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1巻

1-2

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「どれどれ」

 課長も興味深そうに言い、お茶を飲んで、そして同じように声を上げた。

「本当だ。これは美味おいしい」
「鷹野さんは、お茶をれるのが随分お上手だね」

 部長にそう言われて、由衣はホッとした。

「ありがとうございます。お茶のれ方は一通り学校で習ったので。もっと美味おいしくれたくて、自分でもいろいろ調べたりしました。ポイントはお湯の温度で、一番重要なんです」

 由衣は知らずに力説していたけれど、部長たちが苦笑いを浮かべたのを見て、思わず口を閉じた。

「出来上がりは申し分ないが、次はもう少し時間を短縮出来るように頑張ってみて」
「は、はい。失礼しました」

 若干しょんぼりとして課長室を出ると、環がポンと肩を叩いた。

「別にたいした失敗じゃないんだから、気にしないで」
「……はい」
「結果、お茶は美味おいしかったし、怪我もなくて良かったわ」

 環がホッとした顔で笑ったのが、なんだか気に掛かる。

「怪我だなんて……」
「あら。あなたの先輩である社長の奥さんなんて、会社でお茶をれるたびに、湯呑ゆのみを割ったり火傷やけどしたりボヤを出したりしたわよ」
「ボヤ……」
「毎回警報器とかスプリンクラーが作動するので、見かねた社長がとうとう社長室での飲食禁止令を出したの。警備会社の社長室でボヤ騒ぎだなんて、洒落しゃれにもならないものね」
「そう、ですね……」
「社長夫人にはこれ以外にも面白い話がたくさんあってね。お仲間だって聞いたから、どうしようかと思っていたけど、良かったわ」

 環があっけらかんと笑った。
 さすがは雛子様。学院のみならず、大人になっても数々の逸話いつわを残されているとは。
 笑うに笑えないまま、由衣は給湯室にお盆を戻しに行く。

「さ、じゃあ次は、経理と営業に備品を届けに行きましょ」
「はい」

 由衣はその後も環からいろいろと仕事を教わった。はじめてのことばかりで戸惑ったり失敗したりしたけれど、なにもかもが興味深い。
 そうして慌ただしく過ごしているうちに、あっという間に終業時間になっていた。

「お疲れさまでした。今日はこれで終わりです。どうだった?」
「ありがとうございました。なにがなんだか……という感じです」

 由衣が正直に答えると、環が笑った。

「最初だからね。誰でもそういうものよ。そのうち慣れるから少しずつ覚えていって」
「はい」

 由衣は帰り支度をしたあと、環や同僚と一緒に駅に向かって歩く。気さくな性格の環と一日一緒にいて、由衣は頼れるお姉さんが出来たような気持ちになっていた。環のおかげで他の同僚とも親しく話せるようになり、一日でたくさんの知り合いが出来たことも嬉しい。
 改札口で環と別れ、由衣は一人でまた満員電車に乗った。朝とはまた違う雰囲気に圧倒されながら、なんとか踏ん張ってつり革につかまる。
 丸一日働いて、猛烈に疲れていた。気力も体力もすべて使い果たした――そんな感じだ。
 電車の窓には、ぐったりと疲れている自分の顔が映っている。よく見れば、まわりにいる人たちも同じような顔をしている。
 みんなそうやって、一日一生懸命働いて、そして疲れて帰って行くのだ。
 由衣は改めて、自身が今までとても恵まれた環境にいたことを実感する。
 電車を降りて自宅まで歩く。それほど遠くはないはずだけれど、今日は足が棒のようになっていて、いつもよりも遠い気がした。気を抜けば倒れそうだと思いながら、マンションを目指す。

