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第8話 父の前で、嘘のない選択を
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翌日。雨の名残りが路面に光を残す午後、私たちは本社近くの重厚なホテルラウンジへ向かった。深い革張りの椅子と低く流れるクラシック。待っているのは――如月グループ会長、玲央さんの父。
「久しいな、玲央」
視線は私を素通りし、検分するような冷たさで息子だけを見る。
私の背筋が自然に伸びる。私はとなりにいる玲央さんを見た。
こちらを見る彼のやさしいまなざしで、肺に入る空気がやっと重さをなくす。
「紹介してもらえるのか、婚約者を」
会長の言葉に、玲央さんは私の手を静かに取った。テーブルの下、指が絡む。
「花宮美桜。僕の――守りたい人です」
すると、会長が鼻で笑う。
「守る? 会社を守るのが先だ。君には適切な縁談がある。先方は既に了承している」
淡々と投げられる名前。名門、血統、資本。
胸がざわめく。けれど、隣の指は微動だにしない。玲央さんは視線を逸らさず、低く、落ち着いて言う。
「政略婚は受けません。それで困る株主がいるなら、僕の仕事で納得させます」
会長の目がわずかに細くなる。
「昨日の写真のこともある。軽率だな、玲央。女に惑わされるようでは――」
「惑わされてはいません」
その一言が、ラウンジの温度を変えた。私の指先に、彼の体温が強く流れ込む。
「軽率でも一時の気の迷いでもない。選んで、決めて、ここに連れてきました」
会長の向かい側で、人の気配。スーツ姿の若い女性がひとり、静かに腰を下ろす。すべらかな所作、完璧な笑顔。
「ご挨拶が遅れました。桐生財閥の桐生です。――会長に頼まれて……、玲央様、少しだけお時間をよろしいですか」
彼女は一瞬だけ私へ視線を投げ、微笑を崩さず続けた。
「噂は、すでに拝見しました。けれどご心配なく。公的には、まだ何も決まっていません。今からでも間に合いますよ?」
やわらかい声に見える刃。喉が乾く。その瞬間、玲央さんが私の手を強くにぎる。
「桐生さん。僕の私生活に、“公的”は要りません」
静かな宣告に、彼女の睫毛が一瞬だけピクリと跳ねた。
会長は肘掛けを、トンッと指で鳴らす。
「私生活をとるなら、会社を降りてもらおうか」
「そちらが望むなら、僕の保有株で敵対的買収を防ぎつつ代表を降ります。その代わり、研究開発と事業の再編権は僕に。――会社を守るために、僕は“僕のやり方”で戦います」
会長の喉がわずかに鳴った。言葉が止まる。
桐生さんの笑みが、薄くほどける。
「……強情ね、如月社長。けれど、嫌いではないわ。“交渉の余地はない”と確認できただけでも、収穫があるもの。では、これで私は失礼します」
彼女が立つ。
通り際、私に視線だけを落とし、小さく囁いた。
「守られるだけでは、隣に立てない。――覚えておくといいわ」
背筋に冷たい風が通り、次の瞬間、横の指がきゅっと強く握ってくれた。
会長が重く息を吐く。
「……お前は昔から、言い出したら聞かん。二十五日? そんな茶番で何が証明できる」
「証明ではなく、約束を育てています。毎日ひとつずつルールを覚えて、嘘をつかないで暮らす。二十五日で終わりにしないために」
会長の視線が、初めてまっすぐ私に向く。私は逃げずに受け止めた。
その時、玲央さんが私の指をそっと解き、テーブルの上で堂々と重ね直す。隠さない宣言。
「ルール⑥を増やします」
彼は私の方を見て頷き、はっきりと言った。
ルール⑥ “嘘をつかない。迷ったら、正直に言う”。家の中でも、外でも。
「ここで宣言します。僕は花宮美桜を“契約の相手”ではなく“人生の相手”として選ぶ。ビジネスでは多数派の納得を取りにいく」
ラウンジの時計が、ひとつ時を刻む音。
会長は長く目を閉じ、やがて短く笑った。
「……好きにしろ。その代わり、結果で黙らせろ。三ヶ月で利益率二%改善。できるな?」
「やります。――だから、僕の私生活には踏み込まないでください」
会長の視線が、最後に私を掠めた。重い確認のようで、脅しではなかった。
「娘さん。背中を預けられるほど、強くなれ」
会長は立ち上がり、去っていった。残された空気が一気に軽くなる。
視界が滲む。泣きそうなのを笑いに変えようとしたとき、テーブルの上で彼の指が私の涙の跡をそっと拭った。
「隣に立ってくれて、ありがとう。さっきの言葉、きみのおかげで胸を張って言えた」
「……私は、ずっと震えているだけでした」
「震えていても、となりにいてくれたし、嘘はつかなかった。ルール⑥、初日から合格です」
会計のサインを済ませ、私たちは外へ出た。
さっきまでの雨雲は薄れ、雲間から光が落ちてくる。信号待ちの横断歩道、ふと人波の向こうで、カメラを掲げる影が揺れた。
「――いますね」
言うより先に、玲央さんの手が私を抱き寄せ、片腕でガードする。低く身を屈め、耳元で囁く。
「僕だけを見て」
頷いて、私は彼を見る。
フラッシュが白く弾けても、視界は彼の肩しか映らない。心臓はまだ速いのに、不思議と怖くなかった。
横断歩道が青に変わる。彼は手を離さず、歩幅を合わせてくれる。
「美桜。二十五日で終わらせないために、ひとつ提案だ」
「……はい?」
「二十五日が過ぎたら、今度は【未来をどうするか】を二人で選ぶ」
喉の奥で、喜びが音になる。
「約束、してくれますか」
「……約束します」
交差点の真ん中で、私たちは小さく笑い合った。
――嘘のない選択を、これからも。
「久しいな、玲央」
視線は私を素通りし、検分するような冷たさで息子だけを見る。
私の背筋が自然に伸びる。私はとなりにいる玲央さんを見た。
こちらを見る彼のやさしいまなざしで、肺に入る空気がやっと重さをなくす。
「紹介してもらえるのか、婚約者を」
会長の言葉に、玲央さんは私の手を静かに取った。テーブルの下、指が絡む。
「花宮美桜。僕の――守りたい人です」
すると、会長が鼻で笑う。
「守る? 会社を守るのが先だ。君には適切な縁談がある。先方は既に了承している」
淡々と投げられる名前。名門、血統、資本。
胸がざわめく。けれど、隣の指は微動だにしない。玲央さんは視線を逸らさず、低く、落ち着いて言う。
「政略婚は受けません。それで困る株主がいるなら、僕の仕事で納得させます」
会長の目がわずかに細くなる。
「昨日の写真のこともある。軽率だな、玲央。女に惑わされるようでは――」
「惑わされてはいません」
その一言が、ラウンジの温度を変えた。私の指先に、彼の体温が強く流れ込む。
「軽率でも一時の気の迷いでもない。選んで、決めて、ここに連れてきました」
会長の向かい側で、人の気配。スーツ姿の若い女性がひとり、静かに腰を下ろす。すべらかな所作、完璧な笑顔。
「ご挨拶が遅れました。桐生財閥の桐生です。――会長に頼まれて……、玲央様、少しだけお時間をよろしいですか」
彼女は一瞬だけ私へ視線を投げ、微笑を崩さず続けた。
「噂は、すでに拝見しました。けれどご心配なく。公的には、まだ何も決まっていません。今からでも間に合いますよ?」
やわらかい声に見える刃。喉が乾く。その瞬間、玲央さんが私の手を強くにぎる。
「桐生さん。僕の私生活に、“公的”は要りません」
静かな宣告に、彼女の睫毛が一瞬だけピクリと跳ねた。
会長は肘掛けを、トンッと指で鳴らす。
「私生活をとるなら、会社を降りてもらおうか」
「そちらが望むなら、僕の保有株で敵対的買収を防ぎつつ代表を降ります。その代わり、研究開発と事業の再編権は僕に。――会社を守るために、僕は“僕のやり方”で戦います」
会長の喉がわずかに鳴った。言葉が止まる。
桐生さんの笑みが、薄くほどける。
「……強情ね、如月社長。けれど、嫌いではないわ。“交渉の余地はない”と確認できただけでも、収穫があるもの。では、これで私は失礼します」
彼女が立つ。
通り際、私に視線だけを落とし、小さく囁いた。
「守られるだけでは、隣に立てない。――覚えておくといいわ」
背筋に冷たい風が通り、次の瞬間、横の指がきゅっと強く握ってくれた。
会長が重く息を吐く。
「……お前は昔から、言い出したら聞かん。二十五日? そんな茶番で何が証明できる」
「証明ではなく、約束を育てています。毎日ひとつずつルールを覚えて、嘘をつかないで暮らす。二十五日で終わりにしないために」
会長の視線が、初めてまっすぐ私に向く。私は逃げずに受け止めた。
その時、玲央さんが私の指をそっと解き、テーブルの上で堂々と重ね直す。隠さない宣言。
「ルール⑥を増やします」
彼は私の方を見て頷き、はっきりと言った。
ルール⑥ “嘘をつかない。迷ったら、正直に言う”。家の中でも、外でも。
「ここで宣言します。僕は花宮美桜を“契約の相手”ではなく“人生の相手”として選ぶ。ビジネスでは多数派の納得を取りにいく」
ラウンジの時計が、ひとつ時を刻む音。
会長は長く目を閉じ、やがて短く笑った。
「……好きにしろ。その代わり、結果で黙らせろ。三ヶ月で利益率二%改善。できるな?」
「やります。――だから、僕の私生活には踏み込まないでください」
会長の視線が、最後に私を掠めた。重い確認のようで、脅しではなかった。
「娘さん。背中を預けられるほど、強くなれ」
会長は立ち上がり、去っていった。残された空気が一気に軽くなる。
視界が滲む。泣きそうなのを笑いに変えようとしたとき、テーブルの上で彼の指が私の涙の跡をそっと拭った。
「隣に立ってくれて、ありがとう。さっきの言葉、きみのおかげで胸を張って言えた」
「……私は、ずっと震えているだけでした」
「震えていても、となりにいてくれたし、嘘はつかなかった。ルール⑥、初日から合格です」
会計のサインを済ませ、私たちは外へ出た。
さっきまでの雨雲は薄れ、雲間から光が落ちてくる。信号待ちの横断歩道、ふと人波の向こうで、カメラを掲げる影が揺れた。
「――いますね」
言うより先に、玲央さんの手が私を抱き寄せ、片腕でガードする。低く身を屈め、耳元で囁く。
「僕だけを見て」
頷いて、私は彼を見る。
フラッシュが白く弾けても、視界は彼の肩しか映らない。心臓はまだ速いのに、不思議と怖くなかった。
横断歩道が青に変わる。彼は手を離さず、歩幅を合わせてくれる。
「美桜。二十五日で終わらせないために、ひとつ提案だ」
「……はい?」
「二十五日が過ぎたら、今度は【未来をどうするか】を二人で選ぶ」
喉の奥で、喜びが音になる。
「約束、してくれますか」
「……約束します」
交差点の真ん中で、私たちは小さく笑い合った。
――嘘のない選択を、これからも。
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