名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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本当と本音

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 ふわふわと落ちる綿雪のような肉片は、ラトが身を返すだけで体の輪郭をなぞるようにして流れていった。ゆっくりとシューロのもとに戻ってくる。あの日々のように、シューロの前までその鰭を進めてくれることが、こんなにも嬉しい。
 じんわりと滲んだ涙を拭うように、シューロがよろよろと岩礁から舞い降りる。その覚束ぬ泳ぎを支えるかのようにして、ラトが鼻先で支えてくれた。

「ラト……っ」
「シューロ。君は本当に器用なやつだな。」
「ごめん、本当に、ごめん……!」

 そこはありがとうだろう。ラトが、いつもの穏やかな声色で宣う。己の鼻先に身を寄せて、震える体を慰めてやりたくても、シューロを抱いてやれる腕はない。だからラトは、カリュブディスを倒した長い尾鰭をそっと寄り添わせて、その背を支えてやる。
 尾鰭の鋭い部分に肉片を認めれば、ラトはシューロが気が付かぬうちにと、そっと払うように遠くへと飛ばした。

「シューロは、あれが何かを知っている?」
「……カリュブディス。魔族が食われてはいけない悪魔。」
「そう。私が百年生きてきて、邂逅したのは今日で二度目だ。滅多に出会さない魔物とエンカウントするだなんて、君はやっぱり器用だなあ。」
「ごめん……」

 ラトが見ても、分かりやすくシューロが落ち込んでいる。余程怖かったのだろうかと、己とのテンションの差に小さく口を噤む。
 鼻を啜りながら、ひどい顔をしたシューロがよろよろと体を離す。まだくっついていてもよかったのに。そんなことを思ったが、口にすることは出来なかった。

「なんで、謝る?」
「……また、ラトに迷惑をかけたから、」
「……そうか。」

 なんで、ラトがここにいるの。そんな、予測した答えではなかったが、顔に陰を落とすシューロを真っ直ぐに見つめたラトは、少しだけ困ったような雰囲気になった。
 もう怖いものはいないのに、シューロの元気が戻らない。また、面白い話の一つでもして楽しんでもらおうとも思ったのに、今日に限って出てこない。
 前回手持ちの話を全部話してしまったからだ。しまった、これはまずい。ラトは本気で頭の中を回転させたが、やはりどんなに捻っても気の利いた言葉は出てこない。
 ならば、シューロが落ち込んでいる原因を散らしてあげるほうが有効じゃないか。と改めて考え直すと、ラトは事実を確認するかのように問いかけた。

「シューロがカリュブディスを呼んだのか?」
「呼んでない……」
「だろう。それなら、シューロは悪くはないじゃないか。なんで私に謝るんだ。」
「だ、だって、……一人で生きていくって、決めたばかりだったのに。」

 震える声で紡がれた言葉に、今度はラトの方が驚く番だった。シューロの声に、冗談の色は見られない。なんでそんなところまで話が飛躍してしまったのかがわからなくて、ラトはあんぐりと口を開ける。つまり、シューロがなかなか帰ってこないのは、戻らないつもりだったということだ。
 大きな口を間抜けに半開きにし、ごぽ、と一つ泡を零す。
 シューロはラトの様子に不思議そうにしたものの、長い睫毛を伏せるように俯くと、ぽしょぽしょと語り出した。

「ずっと、岩礁の隙間に隠れていたんだ。体力を使わないようにしていたんだけど、やっぱり、ボクの体は生きてるから、狩りは必要で。」

 数日くらい、腹が満たされるものを食らって、寝床を移動しようとしたこと。そして、その狩りの最中にカリュブディスに見つかったこと。
 シューロは、己の知っている知識でなんとか逃げ凌ごうと思ったのだが、うまくいかなかったこと。ラトが助けに来てくれたのは驚いたが、感謝していること。
 淡々と並べられる言葉の数々に、ラトは相槌だけを打った。動揺して、そうなのか。の一言すら出てこなかったのだ。

「視界に入らないようにしたんだ。カリュブディスの視野に入ってはいけないって、群れの長から聞いていたから。」
「……あれは嗅覚で追いかけてくるから、視界の範囲を抜けたとしても、標的にされて仕舞えば意味はないよ。」
「そうなんだ……ラトは、物知りだね。」

 シューロの口元が、柔らかく緩む。泣きそうな微笑みがあることを、ラトは知らなかった。
 沈黙が、少しだけ長く感じた。実際はそれ程でもなかったのだけれど、ラトにとっては数秒が何十分にも思えたのだ。
 シューロを守れたのは良かった、後悔はしていない。でもそれは、あくまでもシューロがラトの元に帰って来るだろうと思ったからだ。
 胸の内が、荒波のように忙しない。こういう感情を持ったことがないから、どうしていいかわからない。

「怒ってる……?」
「ああ、そうか。こんなに落ち着かない気持ちなのは怒っているからなのか。」
「……ごめ、本当に、」
「違う、シューロにではない。どちらかというと、」

 言い淀むラトの一言に、今度はシューロの瞳が戸惑いで揺れた。己自身に怒っていないのだとしたら、カリュブディスに対してだろうか。もしそうだとしたら、ラトの怒りはシューロの為の怒りということになる。そんな考えが頭をよぎったが、流石に己に対して都合が良すぎるだろう。
 シューロはラトから視線を外すと、その言葉の続きを待つように、己のつま先を見た。
 ラトに目を向けて仕舞えば、また甘えたくなってしまう。だからシューロは己の為に、気持ちを堪えるように俯くことしか出来なかったのだ。

「……百年、私も長く生きているが……君はすごいな。こんなにも私の情緒を疲れさせるだなんて。」

 ラトが、いつもののんびりな声とは違う、どことなく疲れたような口調で宣う。

「ジョウチョ?」
「ああ、心の中身、感情、怒りを感じたのは、正直初めてかもしれない。怒れるんだなあ、私。」

 ラトの疲れた声は、初めて聞いた。ムンクス・デビルとの一戦の後でさえ飄々としていたラトの声は、なんだか微睡んでいるかのような、少しだけ寝ぼけている時の声に似ていた。
 ラトの初めてを、シューロが引き出した。その事実が申し訳なくもあり、そして少しだけ嬉しくも感じてしまう。こんなこと言ったら、愛想を尽かされてしまうだろうから口にはしなかったが、シューロは、そっか……、とだけ返しておいた。

「シューロは、私への愛想が尽きたから、出ていってしまったのだろうか。」
「へ?」
「……帰ってこないつもりだったのだろう。私と、こうして会話もしてくれないとか、そういうものかと思っているんだが、」

 まあ、今は会話はしているが。だなんて、少しだけ落ち込んだような口調でラトが言う。シューロとしては、愛想を尽かされるのは己の方だと思っていた。だからこそ聞き返した。シューロにとって、当然の反応だ。しかし、ラトときたらそれを肯定ととったらしい。
 今度は、少しだけ哀感を帯びた口調で、伺うように宣う。

「少しだけでいい、私の話を……聞いてくれないか。」
「なんの、話……」

 シューロは戸惑いながらも顔を上げる。ラトがここにきた理由はわからない。だけど、ほんの一雫程度でも、己を気にかけてくれているとしたら。
 期待をしてはいけないということを、しっかりと自分に言い聞かせてはいるが、いざラトを目の前にするとどうにもダメだ。シューロは、そんな落ち着きのない己の心模様を悟られないように小さく拳を握ると、唇を引き結ぶ。
 
「……シューロの言ったことを、私なりによく考えたんだ。」
「っ、」

 ラトの言葉に、分かりやすく怯えた顔になった。ラトが、自分の為に追いかけてきてくれたのは純粋に嬉しかった。だからこそ、この気持ちのままで居たい。
 シューロの心に出来た傷は、ラトには関係のないもの。自分が勝手に負った傷だと納得しているからこそ、もうこれ以上はかき乱さないで欲しかった。

