私と彼には“25の恋愛契約”があります。距離感こじらせ御曹司と始めたルールつき婚前同棲

花森 うらら

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第10話 週末の“ふだん”と、ルール⑧

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 週末。私はいつもの駅前通りに立っていた。改札を出たところのパン屋、角の花屋、私がよく入る小さな喫茶店――誰に自慢するでもない“ふだん”の景色。そこに、黒いコートの玲央さんが立つと、通りの空気が少しだけ静かになる。

「ここが、美桜の“普段”なんですね」

「はい。……派手なところじゃないですけど」

「僕には、全部たからものに見える」

 言葉がずるい。けれど、うれしい。私は思わず笑ってしまい、彼の袖をちょんと引いた。

「まず、喫茶店に行きましょうか。混む前に」

 扉を開けると、古い木の匂いがした。窓際の席に向かい合って座り、私がいつものブレンド、彼がカフェラテ。運ばれてきたカップの湯気越しに、彼がわずかに目を細める。

「きみに、よく似合ってる。ここで、いつも本を?」

「ええ。数字が煮詰まったらここで読みます。……この席で」

「今日からは、“ふたりの席”にしよう」

 そんな約束を軽々と置いていく。胸の奥が温かく満たされていくのを感じながら、私は鞄から小さな布張りの手帳を出して見せた。

「“今日よかったこと”……ここでも書いていいですか」

「もちろん。僕も書く」

 ペン先が紙を滑る小さな音。視線を上げると、窓の外に、雨上がりの薄い陽が差してきた。きれい――と思った瞬間、店のガラス越しに、向かいの歩道でカメラを構える影がひとつ揺れた。

(来た)

 胸が強張る。ペン先が一瞬止まるのに気づいたのだろう、玲央さんは何も問わず、手元のスマホに指を落とした。

> Reo:外に一人。店を出たら右へ。人の多い商店アーケードに入る

 私は息を整え、文字を返した。

> Mio:了解

 
 会計を済ませ、店を出る。手を伸ばされるより早く、玲央さんが私の指を絡める。右――。アーケードの雑踏に紛れ、歩幅を合わせて小走りになる。追いかけてくる足音。振り返らない、代わりに彼の手だけを強く握る。

「怖くない?」

「少し、怖いかも。でも――大丈夫です」

「よく言えました。ルール⑤、合格」

 軽口のように言っておいて、曲がり角で彼は一瞬立ち止まり、私の頭に自分のコートをふわりとかけた。視界が暗くなり、肩に彼の手のひら。低く短い声。

「三歩先に人だかり。左の路地へ」

 コートの陰は、まるで小さな隠れ家だった。路地を抜けると、古本屋の看板が見える。私の好きな店だ。二人で飛び込むように入ると、鈍い鐘の音が鳴った。

「いらっしゃい」

 店主は視線を上げずに挨拶し、また本へ視線を落とした。ほっとした空気が肺の奥に広がる。棚の間は狭くて、並ぶと肩が触れそうだ。革張りの詩集、背の焼けた文庫、古い全集――いつも見ていた背表紙が、今日は少し違って見える。

「君が好きな順に、案内して」

「じゃあ……この詩集と、こっちのエッセイ。それから、これ」

 差し出した文庫を、彼が受け取る。その手つきが丁寧で、胸の奥がじんとした。

「美桜が読んだ行を、僕もなぞるよ」

 店を出る頃には、外の人だかりは散っていた。アーケードを抜け、駅の反対側へ出る。川沿いの遊歩道は、午後の光が水面でほどけていた。

「走ったから、息が上がりましたね」

「うん。でも、君となら、いくらでも走れる」

 そのまま、川べりのベンチに並んで座る。人通りも少なく、風が気持ちいい。
 
 私は、彼を見て笑う。

「あの、ありがとうございます」

「こちらこそ。守らせてくれて、ありがとう」

 そのやりとりだけで、胸にまた灯がともる。

「……ルールを、ひとつ増やしてもいい?」

「はい」

「ルール⑧――“合鍵を作る”。君の部屋にも、僕の部屋にも。合意と手順は丁寧に。使うときは、必ず予告する」

 息が止まる。そこまで踏み込むのは、少しだけ怖い。でも、うれしい。私の迷いを見透かしたように、彼は続けた。

「鍵は信頼の形だ。勝手に入らない。勝手に触れない。同意があって、初めて扉は開く」

「……わかりました」

「ありがとう。君のペースでいい。今日は“申し込み”に行くだけ。実物は来週、ふたりで受け取りに行こう」

 
 遊歩道をしばらく歩き、夕方には駅へ戻った。
 改札の手前、人混みの向こうでカメラのレンズがまた光る。今度は逃げない。私は彼の手を握り直し、目だけで『大丈夫?』と問う。

 彼は微笑だけで『大丈夫だよ』と答える。

 そして――私の方から、ほんの少し背伸びをして、彼の頬へ軽く触れた。ルール①。外で、ほんの一瞬だけ。

 玲央さんは、照れたように笑った。

「……不意打ちは、反則です」

「すみません。つい」

 改札近くの雑踏で、私たちは静かに笑った。

     ◇ ◇ ◇

 夜。マンションでキャンドルに火を点ける。小さな火が、今日の“ふだん”を照らし出す。
 食卓で、手帳を開いて一行ずつ見せ合った。

『彼と“ふだん”を歩けた』
『彼女の町の喫茶店で、二人の席ができた』

 ページを閉じたとき、玲央さんがまっすぐこちらを見た。

「もう一つ、今日の記録に書いていい?」

「はい」

「“彼女が、自分から僕を頼ってくれた”」

 胸が熱くなる。
 私が笑うと、彼は微笑みを返してくれた。
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