18 / 58
侵食
しおりを挟む
「不愉快だ。夫婦の時間を奪うなど。」
「甚雨、ばっか!あんま暴れると木が倒れる!」
「悪いが叱責は後にしてくれ。」
ああもう!嫁である化け鼬の青藍の非難混じりの声が後ろから聞こえた。敵襲がきたと狼煙が上がり、そこから念の為準備をしていたのだが、まさか本当に来るとは思わなかった。青藍は腰に刀を佩いたまま、山犬である番の甚雨の暴れっぷりに頭の痛い思いをしていた。
久しぶりに、そういう雰囲気になったのに。甚雨の榛色の瞳には水を差されたことによる苛立ちがありありと浮かんでいた。
「あーーー!まってそっち薬草畑だから!!」
「心得た。」
灰色の巨躯を存分に使い、青藍によって荒らすなと言われている畑に向かおうとした一匹を仕留める。残るはもう一匹。木の上でこちらを害そうとする猿のような穢に向かって飛びかかった。木々の合間を自在に飛び交いながら、まるで遊ぶかのように追いかけてくる甚雨を時折振り返る。穢の赤く揺れる瞳が、地上で困ったように見上げている青年に目をつけた。
「え、」
「っ、青藍!」
木の上から落ちるように身をひねりながら、その真っ黒な両腕を広げて青藍の真上を陣取った。甚雨がいくら早くても、その勢いを殺してまでこちらに飛びかかるのは無理だろうと思ったのだ。予想通り、甚雨は慌てて方向を変えたせいで大きな木をなぎ倒した。栗色の瞳が揺れる、可愛らしい顔立ちをした鼬耳の青年の瞳孔が、キュッと細待った。
「舐めるなよ猿。」
とんでもなく低い声がした。声の主は化け鼬の青藍であった。瞬く間にその身を燃やすようにして鋭い犬歯をむき出しにした獣の姿に転じると、あっという間に数メートルはあろうかという距離を真下から一気に詰め寄った。その手をぐぱりと開き、鋭い鉤爪を浴びせるかのように顔面に叩き込む。豊かな薄茶の毛並みを逆立てて、顔面を鷲掴むようにして地面に叩きつけると、腰に佩いていた刀を放り投げた。
「食らうな!噛みつくより斬れ!」
「なるほど。」
青藍の言葉に、甚雨が納得したかのように頷いた。嫁の脚の下で暴れる穢が、その身を捩り慌てて青藍から離れる。甚雨は木の葉を巻き上げるかのようにその身に風を纏うと、突然視界を失った穢が木を登ろうとする動きを止めた。その、一瞬の隙であった。
「そろそろ新調したほうがいい。研ぎもしないから鈍らになっている。」
「だってそれ人間のお古だぜ、甚雨が研いでよ。」
「研ぎ方なんぞしらん。」
ぼてん、と重い音を立てて首が落ちた。甚雨は青藍のもとに向かいながら、あの離れた距離で首を跳ねたのだ。刀に風を纏わせ、そうして振り抜きざまに切断をした。戸惑い顔のまま消えていく穢をちらりと見やると、青藍はシュルシュルと慣れた人間の姿に戻った。
「胴の長い姿も愛らしい、なるほどあの距離を詰めたからくりはそれか。」
「足長くて縺れる位なら、俺は鼬のままでいいね。」
ふふん、と得意げに笑う嫁の髪についた木っ端を取ってやる。青藍だって化け鼬だ。化け鼬の本性だって勿論あるのだ。甚雨がべろりと頬を舐めて労るのを好きにさせながら、青藍はその長い尾を甚雨の尾に巻きつける。
「お山が騒がしいなあ。あ、ニニギがこっち見てるぞ。」
「あの木か。あちらも終わったようだな。」
「うちのボンのとこ行こうかな、怪我人は天狗屋敷だろ?」
「なら連れて行こう。背中に乗れ。」
甚雨が山犬の姿に戻る。人型のままの青藍は、耳やら頬やらを甚雨の唾液でしっとりと濡らしたまま、それならばとせこせこと薬草やら薬研、漢方などのありとあらゆる薬の素、念の為の手術道具やら医療本。それらを風呂敷に包み込んで甚雨の首にくくりつける。毎回のことなので甚雨も慣れたものだが、凛々しい山犬の姿からはかけ離れてしまうのだ。まあ、青藍がそれを可愛いと言うので良しとしているが。
体高を下げて、青藍を跨がらせる。全身で甚雨の灰色の毛に埋もれるようにして抱きつくと、均衡を保つためにピンと長い尾を立てる。
