ですよ。俺、下まで送ります」
「えっ、でも――」
「気にしないでください。記者も外にいますし」
善意だ、とわかっている。それでも、胸のどこかがざわつく。断りあぐねて並んでエレベーターに乗ると、そこにはすでに秘書の月島さんがいた。無表情の眼差しで、私たちの距離を一度だけ測る。
「花宮さん。社長がお待ちです。――お連れします」
扉が閉まり、静かな下降。B1で開いた瞬間、黒い車の後席ドアが内側から開いた。
「どうぞ」
玲央さんの声。柏木くんが私を見て、小さく頭を下げた。
「気をつけてください」
車内のドアが閉まる。雨音が遠くなる。途端に、世界が二人だけになった。
「……写真の件、すみません。僕の判断が甘かった」
「謝らないでください。私、平気です」
「平気じゃない顔をしてますよ。――手を」
求められるまま、指を重ねる。触れた瞬間、胸のざわめきがほどけていく。
玲央さんは、私の手を包んだまま穏やかに言った。
「ルールを一つ、増やしましょう」
喉が鳴る。
「ルール⑤――“不安は隠さず、僕にすぐ言うこと”。それがどんなに小さなものでも、です」
「……小さなものでも?」
「小さなものほど、聞かせてください。君の不安は、全部、どうにかしてあげるのが僕の仕事です」
言葉の最後だけ、声が低くなった。ひどい甘さで、涙が出そうになる。
「じゃあ、ひとつだけ……。さっき、柏木くんが、傘で送ろうって」
「――知っています」
即答に目を瞬くと、彼はふっと肩を落として笑う。
「月島が全部、僕に報告しますから。嫉妬しない日なんて、今のところ一日もない」
「えっ……」
「午後は大きな会議が続きます。終わったら、すぐに帰ります。玄関で――ルール①の続き、できますか」
「……頬。が、限界です」
「十分です。頬は、僕の理性の最後の護符なので」
まじめな顔で言うから、笑いそうになってしまう。
車を降りる間際、彼は窓越しにもう一度私の手を握った。
「美桜。君は立派に強い。でも――僕に、守らせてください」
うなずくしかできなかった。
◇ ◇ ◇
午後、社長室前を通りすぎるたびに扉の向こうの空気が張る。
たぶん彼は、外部役員との会議や、メディア対策を考えているはず。
妨げにならないように目線を落とし、夕方、私は先に退社の準備をした。
エントランスは相変わらずざわめいていた。ガラスの外を、雨が真珠みたいに滑り落ちる。
傘を開こうとしたその時、横から伸びた黒い傘が私の頭上へふわりとかざされた。
「送ります」
月島さんだった。いつもの無表情が、わずかに柔らかい。
「今日は、社長からの“おねがい”ですから」
「……ありがとうございます」
B2の車寄せへ向かう途中、雨粒の幕に光るフラッシュが二回。体が強張るのを、月島さんがさりげなく遮る。
「正面対応は社長がします。花宮さんは、日常を続けるだけでいい」
ドアが開く。乗り込んだ瞬間、玲央さんの空気が胸いっぱいに満ちて、やっと息ができた。
「おかえり」
低い声。私の手から傘を受け取ると、そのまま指先を絡める。
「……ただいま、玲央さん」
「ルール①、僕からよろしいですか」
私の頬に唇が触れる前、彼は一度だけためらう。
触れたのは、ほんの一秒。けれど体温は長く残った。
私が笑うと、彼も少しだけ笑顔を見せた。
◇ ◇ ◇
その夜。食卓のキャンドルに火を点ける。炎の向こうで、玲央さんがタブレット端末を閉じた。
「正式に広報を動かしました。“交際相手がいることは事実、プライベートには踏み込まないでほしい”と伝えます」
「私の名前は……?」
「出しません。君の生活を守りたい」
ほっとする私を見て、彼は一息だけ息をついだ。
「ただ、明日、父と会います。政略婚の話を、正式に断るために。――同席してくれますか」
「私が、行っていいんですか」
「僕の“現実の選択”を、君に見てほしい」
その言葉が、胸の一番奥に灯をともす。私は小さく頷いた。
「行きます。……怖いですけど」
「怖いと不安を言えたので、ルール⑤は早くも合格です」
ふっと笑った彼が、キャンドルの炎を指でさえぎる。影が寄り添い、近づく。
「美桜。君がそばにいてくれるから、僕は強くなる。――だから、明日もおねがいします」
「はい。OK、です」
たった二文字。けれど、どんな長い言葉よりも、今の私たちには確かな合図だった。
窓の外、雨はまだやまない。
けれど、私たちの間には、消えない灯がひとつ。“25”という小さな炎が、静かに揺れていた。
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