「ただいまー」
「おかえりなさい」

 玄関を開けると、すぐに母親が迎えに出てきた。

「疲れたでしょ。お父さんももう帰ってくるから、すぐご飯にしましょう」

 母の明るい声が心に染みた。思わず涙が出そうになって、慌てて顔を隠す。

「じゃあちょっと着替えてくるね」

 玄関のすぐ横にある由衣の部屋にさっと入り、電気をつける。以前の家に比べると今の部屋は狭く、ベッドと本棚だけでいっぱいいっぱいだ。
 にじんだ涙を手でぬぐい、ふうと息を吐く。まるでホームシックになったような感覚だった。
 しっかりしなければ。もう甘えた学生ではないのだから。
 部屋着に着替えて部屋を出ると、ちょうど父が帰ってきた。

「おかえりなさい」
「ただいま。由衣はどうだった?」
「大変だった。でも、楽しかったわ」
「そうか、それはよかった」

 父は由衣の少し赤い目に気がついていたかもしれないけれど、それには触れずにこりと笑った。
 三人で食卓を囲み、今日あったことを報告しあった。由衣が失敗したことを語ると、自分もそうだったと、父が若い頃のものからつい最近の失敗まで、面白おかしく話してくれた。

「失敗は誰にでもある。大切なのはそのあとだよ」
「そうね。明日は同じ失敗をしないように頑張るわ」
「お父さんも由衣も頑張ってるんだから、わたしも頑張らないと」

 母が言い、三人でまた笑った。
 母のこの台詞せりふの本当の意味がわかったのは数日後のこと。由衣が知る限り働いたことのない母だったが、この後すぐに近所のスーパーのレジの仕事を見つけたのだ。
 こうして本当の意味で、家族三人の新しい生活が始まった。
 明日への期待と不安と、そして心地よい疲れに、由衣はベッドに入るなり、すぐに眠たくなった。
 ……なにか、忘れているような気がする。
 ふと思い浮かんだけれど、答えを見つける前に由衣は眠りの中に落ちてしまった。



   3


 竜崎蓮は激怒していた。
 理由は一つ、婚約者が連絡を寄越さないからだ。

「あれほど毎日連絡しろと約束したのに」

 空港の到着ロビーを出て、出迎えの人混みの中にその姿が見えないことも、蓮の怒りを増幅させていた。
 百人いれば百人が美しいと言うほど、蓮の姿は整っていた。現に今も、すれ違う女性たちの視線を集めているけれど、当の本人はまったく気にしていない。
 現在二十五歳。建設業からはじまり、今ではあらゆる分野で利益を上げている竜崎グループの御曹司で、将来は現会長の父親の跡を継ぐことが決まっていた。現在はいわゆる武者修行中で、あちこちのグループ傘下さんかの会社を駆けまわっている。つい先日まで、スマートフォンの電波も届かない、ジャングルの奥地のダム建設に関わっていた。来週からは竜崎の本社に戻り、公共事業の開発工事にたずさわる予定だ。
 そんな多忙な蓮には親同士が決めた婚約者がいる。はじめて会った時、お互いまだ小学生だった。婚約者の父親はIT企業の先駆けと呼ばれる会社を一代で大きくした人で、蓮の父親の友人だ。
 婚約者と言われても当時はピンと来なかったけれど、三歳年下の婚約者は素直な性格で、蓮の言うことをなんでも聞いてくれたので、ていの良い子分のような関係だった。
 そんな関係も年々変化し、お互いがスマートフォンを持つ頃には、毎日連絡を取るようになっていた。以来、婚約者からは給食のメニューや宿題の内容といった、まるで一言日記のようなメッセージが毎日届いている。まあ当時は中高生だったので、他に書くことがなかったのだろう。
 ちなみに蓮も自分の給食や宿題を送っていて、こっちの方が美味うまそうだとか、自分の方が難しいことを習っているだとか返事をしていた。
 そんなに頻繁ひんぱんに会うような関係ではなかったけれど、一か月に一度程度は顔を合わせて食事には行っている。今から約三か月前、ジャングルの奥地におもむく前にも食事をして、一日一回はメッセージを入れることを約束していた。蓮からの返事は毎日は出来ないかもしれないが、出来る範囲で連絡すると伝えていたのだ。
 蓮が帰る日程も、秘書に聞けばすぐにわかると言ってあったのに。
 なのに、婚約者である鷹野由衣からの連絡は約二か月前から途切れていた。