「速すぎても怖いから程々で頼む。」
「心得た。」
ぺしょ、と甚雨の耳を舐めておねだりをすると、ぶわりと毛を膨らませて、その足に風を集めた。
体が痛い。痛くて熱い。睡蓮は湿気った地べたに頬を付けたまま、穢による侵食の痛みに耐えていた。睡蓮の侵食は、左手から始まった。爪先からゆっくりと黒くなって、今は手の甲まで染まってしまった。こんな少しだけなのに、体が動かないのだ。睡蓮の侵食と対を成すように、鐘楼の右半身の手はゆっくりと肌色を取り戻す。穢が呪いになって、そして鐘楼が睡蓮に執着を見せたからこうして痛みを分けているのだ。痛い、骨が溶けてしまいそうなくらい軋んでいる。
「痛みを分けるというのはね、睡蓮。とても尊い行いなのだよ。」
何を言っているのだろう。睡蓮は極力体を動かさないようにしながら、ちろりと視線だけで鐘楼を見た。すっかり白くなった右手で、そっと睡蓮の頭を撫でる。その手が信じられないほど優しくて、まとまらぬ感情のままに受け取るしかない睡蓮の涙のを滲ませる。
「己の痛みを分け与えることができる。そういう相手が居るというのはとても尊いことだ。」
だって、それは愛に似ている。同じ心持ちを重ねて、互いに同じ理由で苦しむ。それが、愛じゃないわけがない。
「幸せになりたい。」
とても穏やかな顔で、鐘楼はそう言った。
「我は幸せになりたい。死して行った仲間たちの無念を晴らすべく、こうして禍津神になった。神は神である。だから、救いたい。救うためには、幸せを知りたい。」
「すく、いたい、…し、あわせ?」
「虐げられている小さき命を、我は救いたい。睡蓮、お前は我の為に泣いてくれたね。その優しさは、人間には無いものよ。彼奴らは我らをものとしてみる。だから、体に綿を詰めるのだ。」
死してなお辱めるのだ。鐘楼はそう言うと、柔らかな睡蓮の髪を撫でてやった。
「この手が欲しい、お前の優しいこの手が。」
「っ、…」
「なあ、お前の手は侵されてもなお温もりを持っているのだな。」
鐘楼は、己の足の下で小さく震えながら、語りかけてきた白兎に執着していた。気にかけ、そうして死した亡骸に涙してくれた。己の死を真正面から向き合い、己が最後の記憶に焼き付けた妖かしに依存した。
「小さな手、我よりも余程に。お前はこの幼い手の平を差し伸べてくれたのだな。」
「い、いたい…っ…いたい、鐘楼さ、っ」
じくんと痛むその手を取りながら、鐘楼はうっとりとした顔で睡蓮を見つめた。己と同じ痛みを分け合い、呻き、涙をする睡蓮は、鐘楼にとって一つの縁だった。
「我はね、睡蓮。目覚めたときに、沢山の無念を受け取った。ままならぬ思いを抱えたまま、息を引き取っていった仲間たちの無念を、こうして腹に収めたのだ。」
「わ、わかんないよ…」
「我の体を通して、穢達は里に戻った。何れ死して妖かしに転じるものもいるのなら、その無念の欠片をこの土地に放ってやるのが優しさだろう。」
「ここに、穢を撒いたの…!」
鐘楼の言葉に、睡蓮は目を見開いた。ぱきき、となにかが擦れる音がして、ぐつりと左手が熱を持つ。睡蓮の穢に侵食された左手にゆっくりと切れ目が入ると、くちりとした音とともに円な赤い目玉がぽこんと浮き出た。
「ひ、っ…!!」
「ああ、産まれるなあ。」
きょろりと睡蓮を見つめた目玉が、ゆっくりと手の甲に沈んでいく。恐ろしい光景であった。睡蓮はその身をがたがたと震わせ、迫り上がってくる不快感に耐えきれずに嘔吐した。
「っ、ぐぅ、えっ…」
「我の身に溜めた穢を移したのだ。お前も、このまま染まっていけば対になる。」
「ぇほ、っ…ひ、や、やだ、やだぁ…っ…」
「ああ、愛らしい。お前も腹に抱えるものがあるなら、身を任せよ。穢は、そうした思いを苗床にする。睡蓮、お前には禍津神の才がある。」
