[改稿版]これは百貨店で働く俺の話なんだけど

だいきち

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 自分のために注いでくれたはずのビールが、柴崎の喉へと消えていく。喉仏が上下に動いて、旭の苦手な味なんてもろともせずに味わう姿に、少しだけ拗ねた。
 いちいち格好良いのだ。毛玉だらけのスウェットを身に纏っているくせに、決まる。だから少しだけ胸をスッとしたくて、悪態を吐いた。
 
「俺が飲めないって、知ってましたよね。居酒屋んとき言いましたもん。」
「そうだったなー。ま、旭くんは子供舌だから無理せずにそれで我慢しなさーい。」
 
 くつりと笑われて、ボトルのジンジャエールをつつかれる。ジョッキに注げば酒にも見えるのに、グラスだからこそ余計に子供っぽい。大人だって見栄をはるつもりも無いが、つい悔しくて余計なことを言った。
 
「俺だって飲みやすい酎ハイとかならいけますし。」
「いいね、なら試してみるか?」
「え。」
 
 にっこり。柴崎の満面の笑みに、はめられたのだと悟った。まさかの落とし穴がそんなところに潜んでいるとは思わない。動揺しすぎて思わず手から抜けそうになったグラスを、柴崎が下に手を添えるかのようにして支える。いちいちそんなんところまで抜けめなくスマートなんだなと、どうでも良いところに関心をした。
 
「はい、缶じゅーちゅ。」
「じゅーちゅじゃなくてこれ酎ハイ!!」
「桃の美味しいやつでちゅよ~おら飲めさあ飲め。」
「飲酒強要!!ぜってえ飲まねえからなこんなん!!」
「先輩の家上がりこんどいてつまんねえこと言うなよ。一口でいいからー!」
「めんどくせえなあんた、酔っぱらってんのか!?」
「うんにゃ全く。」
 
 柴崎があまりにもしつこく絡んでくるので、痺れを切らした旭が無理やり押し返した時、事件は起こった。
 ゴトン!!と音をてて倒れたビール入りのバカラグラスが、転がってテーブルから落ちたのだ。
 
「ひえええええええ!!!!!!」
 
 あれまあ、という間抜けな柴崎の声は、旭の悲鳴でかき消された。シュワシュワと炭酸を揮発させながら広がる黄金の液体が、ガラステーブルから床の水溜りに落ちて、波紋を広げる。じわじわと草原のような色をしたカーペットに染み込んでいくよりも早く、旭は大慌てで四つん這いになって、転がるバカラグラスを恭しく持ち上げた。
 旭の一抹の望みとは裏腹に、細工の美しいバカラグラスは、床に落ちた時の衝撃でお約束のように飲み口が欠けていた。
 
「あーれま。絨毯の上じゃなかったし、まあ仕方ねえわなあ。」
「ベッ、べべ、弁償します!!おおお、同じの買ってきます!!」
「え、廃盤品って買えたりするんか?」
「はいばっ、」
 
 高いグラスの存在を忘れて暴れたのは、完全に旭が悪い。僅かに欠けたグラスのその部分からも責められているかのようで、実に居た堪れない。冷や汗はじんわりと滲み、旭は分かりやすく狼狽えているというのに、当の柴崎ときたら、全くもって無関心。特に気にしていませんがと言わんばかりに他人事であった。
 平然としているその心理は、一体どうなっているというのだ。もしかしたら旭が気づいていないだけで、本当は怒っているのだろうか。柴崎が呑気な掛け声で立ち上がる。その動作ひとつにすらびくついているというのに、台布巾を片手に戻ってくると、そのまま零れた酒を拭い始める。
 
「あ、あの、…っま、マジですみません…」
「別に、構わねえよ。ものは壊れるもんだしな。」
「だ、だけどこれは…」
「だァから、別に気にしてねえっての。」

 カタリと音を立てて、テーブルにグラスが置かれた。柴崎は、旭の声色の変化に眉を顰めると、ため息を一つして、顔を見上る。
 黙りこくり、今にも死んでしまいそうな顔で口を閉ざしている旭の姿が、なんだか可哀想なくらい滑稽だ。
 
「すげえ死にそうな顔してる。」
「…俺、だって、それは、…そうでしょ…。」
「いいって、マジで。んなことで泣きそうになるなよなあ。」
 
 口元を緩ませた、呆れ混じりの柴崎の柔らかな声色に、ようやく旭は己が泣きそうになっているのに気がついた。
 自分でも、なんでこんなことで、と思う。これはきっと、嫌われてしまたら嫌だなという、旭の中での小さなエゴだ。柴崎の前では完璧な後輩でいたいという、見栄っぱり。
 
 しばらく、無言の間が空気を支配した。旭が落ち着くのを待っていてくれた柴崎の優しさが如実に現れたその時間は、状況が状況でなければ、きっと心地の良いものだったに違いない。
 
「旭さ。」
 
 ポツリと呟かれたのは、己の名前だ。 
 
「あんま、追い詰めすぎんのも良くねえって。こんな小さいことでもそんなんなってんじゃん。」
「……だ、だって、これはそんなんじゃないですって、わ、割っちゃったし。」
「割れてねえよ。欠けただけ。大体考えてもみろよ。割られて困るようなグラスなら、最初から使わせてねえっての。」
「…あ、」
 
 柴崎の慰めにも似たその言葉に、旭はようやく顔を上げることができた。馴染みの柴崎を前にして、己が緊張していたことに、漸く気がついたらしい。旭のそんな様子を、柴崎は少しだけ寂しいと思ってしまった。
 やはり、遠慮をするようになったと思う。柴崎の知っている旭は、もっと快活で、遠慮がなくて、己に自信がないまま、怯えて震えているような奴ではなかった。
 涙は流していないが、泣きそうなことには変わりはなくて、柴崎は、先ほどの楽しげな旭の顔が見れないのは、嫌だなあと思った。
 
 だから、笑って、やめてくださいよ。と言われたかったのかもしれない。
 気づけば、まるで女にするように、手のひらをそっと頬に滑らし、濡れた目元に触れていた。
 そして、吸い付くような肌と、知らぬ体温を掌に感じて、悪くないと思っている時点で、柴崎はもう後戻りはできなくなっていた。
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