「蓮さん、おかえりなさい」

 掛けられた声に蓮は振り向いた。
 そこに立っていたのは蓮の側近の犬飼いぬかいだった。
 蓮は黙ったまま頷き、押していた荷物のカートを犬飼に託す。
 蓮の専属秘書は犬飼の他に、鹿野内かのうちという者がいる。
 犬飼は蓮よりも十歳年上の有能な男で、元々は蓮の父親の秘書をしていた。その後は蓮の秘書となり、蓮のスケジュールのすべてを管理している。
 もう一人の鹿野内は、蓮の幼馴染おさななじみで親友でもある男だ。小中高大と同じ学校に通い、気心も知れている。加えて武道の有段者ということもあり、蓮が入社する時に秘書兼ボディーガードとして一緒に来てもらった。
 仕事の際は必ず二人、もしくはどちらかと一緒にいるが、今回の海外出張は珍しく一人だった。だから日々のことにいっぱいいっぱいで、婚約者のことまで頭が回らなかったのだ。
 迎えの車に乗り込むと、運転席には鹿野内が座っていた。

「おかえり。向こうはどうだった?」

 鹿野内が明るく声を掛けたけれど、蓮の不機嫌そうな顔を見て黙り込んだ。

「蓮さん、お疲れですか?」

 犬飼が探るように尋ねると、蓮の眉間のしわがさらに深くなった。

「……由衣はどうしてる?」

 蓮が聞くと、二人は顔を見合わせ、そして恐る恐るの様子で蓮を見た。
 これは怒っている。
 二人はまた目を見合わせ、やがて犬飼がそっと口を開いた。

「……会長から聞いてませんか?」
「父から? なにをだ?」

 これまで由衣とのことに父親から口を出されたことはない。
 蓮が答えると、二人はまた顔を見合わせた。
 車が発進し、少し落ち着いた時に二人から知らされた内容に、蓮は驚くほどの衝撃を受けた。

「由衣の父が背任行為で会社を追い出された? そんなばかな」

 由衣の父親のことは、蓮が子どもの頃から知っていた。仕事熱心で性格は穏やか、一見人がよさそう。だがずば抜けた経営能力を持っていて、一代で築き上げた自分の会社をさらに発展させることだけを考えているような人だ。それも正攻法で。だから犯罪とは縁遠い人だと思っていた。

「その辺りの事情はちょっと微妙なんですよね。はっきりした理由はおおやけにされていないようです。噂では会社の機密情報を流出させたとか」

 犬飼の言葉に、蓮は眉をひそめる。

「それと、由衣が連絡してこないことになんの関係がある?」

 父親が大変になったからといって、まったく連絡しない理由にはならない。むしろ連絡してくるべきだろう。
 すると、犬飼が言いにくそうに口を開いた。

「それはですね。鷹野社長が……あ、鷹野氏は会社を追い出され、一家は引っ越されました。鷹野氏の資産のほとんどは株だったので、それも大事おおごとにしないことを条件に譲渡することになったようで。で、多分由衣さんのスマホなども全部解約されたんでしょう。それで先日、鷹野氏が来られて、迷惑がかかるので婚約を解消すると……」
「解消……?」