呼吸が苦しい。目に涙をためながら、睡蓮はその手からゆっくりと黒い煙と共に赤い目玉が浮かび上がるのを見た。怖い、怖いのだ。でも、己のせいでこのお山の皆が危険に晒される、そちらのほうが余程怖かった。
己に生じた原因。それを潰すかのように、一息に己の右手を穢へと振り下ろす。
「っーーーーあ、あぁ…!!」
「馬鹿だねえ、睡蓮は。」
ぷちん、と潰れるような音がして、穢が吹き上がった。睡蓮の手によって産まれたての穢は潰された。しかし、その反動で侵食は瞬く間に睡蓮の手首まで覆い尽くした。酷い痛みだ。黒い左手を叩いた右手を、ゆっくりと開く。ドロリとした赤い血液のようなものが纏わりついていた。
「その穢は、お前を苗床にしたのだよ。それを潰したらお前に穢が広がるのは当たり前ではないか。」
「ひ、っ…ひぅ、あ…っ…!」
「呪いのようなものさ、お前だって妖かしならわかるだろう。それは神気がなくては剥がせない。そして、剥がれるまでは穢を吹き上げ続ける。」
愚かな子、幼くて可愛らしい。穢を潰せばそれが里に放たれることはない。しかし、潰せば己の穢を侵食させる。きっと、もしかしたらとその考えは思い至っていたのかもしれない。それなのに、その可能性があったのにも関わらず、睡蓮はそうしたのだ。鐘楼にはそれがわかっていた。
戸惑いで、手元が狂うのを恐れて一気に振り下ろしたのだ。思い切りがいいのではない、躊躇を恐れたからだ。
睡蓮は、つまり、そういう意味で覚悟をしたのだ。あのときの鐘楼のように。
「蜜蜂のように儚く生きるのも、美しいものだよ睡蓮。」
柔らかで、慈愛に満ちた声。睡蓮の赤い瞳からぽとりと涙が溢れる。染み込んだ涙がつるりと伝った真っ黒な腕に、また一つ赤い目玉が開いた。
「甚雨、ばっか!あんま暴れると木が倒れる!」
「悪いが叱責は後にしてくれ。」
ああもう!嫁である化け鼬の青藍の非難混じりの声が後ろから聞こえた。敵襲がきたと狼煙が上がり、そこから念の為準備をしていたのだが、まさか本当に来るとは思わなかった。青藍は腰に刀を佩いたまま、山犬である番の甚雨の暴れっぷりに頭の痛い思いをしていた。
久しぶりに、そういう雰囲気になったのに。甚雨の榛色の瞳には水を差されたことによる苛立ちがありありと浮かんでいた。
「あーーー!まってそっち薬草畑だから!!」
「心得た。」
灰色の巨躯を存分に使い、青藍によって荒らすなと言われている畑に向かおうとした一匹を仕留める。残るはもう一匹。木の上でこちらを害そうとする猿のような穢に向かって飛びかかった。木々の合間を自在に飛び交いながら、まるで遊ぶかのように追いかけてくる甚雨を時折振り返る。穢の赤く揺れる瞳が、地上で困ったように見上げている青年に目をつけた。
「え、」
「っ、青藍!」
木の上から落ちるように身をひねりながら、その真っ黒な両腕を広げて青藍の真上を陣取った。甚雨がいくら早くても、その勢いを殺してまでこちらに飛びかかるのは無理だろうと思ったのだ。予想通り、甚雨は慌てて方向を変えたせいで大きな木をなぎ倒した。栗色の瞳が揺れる、可愛らしい顔立ちをした鼬耳の青年の瞳孔が、キュッと細待った。
「舐めるなよ猿。」
とんでもなく低い声がした。声の主は化け鼬の青藍であった。瞬く間にその身を燃やすようにして鋭い犬歯をむき出しにした獣の姿に転じると、あっという間に数メートルはあろうかという距離を真下から一気に詰め寄った。その手をぐぱりと開き、鋭い鉤爪を浴びせるかのように顔面に叩き込む。豊かな薄茶の毛並みを逆立てて、顔面を鷲掴むようにして地面に叩きつけると、腰に佩いていた刀を放り投げた。
「食らうな!噛みつくより斬れ!」
「なるほど。」
青藍の言葉に、甚雨が納得したかのように頷いた。嫁の脚の下で暴れる穢が、その身を捩り慌てて青藍から離れる。甚雨は木の葉を巻き上げるかのようにその身に風を纏うと、突然視界を失った穢が木を登ろうとする動きを止めた。その、一瞬の隙であった。
