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ラトの怒り

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 ラトは途方に暮れていた。シューロが帰ってこなくなってから、ラトは何度も探知を行っていた。どうやら寝床を点々としているようで、正確な位置を捉えるのが難しい。
 シューロに見つかって、なんでついてきたの?と言われても困る。なんとなくを口にして仕舞えば、またシューロに悲しい顔をさせてしまうだろう。それ以外の言葉も思い浮かばないラトには理由を問われても泡しか零せないだろう。
 ラトにはこの気持ちをどうわかりやすく伝えていいのかわからない。いつも当たり前のようにシューロが隣にいたから、いなくなったのが気になるようになったのだ。
 ラトは戻ってくると思っていた存在を、待っていられるほど気は長くない。というより、いてもたってもいられなかったというのが表現としては正しいのだが、そんなものは鈍感なラトが気がつく筈もない。
 ただ、なんか足りないなあ、嫌だなあ。という、肌感でしか物事を捉えていない為に、今回のように拗れたというのもある。

 見慣れぬ羅頭蛇が回遊することで、ラトの姿を見た小魚や小さな生き物達、そしてその存在を推し量ることの出来る利口な魔物達は、進行の邪魔をしないように気を配るかの如く、一目散にその身を隠す。これが、ラトにとっての日常だ。

「ああ、あの子は怖がりもしなかったからなあ。」

 実際はシューロも怯えはしたのだが、助けられた後でもラトの前からは逃げるようなことはしなかった。ラトよりもずっと小さくて、押し潰してしまうんじゃないかとヒヤヒヤさせられることもある。
 はぐれもののネレイスの彼は、反応も面白い。シューロのことを気に入ったきっかけを、探している道中で振り返る。少しだけ楽しくなってきた。
 シューロに怒られるのは嫌だから、物陰から見守るだけのつもりで、ラトは長い尾鰭を優雅に動かして泳ぐ。
 なんでついてきたの、と聞かれた時の理由はすぐに言葉が出ないのに、シューロを好ましく思う理由なら、思い浮かべるだけでも楽しい。ラトの頭の中には、一緒にいるようになってから、ころころと表情や顔色を変えるシューロの姿が簡単に思い浮かぶのだ。

「おや。」

 ゆったりとした動きで泳いでいたラトが、ぴたりと止まる。探知の中でのシューロが止まったのだ。どうやら、岩礁が囲むようにしてできた、海藻の草原の近くにいるらしい。また、海藻ばかり食べているのだろうかと思い浮かべると、少しだけ呆れた。
 そんな物ばかり食べているから、大きくなれないのだと揶揄い混じりに言ったことがある。その時は、むくれたシューロがこちらにズンズンと歩みを進めてきたので、追いかけっこかと思い、軽く泳いで引き離そうとしたのだ。
 もちろん、ラトにとっても戯れの一つだった。シューロだって泳げる。ただ、己を引き留めようとしてきたので、流石にそれは無理だと思った。
 ラトはそろりと岩礁の周りを一周して、背後から驚かすという心算だった。しかし、シューロがラトを引き留めた方法は、思いもよらないものだった。
 シューロは、己の髪を岩に巻きつけたかと思うと、そのまま小さな手のひらでラトのひれをガシリと掴んだ。
 何がしたいのだろうと、気を向けたその時、ぐんと体が引っ張られ、ラトはその鼻先を海底に埋めるような形になってしまった。

 一体なんだとギョッとすれば、勝ち誇ったような笑みで笑うシューロが、「頭を使ったんだよ。」と言ったので、それは頭じゃなくて君の髪だろうと窘めた。
 しかし、ネレイスの髪とは実に厄介だ。己の体を引き留める程の力を持っていたなんてと今更ながらに思う。あの時は確かに、怒らせてはいけないなと思ったのに、ラトは今シューロを怒らせている。と、思う。