 蓮が静かな声で言った。

「はい、向こうからそう申し入れがあったと。詳しいことは御父上からお話があると思いますので、このままご実家に向かいます」

 それ以上はわかりませんと犬飼も鹿野内も逃げるように言い、蓮の怒りがただただ増す。
 家に着くまでの車の中で今回の出張の報告書を書こうと思っていたけれど、まったく手につかない。
 タブレットの電源を切り、窓の外を見ながら、蓮は由衣のことを思い出していた。
 一言で言うと、真面目な女性だった。特別美人ではないけれど、そこそこ整った顔をしている。お嬢様学校として名高い聖女学院に長年通っていることもあって、どこか浮世離れしている雰囲気もある。蓮の言うことにはなんでも素直に答えてくれ、わからないことがあった時はすぐさま学習して吸収することも得意な女性だ。勉強も良くでき、学院でも成績優秀者として何度も表彰されていて、蓮も誇らしく思っていた。
 とはいえ、蓮が由衣のことを婚約者としてちゃんと意識し出したのは最近のことだ。子どもの頃の婚約など、はっきり言ってないに等しい。自分たちの場合、父親たちの友情が理由だからなおさらだ。
 だから、蓮はその関係は長続きしないと思っていたし、結婚する気もまったくなかった。もちろん由衣本人には言わなかったが、別の女性とつきあってみたり、そこそこ遊んだりしていたくらいだ。
 ただ、皮肉なことにそういった経験を重ねるにつれ、だんだんと由衣の良さがわかってきた。他の女性と比べれば比べるほど、由衣のそばにいることの方が心地よいと思ってしまったのだ。
 気づいてしまえば、蓮の行動は早い。将来の伴侶は由衣しかいないと確信したからこそ、仕事に精進して早く一人前として認めてもらおうと努力している最中だった。
 それなのに……
 突然のこの展開に、蓮の怒りがまた沸々ふつふつと湧いてきた。
 自宅に到着し、鹿野内が車のドアを開けるなり、蓮は飛び出すように降りて父親のもとに向かう。

「おお、戻ったのか」

 リビングにいた父親が蓮を見て声を掛けた。

「お父さん、どういうことですか?」

 蓮が厳しい顔で問い詰めると、父親が首を傾げた。

「どういうって、なんだ?」

 父親が戸惑うように言ったのとほぼ同時に、母親もやって来る。

「由衣のことです」

 蓮がはっきり言うと、父がああとつぶやき、悲しそうな顔をした。

「犬飼たちから聞いたか?」
「結果だけ。詳しい話はお父さんからと」

 蓮が答えると、父親が頷いた。

「詳しくもなにも、肝心の鷹野本人がほとんどなにも話さないから、わたしだってわからんよ。たしかなのは、鷹野が会社を追われ、財産もほぼなくなったことだな。で、迷惑をかけるから、婚約を解消すると言われたよ。そもそもわたしたちが勝手に決めたことだが、今は一応おおやけになっているからな。まして、由衣さんに無理強いは出来ないだろう」

 父は残念そうに言ったけれど、蓮はまったく納得出来なかった。

「お父さんは、本当に鷹野氏が背任行為をしたと思ってるんですか」
「いや。そういうことから一番遠い人間だと思っているさ」
「なら、どうして動かないんですか⁉」
「動くもなにも、鷹野がなにも言わない以上、他社の事情に踏み込むわけにはいかん」

 父親がはっきりと答えると、蓮が苦い顔になる。

「だからって勝手に解消なんて。由衣は俺の婚約者なのだから、俺が動きます!」

 蓮は断言するようにそう言うと、すぐに家を出て行った。そのあとを、犬飼と鹿野内が追いかける。
 慌ただしく出ていく一同を見ながら、蓮の両親は半ばあっけにとられていた。

「蓮があんなことを言うとは意外だったな。由衣さんには興味がないと思っていたよ」
「本当に。そんなに由衣さんのことが好きだったなんて思わなかったわね。我が子ながら、わかりにくい……」

 父親も母親も呆れながら言う。

「まあ、それならそれで良い。自分で動こうかと思っていたが、蓮に任せる方が良いだろう」
「そうね。なんとかなると良いけど……」

 敷地から出ていく車を見送りながら、二人はまた顔を見合わせた。


 蓮は一人暮らしをしているマンションに帰るなり、すぐさま情報を集める。
 由衣の父親のことはニュースサイトに小さく取り上げられていた。たしかにそこに情報流出の文字があったけれど、それ以上のことはわからない。

