守り人は化け物の腕の中

だいきち

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17 岩屋戸にて

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 岩屋戸は、玉翠村の真上にあった。
 遠くに見えるのは珠幻城だろう。城から山を挟んで直線上にある岩屋戸は、木々が闇を孕むようにして生い茂る場所に、隠れるようにして存在した。
 長い時を重ねたことを示すように、石畳の隙間を木の根や苔が侵食している。重い空気が、タイランの足元を撫でるようにすぎていった。

「陽が、届いてない……?」

 玉翠村に入る時よりも抵抗を感じる。強固な結界は、陽の光をも吸収していた。空はまるで、水墨画のごとく色を失っている。
 頭上の太陽が、水面を通して歪んだ光を放っているかのような異様な空間だ。タイランは喰録から降り立つと、緊張した面持ちで岩屋戸へと視線を向けた。

「ここは……」
 
 琥珀の瞳が、くらりと揺れた。生ぬるい風に混じる冴えた山主の妖力が、タイランの体を撫でる。
 岩屋戸は、巨大な岩を抉った洞窟のようになっていた。目の前にポカリと口を開けた闇は、いたずらに見るものの胸の内をざわめかせる。
 ここはよく覚えている。それでも、タイランが守城としてみた記憶の岩屋戸よりも禍々しく、風は物悲しく鳴いているようにも聞こえた。

「守城は、呪いを解いていたのだな……」

 喰録の声に、緊張が滲む。岩屋戸を固く閉ざし続けた封呪は解かれていた。
 静かに役目を終えたのだろう。入り口を塞いでいたはずの岩蓋は、割れた岩が石畳のように地べたになじんでいる。
 まるで、中へ入ってこいと道を作っているかのようだった。

「山主は、もしかしたら……」
「…………」
 
 喰録の言葉に何も答えぬまま黙りこくるドウメキの手が、細い指に絡まる。
 震えを誤魔化そうとしているのだろう、タイランはドウメキの手を握り返すようにして、親指の付け根をそっと撫でた。

(大丈夫。守城の記憶が、そう言っている)

 喰録の足が、地べたの表面を確かめるようにして一歩踏み出す。猛禽の瞳を真っ直ぐに奥へと向けて警戒心をあらわにした。
 雷が鳴るように唸る様子は、肌を刺すようにじわりと伸びる山主の妖力に怯えているようでもあった。

「なんで、出てこないんだ。封呪が解かれたのなら、山主はいつ姿を現してもおかしくないはずだ……」

 喰録は、あの日見届けることのできなかった守城の最期の瞬間を、思い重ねているかのようだった。
 無念さが、痛いほどまでに背に滲む。タイランがそれ以上の歩みを引き止めようとした時、先に動いたのはドウメキであった。

「喰録、止まれ」
「城主、……まさか、封呪が解かれたことを知っていたのか……?」

 黒く、長い尾をたなびかせるようにしてドウメキへと振り向いた。喰録の猛禽の瞳は丸く光り、ドウメキを睨み据えるように向けられる。
 空気が張り詰める。タイランが落ち着かせようとしたその時。歩みを阻むかのように、目の前に赤い羽根が落ちてきた。
 
「なんだ、羽根……っ」

 気を取られた一瞬の隙だった。両肩に抉るような痛みを感じたかと思えば、タイランの体は一気に持ち上げられた。
 ドウメキの爪が、手の甲に赤い線を残す。
 大きな羽が空気を叩く音に振り向くと、紅い目を見開いた。

「タイラン‼︎」

 薄い体は、あっという間に地べたから遠ざかる。タイランは深衣の裾を広げるようにして、空中に吊し上げられたのだ。
 長い黒髪が風に靡く。食い込んだ鉤爪が鋭さを教え込むように肩を鷲掴んでいた。

「い、った……っ」
「驚いた。やはり因果というものはあるらしい」
「っ、お、おろせ九魄……‼︎ なんで、……っ」

 白い深衣がじわじわと赤く染まる。酷い痛みに顔を歪めると、タイランは頭上の妖魔を見た。

「お前がそう仕向けたのだろう」
「おろせ……って、……っ」
「安心しろ、迎えがきたようだ」
「は、っ」

 九魄の言葉と同時に、タイランの体は離された。臓器を風で持ち上げられるかのような不快感に小さく悲鳴をあげた瞬間。空を泳ぐように放たれた火炎が、タイランの前を通り過ぎた。
 長い髪が流れに任せるように空をへと伸びる。落下するタイランの体を、喰録が背中で受け止めた。

「九魄……‼︎ 貴様どういうつもりだ……‼︎」
「面白いことを言う。守城との約束はこれからだろう」
「ば、喰録、ドウメキが……‼︎」
「放っておけ‼︎」

 ドウメキは、黒い狼にもにた妖魔に阻まれるようにその身を囲まれていた。青院の兵が操る妖魔だと、タイランはすぐにわかった。
 妖魔を操る兵を抜け、奇襲を企てたのだろう一人の男を琥珀の瞳が捉える。
 イムジンに支えられるように大きな黒馬に騎乗していたのは、九魄の主でもある守城ヤンレイであった。

「ヤンレイ……‼︎」
「まさか、魏界山で本当に妖魔を操れるようになっているとは」
「妖魔を下げさせろヤンレイ‼︎ ドウメキは悪いことをしていない‼︎」

 タイランの言葉に、ヤンレイは口元を隠すようにして顔を歪める。
 嘉稜国将軍であるイムジンが、ヤンレイの薄い腹に腕を回した。豊かに蓄えた髭を揺らすようにして笑う姿は、物陰に潜む獣のような獰猛さを滲ませている。

「兄の地頭の弱さは噂通りだなヤンレイよ。お前の兄君は何を持ってあやつが悪ではないと判断するのだ」
「己の常識にとらわれているのでしょう。山主の封呪を解いただろうことが罪にならぬというのなら、そもそも守城なんていらぬのです」

 ヤンレイの言葉は、まるでドウメキが封呪を解いたと決めつけるようなものだった。予想は当たっていた。やはりヤンレイは、山主を使ってタイランを陥れようとしていたのだ。
 口の中が乾く。苦しみ喘ぐように、タイランはヤンレイへと叫んだ。

「ヤンレイ、お前やはり……‼︎」
「素直でいれば、よかったのにねえ」

 口元を歪めるようにして、ヤンレイは笑った。背後では、獲物に狙いを定めるかのようにイムジンがドウメキへと視線を向けている。
 タイランの顔は、わかりやすく青褪めた。イムジンの戦の強さは城にいればいやでも耳に入ってくる。
 青院の将軍は、その身一つで妖魔を倒す。異形の妖魔を身に宿し、敵を痛ぶることが好きな悪鬼と呼ばれていることも知っていた。
 もしイムジンの標的がドウメキへと向けられたとしたら、巫力のないタイランは守れるのだろうか。不安が焦りを生み出す。タイランは、ドウメキを瞳に捉えたまま叫んだ。
 
「喰録、おろせ……!」
「タイランが行って何になる‼︎」
「お前だって俺がいたら邪魔だろう、だから早く地上へ!」
「ああもう、面倒臭い奴らばかりで嫌になる‼︎」

 九魄は攻撃をすることもなく、喰録に道を譲るように体をずらす。馬鹿にしているのだ。わかりやすい挑発に、喰録は唸るように喉を鳴らした。
 下から聞こえた、獣の悲鳴にタイランが反応を示す。飛びかかってきた妖魔のうちの一頭が、ドウメキによって投げ飛ばされたのだ。
 その手には煙管が握られていた。短いそれを武器に妖魔に応戦している。そうだ、武器はない。市井に出ていただけで、何も戦う準備などしていないのだ。
 それでも、どうすべきかは記憶の中の守城が教えてくれた。タイランの体の奥から、懐かしさと共に眠っていた経験がゆっくりと指先にまで浸透してくる。
 巫力はない、空の器を今満たすのは己に重なる守城の魂だ。

「そんな棒切れで何ができる妖魔。影犬はそんなものでは倒せぬぞ」
「うるさい人間め、静かに参拝もできぬのか……」

 
 イムジンの煽りに、ドウメキは渋い顔をした。しかしその表情もすぐに色を変えた。喰録によって地上に下されたタイランを視界に映すなり、ドウメキは引き留めるかのように怒鳴ったのだ。

「巫力もなしにここへくるな!」
「棒術くらいなら嗜んでいる!」
「ああもう、お前はどれだけ俺を過信するのだ……」

 喰録から降りたタイランは、ドウメキの背後を陣取った。琥珀の瞳は、この場を切り抜けてやると言う固い決意を滲ませている。
 タイランの面構えが変わったことに気がついたらしいドウメキが、影犬を打ち飛ばした煙管を手の中で回転させる。それはたちまち長い錫杖へと姿を変えると、澄んだ音を立てて金環を揺らした。
 素手で構えるタイランを窘めるかのように、ドウメキは錫杖を後ろ手に渡した。黒漆が美しい柄を握り締める白い手は力強く、そして錫杖を手にしたタイランは美しかった。
 手に馴染む感覚に安堵するかのように、タイランの口元が緩んだ。
 あの日ドウメキを残して死んだ守城がその場にいる。ありもしないそんな錯覚に、ドウメキは小さく息を呑んだ。

「前も、こんなことがあっただろう」

 タイランの言葉に、ドウメキの瞳が見開かれた。
 ああ、覚えている。この肉体の高揚も、重なる背中も、鳴る金環の澄んだ音も、全てドウメキの中に記憶として残っている。そしてその記憶は、タイランもまた同じだ。
 込み上げる切ない胸の疼痛は、震える吐息となってドウメキの唇から溢れた。
 
「……あの時は影犬ではなかった」
「何も変わりあるまいさ」

 タイランの手の中で、応えるように錫杖が鳴く。構えをとると、その機会を待ち侘びていたかのように影犬が飛びかかってきた。
 
(体が、覚えている。何をすればいいかは、全部俺が知っている)

 タイランの靴が、踏み込みと同時に礫を弾く。大口を開けて襲いかかる一頭へと、素早く錫杖を振り下ろした。
 しなる柄は、しっかりと影犬の頭の仮面に衝撃を与えた。根が這うように、罅が走る。力のままに叩き割ると、影犬の体は瞬く間に霧散した。

「な……」
「面白い。見抜いたか」

 そんなタイランの姿を、馬上のイムジンとヤンレイは見つめていた。
 驚愕がヤンレイから言葉を奪う。タイランが的確に妖魔の弱点を見抜いたことも、動きにくい深衣を翻すようにして立ち回る姿も、ヤンレイの知らないタイランがそこにいた。

「なんで、いつ……‼︎」
「存外、お前の兄君は面白い男なのかもしれんなあ」
「そんなわけない、九魄……‼︎」

 ヤンレイの声が響いた途端、周囲の空気が熱を孕んだ。
 ドウメキが慌てて頭上を見上げる。瞳に映ったのは、炎でできた渦を背負うようにしてこちらを見下ろす九魄の姿だった。

「全て焼き払う気か‼︎」
「加減はするさ」

 九魄の金の瞳が、妖しく光る。赤い翼は空を掴むかのように羽ばたいた。渦から竜巻状に伸びた炎が、意思を持つかのように地上へと向かっていく。
 喰録が、影犬を蹴散らすようにして駆け出した。襲いくる炎の勢いを奪おうとしているのだ。大きな翼を広げるようにして飛び上がると、九魄へと向かってグワリと咆哮を上げた。
 その姿は猛獣そのものだ。牙を剥き出しにして飛びかかる姿は、普段の穏やかな様子からは想像もつかないものだった。
 迫り来る熱風に、影犬を繰り出していた青院の兵は散り散りになるように逃げ出した。標的はタイランに定められているのは明白だ。
 錫杖を握り締める手に力が入ったその時、ドウメキによって体を引き寄せられるようにして抱き込まれた。

「こい‼︎」
「ぅわ、っ」

 布が広がる音がして、ドウメキの羽織が視界を奪う。猩々緋のそれで身を隠すように覆われると、羽織の上を舐めるように炎が滑っていった。
 悲鳴と、血肉の焦げる匂い。タイランの頭を押さえつけるようにして体勢を低くとるドウメキの表情が、険しいものになる。炎の勢いに負けよろめきそうになるタイランの体を、ドウメキは腕一本で支えていた。
 背中を支えるドウメキの手に力が込められる。タイランは緊張と同時に、熱で空気が膨れ上がるだけではない息苦しさのようなものを感じていた。


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