「そろそろ新調したほうがいい。研ぎもしないから鈍らになっている。」
「だってそれ人間のお古だぜ、甚雨が研いでよ。」
「研ぎ方なんぞしらん。」
ぼてん、と重い音を立てて首が落ちた。甚雨は青藍のもとに向かいながら、あの離れた距離で首を跳ねたのだ。刀に風を纏わせ、そうして振り抜きざまに切断をした。戸惑い顔のまま消えていく穢をちらりと見やると、青藍はシュルシュルと慣れた人間の姿に戻った。
「胴の長い姿も愛らしい、なるほどあの距離を詰めたからくりはそれか。」
「足長くて縺れる位なら、俺は鼬のままでいいね。」
ふふん、と得意げに笑う嫁の髪についた木っ端を取ってやる。青藍だって化け鼬だ。化け鼬の本性だって勿論あるのだ。甚雨がべろりと頬を舐めて労るのを好きにさせながら、青藍はその長い尾を甚雨の尾に巻きつける。
「お山が騒がしいなあ。あ、ニニギがこっち見てるぞ。」
「あの木か。あちらも終わったようだな。」
「うちのボンのとこ行こうかな、怪我人は天狗屋敷だろ?」
「なら連れて行こう。背中に乗れ。」
甚雨が山犬の姿に戻る。人型のままの青藍は、耳やら頬やらを甚雨の唾液でしっとりと濡らしたまま、それならばとせこせこと薬草やら薬研、漢方などのありとあらゆる薬の素、念の為の手術道具やら医療本。それらを風呂敷に包み込んで甚雨の首にくくりつける。毎回のことなので甚雨も慣れたものだが、凛々しい山犬の姿からはかけ離れてしまうのだ。まあ、青藍がそれを可愛いと言うので良しとしているが。
体高を下げて、青藍を跨がらせる。全身で甚雨の灰色の毛に埋もれるようにして抱きつくと、均衡を保つためにピンと長い尾を立てる。
「速すぎても怖いから程々で頼む。」
「心得た。」
ぺしょ、と甚雨の耳を舐めておねだりをすると、ぶわりと毛を膨らませて、その足に風を集めた。
体が痛い。痛くて熱い。睡蓮は湿気った地べたに頬を付けたまま、穢による侵食の痛みに耐えていた。睡蓮の侵食は、左手から始まった。爪先からゆっくりと黒くなって、今は手の甲まで染まってしまった。こんな少しだけなのに、体が動かないのだ。睡蓮の侵食と対を成すように、鐘楼の右半身の手はゆっくりと肌色を取り戻す。穢が呪いになって、そして鐘楼が睡蓮に執着を見せたからこうして痛みを分けているのだ。痛い、骨が溶けてしまいそうなくらい軋んでいる。
「痛みを分けるというのはね、睡蓮。とても尊い行いなのだよ。」
何を言っているのだろう。睡蓮は極力体を動かさないようにしながら、ちろりと視線だけで鐘楼を見た。すっかり白くなった右手で、そっと睡蓮の頭を撫でる。その手が信じられないほど優しくて、まとまらぬ感情のままに受け取るしかない睡蓮の涙のを滲ませる。
「己の痛みを分け与えることができる。そういう相手が居るというのはとても尊いことだ。」
だって、それは愛に似ている。同じ心持ちを重ねて、互いに同じ理由で苦しむ。それが、愛じゃないわけがない。
「幸せになりたい。」
とても穏やかな顔で、鐘楼はそう言った。
「我は幸せになりたい。死して行った仲間たちの無念を晴らすべく、こうして禍津神になった。神は神である。だから、救いたい。救うためには、幸せを知りたい。」
「すく、いたい、…し、あわせ?」
「虐げられている小さき命を、我は救いたい。睡蓮、お前は我の為に泣いてくれたね。その優しさは、人間には無いものよ。彼奴らは我らをものとしてみる。だから、体に綿を詰めるのだ。」
死してなお辱めるのだ。鐘楼はそう言うと、柔らかな睡蓮の髪を撫でてやった。
「この手が欲しい、お前の優しいこの手が。」
「っ、…」
「なあ、お前の手は侵されてもなお温もりを持っているのだな。」
鐘楼は、己の足の下で小さく震えながら、語りかけてきた白兎に執着していた。気にかけ、そうして死した亡骸に涙してくれた。己の死を真正面から向き合い、己が最後の記憶に焼き付けた妖かしに依存した。
