名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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羅頭蛇の本能

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 深い海の青を引き摺るようにして、鮮やかな青い体をした魔物が目の前に現れた時、シューロはラトの正面に立っている様な心地になった。
 ラトは、背後にいた筈だった。当然目の前にはいる筈もない。呆気にとられたように見つめていれば、ラトの声が寸分の狂いもなく重なった。

「「ほう、久方ぶりの同胞はらからか。」」

 自分の耳がおかしくなったのではないかと疑うほど、その声は二重に同じ響きを持って水を震わせる。バクン、と一つ心臓が鳴った。シューロの体から聞こえたとは思えない程、大きなものだった。
 全身に、緊張感が走る。シューロの目の前では、ラトと同じ群青の巨躯を持つ羅頭蛇らとうだが、その長い胴を歓喜でうねらせていた。
 僅かな身じろぎだけでも、水中の流れは大きく乱れる。作り出された水圧でシューロが蹌踉よろめいてしまうほど、その存在感は圧倒的であった。

「三十年ぶりだ。このよわいにもなると、またとない機会。戦える同胞に出会えるとは僥倖ぎょうこうだ。」
「ほう、以前の経験は似た頃合いか。私は四十年前だ。」

 二人の目の前に姿を現した羅頭蛇は、嬉しそうに泡をゴポリと吐き出した。その声は、答えたラトと全く同じであった。しかし、シューロの身はすくんでいた。ラトと同じ姿の羅頭蛇の威圧感に、頭から押さえつけられているかのような心地になった。

 見た目も声も同じである筈なのに、シューロの体は正確に二匹の違いを区別していた。
 本能が逃げろといっている。あれは、ラトではない。襲われてしまえば、己はなんの抵抗もできぬままに、あっという間に消されてしまう。そんな己の死の宣告を受けるかのような本能的な恐怖は、久しぶりのものであった。
 
「……ラト、」

 手が震える、心臓の動きが不自然に跳ね上がるのは、威圧されているからに他ならない。恐怖から、身を寄せようとしたシューロに対して、ラトは視線も合わせずにやんわりと尾鰭で制する。
 ラトからの、初めての拒否に、シューロは戸惑ったようにその巨躯を見上げた。

「離れていろ、出来るだけ、遠く。」

 なんで、口にでかかった言葉を、シューロは飲み込んだ。ラトのいつもと違う様子に、その言葉の先を失ってしまったのだ。
 怒っているとも違う、カリュブディスと闘ったあの時とも違う。ラトの纏う雰囲気に、シューロは不安を覚えた。
 ラトの、いつもの穏やかな声色では決してない。言葉の抑揚から、抑えきれない興奮にも似た昂りを感じてしまったのだ。
 それを裏付けるかのように、頭から尾鰭に向けて、ラトの大きな鱗が波打つように激しく光を放っていた。体内の魔力を、その巨躯の隅々にまでみなぎらせているのだ。
 見たこともないラトの様子に、シューロはどうしていいかわからず二の足を踏んだ。

「早く行くんだ。」

 魔力を練り上げているラトを前に、シューロの緊張はいよいよ高まった。冷たい声色を向けられて、足が竦む。突き放されるかのようなその言葉に、ラトの意識が己から離れているという恐怖感を感じてしまった。
 羅頭蛇は、そんなラトとシューロのやりとりには興味がなさそうであった。ラトと同じ虚な瞳は、シューロを取るに足らない存在として捉えている。泰然たいぜんと構えるその姿は、ただ早くその場からシューロが消えるのを待っているかのようであった。
 ラトと同じように、その身を纏う魔力の発光だけが静かに急かしてくる。

「いいか、終わるまで絶対に近づくんじゃない。」
「え、っ」

 淡々と告げられた言葉の後、ラトが己の尾鰭を使ってシューロを荒く巻き取った。初めての配慮も労わりもない扱いに、シューロは動揺した。そのまま流れるような動作で尾を振り上げたラトによって、体を勢い良く放り投げられた。

「ラト……っ!」

 悲鳴混じりのシューロの声は、届かなかった。背面に感じる水圧で、身が破けてしまいそうだった。シューロは少しでも衝撃を和らげようと、小柄な体を小さく丸めた。遠くなる後ろ姿に胸騒ぎがして、シューロは思わず手を伸ばす。
 不意に、己以外の羅頭蛇に会った時はどうするのか。以前の会話が脳裏をよぎった。

ー言葉よりも、体で挨拶を交わす。

 穏やかな声で教えてくれたそれは、気軽なものかと思っていた。しかし、それは間違っていたことに気付かされた。
 あの時わからなかった答えが、今まさにシューロの目の前で示されようとしていた。

「っ……!」

 海が光った。違う、二頭の魔力が反発しあった、青い閃光だ。それを合図にしたかのように、唐突に互いの白い尾鰭を鞭のように振るい合う。全ての動きが緩慢にでもなりそうな水の中、尾鰭同士の纏う水圧が接触の衝撃で弾ける。その瞬間、蜷局を巻くように乱れた水流が迫り上がる、海の中に小さな津波を巻き起こす。