 閑話休題、そんなことよりも、今のシューロである。

「なんだろう、妙な気配が混じっているな。」

 ラトが探知に集中するように、そっと鰭の動きを止める。魔力を漲らせると、その小さな違和感を突き止める為に思考する。
 シューロの動きが、突然ブレたのだ。狩りでもしているのだろうか、唐突な速さで移動をしたシューロが、今度は何かをしている。
 これは、魔力を使っている?ここ数日の探知では見られなかった異変に、ラトはゆっくりと意識を浮上させる。なんだ、何が起きている。シューロは攻撃できるような魔法は持たないし、狩りを行うのに適した魔法だって持っていなかった筈だ。
 ラトの知らないところで、魔法を練習している?それとも、何か予期せぬことが起こったのだろうか。こんな、岩礁に囲まれた窪地を好む魔物なんて、いなかった筈だ。
 ともかく、見てみないことには状況がわからない。その巨躯を器用に操り、囲む岩礁の切間に向かってその身を動かす。
 視線の先に、何かが見えた。目を凝らせば、尋常ではない魔力を帯びた泡がもこもこと辺り一帯を覆い始めていた。なんの攻撃性もないその泡を、こんなに繰り出すだなんてやりすぎにも程がある。ラトは泡のおかげで不明瞭になった視界に、そんなことを思った。
 泡は岩礁の内部を隠すように覆う。半透明よりも濁っている、その泡の中にいたなにかにラトが気がつくと、キロリと視線を向けた。

 最初は、シューロかと思った。大きな獲物を背に抱え上げて、ヨタヨタと海底を歩いているのかと。違和感を感じた理由は、シューロに背負われている魚が、一向に抵抗しないのだ。そして、人型の手足はシューロよりも短いことに気がついた。
 ラトは、その瞳で注意深くシルエットに目を凝らした。大きな魚を背負っているのではない、あれは、魚から手足が生えているのだと気がつくと、身に纏う魔力がとくりと反応した。

「カリュブディスか……?」

 まさか、と思った。ラトの目の前の魔物が、違うものであればいいのに。しかし、魔物が大きな口を開けて泡を飲み込み始めると、全貌が露わになった。
 真っ黒な体に、幼い魔族を食らって得たのだろう、短い手足に歪な体。間違いない、鮫の魔物であるカリュブディスであった。
 それが、何かに目標を定めている。視界を覆うほどの泡の先にいる何かに。

「待ってくれ、」

 嘘だろう。ラトは自分の体に流れる酸素が薄くなった気がした。カリュブディスが小さく跳ねる。途端、泡を蹴散らすかのように突進した。不明瞭な視界が、カリュブディスの通った道を残すかのようにして開かれる。大きな音がして、今度はカリュブディスの鳴き声が聞こえた。
 何かが必死で抵抗しているのだ。この泡の持ち主、ラトの見知ったネレイスの彼。

「ーーーーーー、」

 か細い悲鳴が聞こえた。小さなその声はラトの情緒に波紋を作る。視界に納めたカリュブディスは、見慣れた黒髪によって顎を抑え込まれている。見まごうことなき劣勢に、ラトは気がつけばその身を滑らせていた。







  

「あっ、」
「アーーーー!!!」

 もう無理だ。シューロがそう思った時だった。頭からまる齧りにするつもりだったのだろうカリュブディスが、甲高い悲鳴と共に体を吹き飛ばされたのだ。
 巻き付けた黒髪が引っ張られる。岩礁から体が浮き上がったことに驚いて黒髪を外すと、シューロは海底の砂の上に崩折れた。
 シューロの視界には、海底の砂地に映る大きな影と、カリュブディスだろう魔物の肉片がちらりと浮かんでいる。
 一体、何が起きたのだろうか。シューロは、痛む背中を酷使しながら、ゆっくりと身を起こそうとした、その時だった。


「そんなに戯れたいのなら、私が少し遊んでやろう。」

 シューロの呼吸が、数秒程止まった。
 頭上から唐突に降ってきた、焦がれていたその声に、シューロの体はいともたやすく動けなくなってしまったのだ。

 うそだ、そんな。

 心臓が早鐘を打ち、短い呼吸を繰り返す。シューロは、ぎこちなくその顔をあげた。そこには、己を守るかのように長い尾で囲むラトがいた。
 群青色の鱗を輝かせ、普段のおおらかな雰囲気ではない、シューロの知らないラトがカリュブディスの前に姿を現す。


「ごぁん、あーー!」
「まったく、活きが良いなあ。」

 カリュブディスが、よたよたと起き上がる。鮫の体は先程の衝撃で妙な方向に折れ曲がっていた。
 ラトの尾鰭によって叩き潰された体の側面から、白い肉が溢れている。確かな殴打のダメージを食らっているはずなのに、カリュブディスはその欲に素直なまま、眼の前の巨躯へと手を伸ばす。

 カリュブディスの周りの、水の流れがわかりやすく変化した。また、その水圧を使って突進してくるのだ。
 ガチガチと齒を鳴らす。鼻先をラトへ向けると、カリュブディスが水の膜を突き破るかのようにして、狙いを定めたラトへと向かってくる。