「い、……いい、」

 告白を受け入れてもらえなかったことで、シューロに逃げ癖がついたのだ。ラトの言葉を受け入れる準備なんて、整っていない。きっと答えは覆らないだろうし、そして何よりもラトの声でさよならを告げて欲しくなかった。
 己に対して怯えるようなシューロの素振りに、ラトが困ったように吐息を漏らした。ラトがゴポリと作り出す、少しだけ落ち込み混じりの水の音。初めて聴くラトの感情がのった水音が、シューロには悲しくて仕方がなかった。

「私が、怖いか?」
「怖くない、怖くないけど、」
「けど?」

 ラトを困らせたい訳じゃない。そんな、覚悟の決まらない自分自身が嫌だった。
 ラトが身じろいでできた水の流れが、シューロの黒髪をふわりと揺らした。頭を撫でられているかのような感覚に、シューロの胸はじくんと痛みを主張する。
 岩礁を背にしているから、逃げ場がない。シューロはラトの顔を見れないままだった。

「そのままでいいから、聞いてくれ。」

 ラトは、今どういう気持ちで、どんな様子なのだろう。本当は、会いたかったとラトに飛びつきたくて仕方がなかった。それでも、ラトが独白のように語り始めた話に、シューロは身を縛られたかのように動けなくなってしまった。

「シューロを助けたのは、気まぐれの筈だったんだがなあ。」

 そう言って、ラトはいつものおおらかな口調で宣う。困ったような。それでも、少しだけ自分に問いかけているような口調であった。

「……私は一人でいたことの方が長いというのに、シューロがいなくなってからはどうにもおかしい。いつからか、シューロの熱い体温も、手狭な寝床も、私にとっての当たり前となっていたようだ。」

 こぽ、と小さな泡が水中に溶ける。ラトの一呼吸が、そっとシューロに寄り添う。俯くシューロを包み込むような優しい声色は、固くなっていた小さなな体から、少しだけ緊張感を取り除いてくれた。

「シューロを探してしまうくらいには、私の中で君の存在が大きくなっていたようだ。やはり、シューロがいないと、物足りない。」

 個で生きることを誇りに思っていた筈だった。羅頭蛇は群れを成さない、ゆえに、数が少なく、それぞれが己の本能に従って羅頭蛇らしく生きるのだ。出会いがあっても、必ず別れはついてくる。別れが来たら、当然のように受け入れる。それが、ラトの常識であった。

「期待に応えられないって、言ったのに。」

 ラトからの思いがけない告白に、シューロは震える声で呟いた。ゆっくりと顔をあげたその瞳には、まだ戸惑いの色を宿したままであった。
 ラトの言葉を半信半疑で受け止めているのは容易く見て取れる。ラトはその視線を受けても、言い訳をすることはせずにまっすぐに見つめ返す。

「言ったな、それは事実だ。」
「……やっぱり、」
「ああ、違うんだ。そうじゃない。」

 泣きそうな顔になったシューロに、ラトは少しだけ慌てた。小さく噛み締める唇が痛々しい。ラトは深呼吸をするかのようにゆったりとえらを動かすと、一考する。
 全てを信じてくれなくてもいいが、それでもシューロがラトにとっての当たり前の存在であることは真実である。現にラトはこうして、シューロを迎えに来たのだから。
 シューロからの疑い混じりの不安な瞳を向けられて、ラトは項垂れた。自分の言葉数が足りなかったせいで、シューロを傷つけたのだ。それでも、いつの間にか側にいるのが当たり前になっていたせいか、シューロがラトの元を離れるまでは、その事実に気がつかなかった。
 当たり前の存在が横にいないという違和感は、まるで己の中で何かが欠けてしまったかのように収まりが悪い。ましてや、シューロは群れから追い出された身だ。それを知っていながら、言動に注意を払わなかったのは、完全にラトの落ち度である。

「あの時、私は言葉を随分と省いて話してしまった。すまない、前提から話すから、聞いてくれないか。」
「前提……?」
「そう……、私の種族は交配をしない。つまり、繁殖をするための機能が備わっていないんだ。」

 隠していたつもりは微塵もないのだが。そう付け加えて申し訳なさそうに宣うラトを前に、シューロは言われている意味を図りかねてしまい、しばらく言葉を発することができなかった。
 それくらい、ラトの言葉はシューロにとっての当たり前を覆したものであった。


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