「うぁ、っ」

 それは、数十メートルは離れていた筈のシューロの身をも巻き込んだ。うねる波に飲み込まれ、体勢が保てなくなる。視界は逆さまにひっくり返り、ごぼりと口から泡を吐き出した。
 
 ラトたちは、尾の一振りで互いの力量を見極めているようで、大きな反発を巻き起こすような激しい打ち合いは起こらなかった。
 それが、シューロにとっての救いであった。短い間に、何度もあの規模の衝撃を起こされては、いくら泳ぎに長けているシューロでも、無事でいられる可能性は一気に低くなる。海底の近くには岩礁も見られた。そこまで勢いよく流されてしまえば無傷では済まないだろう。

 乱暴ではあったが、ラトは考えた上でシューロを障害物のない海面付近へと追いやった。じっと向かい合う二頭の喉元から、同時に青いものが剥がれ落ちる。
 海底に向かって、キラキラと輝きを放ちながらゆっくりと沈んでいくのは、おそらく鱗だ。
 どうして打ち合った尾鰭ではないところから剥がれるのか、頭に浮かんだ疑問を熟考する時間すらなく、ようやく体勢を整えたシューロへと再びの波が襲いくる。
 今度は、鎧を纏ったかのような大きな額を真正面で打ち合った。余程の勢いで同時に動いたらしい。細かな泡がブワリと軌跡を作り、鱗は流され、その巨躯はしなやかに躍動した。
 迫力のある闘いでありながら、二頭の動きは美しかった。決められた手順で行われる格式じみた演舞のように、水中で円を描きながら、尾と額を何度も突き合わせる。
 二頭の作り出した衝撃によって巻き上がる、海底の白砂と魔力の青が織りなす二重の円環。これが闘いだと知らなければ、ずっと見てしまうような見事な光景であった。

 しかし、同時にシューロの心の内側は、不安に苛まれていた。永遠と続くその光景を前に、己の冷静な番いがなぜ、と言う気持ちが膨れ上がってしまったのだ。
 威圧感はありながら、どうか落ち着いた雰囲気を持つ。そんな己の番いの気性は種族柄だと思っていた。他のネレイスとは色味の違うシューロのような特殊性もない。
 羅頭蛇の種族の印象を、ラトと同じだと思っていたシューロにとって、二頭が出会って早々争い事を始めるだなんて思いもよらなかった。

 もしかしたら、これは縄張り争いなのだろうか。そうであれば、シューロはラトを説得しようと思った。
 傷つくラトは見たくない。相手だってラトと同じく意思疎通ができる。ならば、話し合って決めるという平和的解決法だってある筈だ。

 シューロは、決意をしたかのように口を引き結ぶ。そして、激しい打ち合いの間を縫い、一気にその距離を詰めた。
 ラトの前に躍り出た。その視界を遮るように、シューロは己の髪と両腕を大きく広げて、声を張り上げる。

「ラト……!お願い、ボクの話を……っ」

 シューロは、正しく理解をしていなかった。ラトの、羅頭蛇たちのことを。それは、種族の隔たりを甘く見ていた一つの愚かである。
 ラトと番いになった時、ラトの足りない言葉には、気をつけなくてはいけない。そう己に言い聞かせていたのに、穏やかな日々がシューロの思考を怠惰なものにしたのだ。
 本能に呑まれるラトは、もはや相手しか見えていない。シューロは己の知っている穏やかなラトがなりを潜め、まるで知らない存在になってしまったかのようで、ただただ悲しかった。

「ーーーーっ」

 シューロは、絶対と言ったラトの言葉を無視した、その報いを受けたのだ。二頭の戦いの邪魔をして、その身を長い尾鰭で弾き飛ばされた。
 金色の瞳が、驚愕の色を宿したまま見開かれる。防御反応で広げた髪と腕でラトの打撃から身を守ったものの、あまりにも重い衝撃に呼吸が止まった。
 
「かふ、っ」

 全身が、引き千切れそうな鋭い痛みと、放り投げられたよりも強烈な水圧が全身を襲う。まるで、時が止まってしまったかのような感覚であった。周りの景色が緩慢な動きを見せる。一瞬の瞬きすらも束の間で、シューロの体は岩礁へと叩きつけられた。
 肺に溜まっていた空気が、気泡となって体外へ出る。黒髪が、受け止めるようにシューロの体を包み込んだが、遅かった。

「……ら、……と、」

 岩礁に背中を擦り付けるようにして凭れ掛かる。朦朧とする意識の中で、金色が捉えたのは煙のように立ち上る漏れ出た己の赤い血だ。シューロは視界を真っ赤な色で染めたまま、小さく唇を動かした。 
 己の声が届かない。音にならぬまま溶けていった番いの名前のように、シューロの意識にゆっくりと暗幕がかった。


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