「小さな手、我よりも余程に。お前はこの幼い手の平を差し伸べてくれたのだな。」
「い、いたい…っ…いたい、鐘楼さ、っ」
じくんと痛むその手を取りながら、鐘楼はうっとりとした顔で睡蓮を見つめた。己と同じ痛みを分け合い、呻き、涙をする睡蓮は、鐘楼にとって一つの縁だった。
「我はね、睡蓮。目覚めたときに、沢山の無念を受け取った。ままならぬ思いを抱えたまま、息を引き取っていった仲間たちの無念を、こうして腹に収めたのだ。」
「わ、わかんないよ…」
「我の体を通して、穢達は里に戻った。何れ死して妖かしに転じるものもいるのなら、その無念の欠片をこの土地に放ってやるのが優しさだろう。」
「ここに、穢を撒いたの…!」
鐘楼の言葉に、睡蓮は目を見開いた。ぱきき、となにかが擦れる音がして、ぐつりと左手が熱を持つ。睡蓮の穢に侵食された左手にゆっくりと切れ目が入ると、くちりとした音とともに円な赤い目玉がぽこんと浮き出た。
「ひ、っ…!!」
「ああ、産まれるなあ。」
きょろりと睡蓮を見つめた目玉が、ゆっくりと手の甲に沈んでいく。恐ろしい光景であった。睡蓮はその身をがたがたと震わせ、迫り上がってくる不快感に耐えきれずに嘔吐した。
「っ、ぐぅ、えっ…」
「我の身に溜めた穢を移したのだ。お前も、このまま染まっていけば対になる。」
「ぇほ、っ…ひ、や、やだ、やだぁ…っ…」
「ああ、愛らしい。お前も腹に抱えるものがあるなら、身を任せよ。穢は、そうした思いを苗床にする。睡蓮、お前には禍津神の才がある。」
呼吸が苦しい。目に涙をためながら、睡蓮はその手からゆっくりと黒い煙と共に赤い目玉が浮かび上がるのを見た。怖い、怖いのだ。でも、己のせいでこのお山の皆が危険に晒される、そちらのほうが余程怖かった。
己に生じた原因。それを潰すかのように、一息に己の右手を穢へと振り下ろす。
「っーーーーあ、あぁ…!!」
「馬鹿だねえ、睡蓮は。」
ぷちん、と潰れるような音がして、穢が吹き上がった。睡蓮の手によって産まれたての穢は潰された。しかし、その反動で侵食は瞬く間に睡蓮の手首まで覆い尽くした。酷い痛みだ。黒い左手を叩いた右手を、ゆっくりと開く。ドロリとした赤い血液のようなものが纏わりついていた。
「その穢は、お前を苗床にしたのだよ。それを潰したらお前に穢が広がるのは当たり前ではないか。」
「ひ、っ…ひぅ、あ…っ…!」
「呪いのようなものさ、お前だって妖かしならわかるだろう。それは神気がなくては剥がせない。そして、剥がれるまでは穢を吹き上げ続ける。」
愚かな子、幼くて可愛らしい。穢を潰せばそれが里に放たれることはない。しかし、潰せば己の穢を侵食させる。きっと、もしかしたらとその考えは思い至っていたのかもしれない。それなのに、その可能性があったのにも関わらず、睡蓮はそうしたのだ。鐘楼にはそれがわかっていた。
戸惑いで、手元が狂うのを恐れて一気に振り下ろしたのだ。思い切りがいいのではない、躊躇を恐れたからだ。
睡蓮は、つまり、そういう意味で覚悟をしたのだ。あのときの鐘楼のように。
「蜜蜂のように儚く生きるのも、美しいものだよ睡蓮。」
柔らかで、慈愛に満ちた声。睡蓮の赤い瞳からぽとりと涙が溢れる。染み込んだ涙がつるりと伝った真っ黒な腕に、また一つ赤い目玉が開いた。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
神父様に捧げるセレナーデ
石月煤子
BL
「ところで、そろそろ厳重に閉じられたその足を開いてくれるか」
「足を開くのですか?」
「股開かないと始められないだろうが」
「そ、そうですね、その通りです」
「魔物狩りの報酬はお前自身、そうだろう?」
「…………」
■俺様最強旅人×健気美人♂神父■
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる