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第9話 噂の火種と、ルール⑦
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会長との面会の翌日、社内の空気は妙に静かだった。ウワサする囁き声は減ったのに、視線だけが追ってくる。風が止んだ時の、嵐の前の気配に似ている。
(落ち着いて。――いつも通りに)
午前中、決算の仕訳を詰めていると、総務の柏木くんが声を潜めてやって来た。
「花宮先輩……ちょっとだけ、いいですか」
彼に連れられて入った会議室は、窓際に柔らかな光が落ちている。柏木くんは紙袋を差し出した。
「先輩、食べる暇ないでしょ。これ、サンドとカットフルーツ。……それと、これ」
取り出されたのは、地味な色の小さな手帳。手触りの良い布張りだ。
「“今日よかったこと”を一行書く手帳です。……先輩、最近顔が疲れていそうだったから、少しでも気分がよくなるんじゃないかと思って……。あの、俺、先輩の味方ですからね」
善意は、たしかにあたたかい。けれど、胸のどこかがざわつく。礼を言おうとした時、会議室のドアがノックされ、秘書課の月島さんが立っていた。
「花宮さん、社長が資料確認でお呼びです」
いつも通りの無表情、なのに空気の温度が一度下がる。柏木くんは肩をすくめ、紙袋を押しつけるように私へ渡した。
「また、困ったら言ってください」
会議室を出ると同時にスマホが震えた。
> Reo:会議室、寒くなかった?
どこまで見えているの、と思いつつ指が動く。
> Mio:差し入れをもらっただけです。大丈夫
> Reo:うん、知ってる。
その短いやりとりで、背筋のこわばりが解けていく。
◇ ◇ ◇
午後いち、社長室。プレゼン資料の数値を確認する間、玲央さんは一切、余計なことを言わなかった。ただ、最後のページまで終わったところで、低く囁く。
「その手帳、いいね」
「えっ……なんで手帳のこと知っているんですか?」
「月島が“布張りの地味な手帳”と言っていた。――総務の柏木くんから、もらったんだっけ?
彼、きみに気があるんじゃないかな」
「……そんなことは、ないと思いますけど」
「そう?」
微かに笑ってから、彼は真顔に戻る。
「ルール⑦を決めましょうか」
白紙のメモに、さらりと書かれた一行。
【ルール⑦ “週に一度はふたりで外に出る”。仕事の顔ではなく、“恋人の顔で”】
「デートを“会社公認の打ち合わせ”にすれば楽だけど、それじゃ意味がない。君の手を、僕が“仕事じゃない手”で握る日が必要です」
胸が、じんと熱くなる。
「……どこに行きますか」
「君の“普段”。行き慣れた街、よく飲むコーヒー、好きな本屋。――君が見ている世界を、僕の記憶に入れたい」
その言葉に、思わず笑ってしまう。彼の目元も、同時にほどけた。
「それと、“週一”にこだわるのは、二十五日で終わらせないための習慣にしたいから」
「はい。……楽しみです」
◇ ◇ ◇
夕方、エレベーター前。背後で名前を呼ばれて振り返ると、総務の女性二人が困ったように笑っている。
「花宮さん、最近、社長と噂になってるでしょ? その、柏木くん、巻き込まないであげて」
空気がきしむ音がした。言葉は柔らかいのに、トゲがある。
「巻き込むつもりはありません」
「でも、彼、優しいから。誤解されたら可哀想だよ?」
可哀想。私の中で何かがかちりと噛み合う。
彼女たちが去った後、与えられた言葉の置き場所に困っていると、だれかが歩み寄ってきた。社長秘書の月島さんだ。
「社長が下でお待ちです。――“可哀想”は、言った人の責任ですよ。あまり気にする必要はありません」
短い言葉に救われる。
B2で車に乗り込むと、玲央さんはいつものように、おだやかな顔つきで私を見る。
「……なにかと戦ってきたね」
「まあ、少しだけ。不安は、ちゃんと伝えます」
「ルール⑤、合格だ」
彼はハンドルから片手を離し、私の膝に置かれていた手帳をぽん、と軽く叩いた。
「それ、君が使うなら僕も同じものを使う。“今日よかったこと”を一行、毎晩、見せ合おう」
「見せ合う、んですか」
「うん。きみには嘘をつきたくないから」
◇ ◇ ◇
夜。マンションのダイニングで、キャンドルに火を入れる。
私は手帳を開き、一行だけ書いて差し出した。
『今日は、いやなことから目をそらさずにいられた』
玲央さんは、同じ布張りの手帳を開く。
すでに書かれていた一行を、私に向けた。
『彼女が、僕に正直でいてくれた』
喉の奥が熱くなる。彼は手を伸ばして、私の頬に触れた。
「ふたりで正直でいよう。噂は、いつか鎮火する。けれど、嘘は残る。僕たちは、それだけは作らない」
「はい」
「そして――今週末、ルール⑦の初回。君が見てきた“普段の町”を歩きたい」
思わず、笑顔が勝手に生まれる。
私の大切な駅前通り、小さな喫茶店、夜まで開いている古本屋。誰かに自慢したことなんてない場所たちが、急に宝物みたいに思えてくる。
「ただし」
彼は指を一本立てる。
「ルール①の“ただいまのキス”は、今日から僕の番です」
心臓が飛び跳ねる音が、自分にも聞こえた。頬に、昨日より一瞬だけ長い温度が降りる。
「……それは少し、反則、です」
「君が“OK”をくれたら、僕はどこまででも理性を守ります」
「……OK」
ただ二文字。けれど、今の私たちには十分すぎる。
窓の外、街の灯りが遠くで揺れる。明日の噂は、また別の形でやって来るだろう。
それでも、手帳の一行、キャンドルの数字、そして“OK”のサイン。
――私たちの火は、簡単には消えない。そう信じられる夜だった。
(落ち着いて。――いつも通りに)
午前中、決算の仕訳を詰めていると、総務の柏木くんが声を潜めてやって来た。
「花宮先輩……ちょっとだけ、いいですか」
彼に連れられて入った会議室は、窓際に柔らかな光が落ちている。柏木くんは紙袋を差し出した。
「先輩、食べる暇ないでしょ。これ、サンドとカットフルーツ。……それと、これ」
取り出されたのは、地味な色の小さな手帳。手触りの良い布張りだ。
「“今日よかったこと”を一行書く手帳です。……先輩、最近顔が疲れていそうだったから、少しでも気分がよくなるんじゃないかと思って……。あの、俺、先輩の味方ですからね」
善意は、たしかにあたたかい。けれど、胸のどこかがざわつく。礼を言おうとした時、会議室のドアがノックされ、秘書課の月島さんが立っていた。
「花宮さん、社長が資料確認でお呼びです」
いつも通りの無表情、なのに空気の温度が一度下がる。柏木くんは肩をすくめ、紙袋を押しつけるように私へ渡した。
「また、困ったら言ってください」
会議室を出ると同時にスマホが震えた。
> Reo:会議室、寒くなかった?
どこまで見えているの、と思いつつ指が動く。
> Mio:差し入れをもらっただけです。大丈夫
> Reo:うん、知ってる。
その短いやりとりで、背筋のこわばりが解けていく。
◇ ◇ ◇
午後いち、社長室。プレゼン資料の数値を確認する間、玲央さんは一切、余計なことを言わなかった。ただ、最後のページまで終わったところで、低く囁く。
「その手帳、いいね」
「えっ……なんで手帳のこと知っているんですか?」
「月島が“布張りの地味な手帳”と言っていた。――総務の柏木くんから、もらったんだっけ?
彼、きみに気があるんじゃないかな」
「……そんなことは、ないと思いますけど」
「そう?」
微かに笑ってから、彼は真顔に戻る。
「ルール⑦を決めましょうか」
白紙のメモに、さらりと書かれた一行。
【ルール⑦ “週に一度はふたりで外に出る”。仕事の顔ではなく、“恋人の顔で”】
「デートを“会社公認の打ち合わせ”にすれば楽だけど、それじゃ意味がない。君の手を、僕が“仕事じゃない手”で握る日が必要です」
胸が、じんと熱くなる。
「……どこに行きますか」
「君の“普段”。行き慣れた街、よく飲むコーヒー、好きな本屋。――君が見ている世界を、僕の記憶に入れたい」
その言葉に、思わず笑ってしまう。彼の目元も、同時にほどけた。
「それと、“週一”にこだわるのは、二十五日で終わらせないための習慣にしたいから」
「はい。……楽しみです」
◇ ◇ ◇
夕方、エレベーター前。背後で名前を呼ばれて振り返ると、総務の女性二人が困ったように笑っている。
「花宮さん、最近、社長と噂になってるでしょ? その、柏木くん、巻き込まないであげて」
空気がきしむ音がした。言葉は柔らかいのに、トゲがある。
「巻き込むつもりはありません」
「でも、彼、優しいから。誤解されたら可哀想だよ?」
可哀想。私の中で何かがかちりと噛み合う。
彼女たちが去った後、与えられた言葉の置き場所に困っていると、だれかが歩み寄ってきた。社長秘書の月島さんだ。
「社長が下でお待ちです。――“可哀想”は、言った人の責任ですよ。あまり気にする必要はありません」
短い言葉に救われる。
B2で車に乗り込むと、玲央さんはいつものように、おだやかな顔つきで私を見る。
「……なにかと戦ってきたね」
「まあ、少しだけ。不安は、ちゃんと伝えます」
「ルール⑤、合格だ」
彼はハンドルから片手を離し、私の膝に置かれていた手帳をぽん、と軽く叩いた。
「それ、君が使うなら僕も同じものを使う。“今日よかったこと”を一行、毎晩、見せ合おう」
「見せ合う、んですか」
「うん。きみには嘘をつきたくないから」
◇ ◇ ◇
夜。マンションのダイニングで、キャンドルに火を入れる。
私は手帳を開き、一行だけ書いて差し出した。
『今日は、いやなことから目をそらさずにいられた』
玲央さんは、同じ布張りの手帳を開く。
すでに書かれていた一行を、私に向けた。
『彼女が、僕に正直でいてくれた』
喉の奥が熱くなる。彼は手を伸ばして、私の頬に触れた。
「ふたりで正直でいよう。噂は、いつか鎮火する。けれど、嘘は残る。僕たちは、それだけは作らない」
「はい」
「そして――今週末、ルール⑦の初回。君が見てきた“普段の町”を歩きたい」
思わず、笑顔が勝手に生まれる。
私の大切な駅前通り、小さな喫茶店、夜まで開いている古本屋。誰かに自慢したことなんてない場所たちが、急に宝物みたいに思えてくる。
「ただし」
彼は指を一本立てる。
「ルール①の“ただいまのキス”は、今日から僕の番です」
心臓が飛び跳ねる音が、自分にも聞こえた。頬に、昨日より一瞬だけ長い温度が降りる。
「……それは少し、反則、です」
「君が“OK”をくれたら、僕はどこまででも理性を守ります」
「……OK」
ただ二文字。けれど、今の私たちには十分すぎる。
窓の外、街の灯りが遠くで揺れる。明日の噂は、また別の形でやって来るだろう。
それでも、手帳の一行、キャンドルの数字、そして“OK”のサイン。
――私たちの火は、簡単には消えない。そう信じられる夜だった。
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