「ラト、駄目だ逃げて……!ぅわ、っ!」
「しばらくそこにいろ」
「へ、……っ!」

 長い尾で絡め取られ、シューロはあっという間に岩礁の上に乗せられる
 正面から圧力を感じた。呆けている時間もないまま、シューロはカリュブディスを見た。黒い体が、まっすぐにラトに向かってくる。

「っ、避けてラト!!」

 シューロを守って、またラトが怪我をしてしまう。そんなのは絶対に駄目だ。
 縋るような声で叫んだ言葉は聞こえている筈だ。しかし、シューロの言葉は届かなかった。巨躯を操るラトが、苛立っている様子がありありとわかる。いつものラトらしくない、そんなぴりついた雰囲気に、シューロは小さく息を呑んだ。

「こんなのはどうだ。」
「ァ、?」

 肉薄してきたカリュブディスが、小さな声を漏らした。
 ラトの体が、俄に青く光った。口を開けたラトによって放たれたそれが、カリュブディスの突撃を防ぐ。どうやら結界のようなものらしい。不可視の壁は水の波紋にも見えた。
 その光景を前に、シューロは言葉を失っていた。ラトの戦う姿。視覚の情報が、シューロの細胞の一粒にまで駆け巡り、それが鳥肌となって現れる。


「水圧だ、海で生きていて、そんなことも知らないとは。」

 ラトが笑ったような気がした。口を開ける動作一つで、水の輪が出来上がる。
 ラトが作り上げたその輪に捉えられたものは、水の圧力によって身を拘束される。
 圧力に負けたカリュブディスの身が、不自然に形を変えた。その口からごぼ、と浮袋らしきものが飛び出した。

「終いだ、最後にいい景色を見せてやる。」
「ラト、」
「あとでな。」

 シューロの声に、ラトは短く返した。その長い尾鰭で縛り上げたカリュブディスが、ラトによって引き摺られるようにして、勢いよく海中を滑る。ゆったりとしか泳がないと思っていたラトが、シューロよりも早い泳ぎでぐんぐんと海上へ向かっていく。
 青く澄んだ海の中、まるで太陽の光へ誘われるかのようにして、ラトはあっという間に海面近くまで距離を詰めた。
 そして、その巨躯で海を突き破るかのようにして海上へと飛び出した。
 いくつもの細かい泡が、ラトの残像を縁取るかのようにして、海底へと降り注ぐ。その飛沫の一粒すらもシューロには届くことはないのだが、それでも、シューロは縋るような気持ちで手を伸ばした。

 カリュブディスが、ラトによって海上に放り投げられた。その身を遠心力のまま、自由に回転させる。海鳥のように空を高く舞ったのだ。
 ラトはその鰭を大きく広げた。海を纏う現れた巨躯を誇る魔物は、その口を大きく広げた。
 龍蛇の体を踊らせながら、その口で落ちてくる魔物にがぱりと食らいつく。
 まるで、遊んでやっているかのような、そんな戯れ染みた残虐を与えられたカリュブディスは、その身を引き千切られるかのようにして、ラトによって海に引き戻された。
 太陽光に照らされた水面を潜るようにして、ラトが再び海面を突き破って戻ってくる。口に咥えたカリュブディスを、ぐんぐんと海底へと押し込むラトが、岩礁からこちらを見ているシューロに気がついた。

 たった一瞬の間だ。シューロとラトの瞳が交わった。その小さな体に細かな傷をつけた姿をみとめると、ラトの腹の奥で名状し難い感覚が渦巻いた。

「還れるようにしてやろう、すぐにな。」

 そう呟くと、もう動かぬカリュブディスの体を、尾で岩礁に縫い止めた。なんてことはない、ムンクス·デビルの時とやることは変わらない。ただ、あの時よりも丁寧にしてやるだけだ。

 ラトの体は硬い、鋼鉄のように硬い鱗は、こうして柔かい肉を磨り潰すのにも実に適している。
 縫い止めた岩礁へと、ラトは泳ぐスピードを速めた。硬質な身が、摩擦するようにして岩礁の上を滑った。ラトの後を追うように、薄桃色の肉片がぶわりと舞い上がる。

 ラトの作り出す水流で踊るように散らされるそれらは、地上から見たら海中の花吹雪かのように見えたことだろう。
 
 
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