「もっとちゃんとした情報を集めてくれ」

 荷物の整理をしていた側近らに声を掛けると、二人はすぐさま頷いた。

「由衣はたしか大学院か。もう授業はとっくに終わったか?」

 つぶやきながら時計を見ようとすると、犬飼が答えた。

「由衣さんは大学院には行っていませんよ」
「……なに?」
「進学はあきらめられたそうです。先日、鷹野氏が来られた時にそうおっしゃってました。就職されることになったとか」

 蓮は由衣がとにかく勉強が好きだったことを知っている。だから、大学卒業後に大学院へ進むことを勧めたのは蓮だった。
 ――大学院で勉強漬けにしておけば、余計な虫が寄ってくることはないと思っていたのも事実だったが。
 由衣の心情を思うと、蓮の胸も痛くなった。大学院に行くことを由衣は楽しみにしていたのだ。

「どこで働いている?」
「たしか、芳野総合警備保障です」
「芳野? なぜそこに?」
「由衣さんと芳野の社長夫人がご学友だそうですよ」

 なるほど。そのつながりか。
 とにもかくにも、まず由衣と会って安否を確認しなければ。もう三か月以上顔も見ていなければ、声も聞いていない。
 だが、新しいスマートフォンの番号も家の場所もわからない今、蓮が取るべき行動は一つだった。

「明日、すぐ芳野に行く。スケジュールを調整してくれ」
「は、はい」

 驚いて目を丸くした側近を横目で見つつ、蓮は大きなため息をついた。



   4


 由衣が働き出してから一週間が過ぎた。毎日はじめてのことばかりで緊張した日々だったけれど、少しずつ仕事が出来るようになり、充実している。
 満員電車にも慣れ、これまでほぼ女性しかまわりにいない環境だったけれど、男性社員らと一緒に働くことに違和感を覚えることがなくなった。
 働いてみて、由衣は改めて自分が狭い世界で生きてきたことを実感した。知識だけ豊富でも、実体験を伴わなくては意味がないのだと知った日々だった。

「由衣、ホームページの問い合わせメールなんだけど、部署別に仕分けして担当者に送っておいて。回答の締め切りは明日だから、それも伝えて」
「あ、はい」

 環から言われた通り、由衣は自分のパソコンを立ち上げ処理をする。
 由衣の教育係である飛鳥井環とはかなり親しくなっていた。一人っ子の由衣にとって、頼れる姉のような存在だ。
 総務の仕事は幅広くて覚えることも多いけれど、今はだいぶ簡略化され、専門的な知識がなくてもある程度はすぐに出来るようになっているそうだ。新しい知識がどんどん増えていくことが、由衣は楽しくて仕方なかった。

「それが終わったら、支店の資料まとめもお願い」
「はい」

 仕事は次々あって、忙しい時は本当に忙しい。
 由衣は急いで各部にメールを送り、全国の支店から送られてきた山積みの段ボールに手をかけた。その時、別の手が伸びてきて段ボールを持ち上げた。

「環ったら人使いが荒いわよねえ。手伝うわよ」

 声を掛けてくれたのは別の先輩社員だ。

「ありがとうございます」
「あら、わたしだって手伝うわよ、もちろん。これが終わったらだけど」

 環がキーボードをカタカタ鳴らしながら言う。環も仕事が山積みなのだ。

「さっさとやんなさいよ。お昼までに終わらせて、みんなでランチに行くんだから。環だけ置いてくわよ」
「やだ、わたしだってみんなとランチしたい! 由衣だって一緒が良いわよね⁉」
「はい、もちろん」
「ほら! 聞いた?」

 言いながらも、環のタイピングのスピードは変わらない。それを由衣は尊敬のまなざしで見つめる。

「聞いてるわよ。由衣ったら優しいんだから。じゃあこっちも人海戦術でやるわよ」

 先輩はそう言い、他の人を何人も呼んで全員で資料を整理した。一人でやる作業も、みんなでわいわいやる作業も、由衣にとってはやっぱり楽しいことだ。
 その日、環の仕事も無事にお昼までに終わり、みんなでランチを食べに行った。
 職場の同僚は良い人ばかりで、新しい生活は想像していたよりずっと楽しい。
 そんなある日、由衣がコピー機の前で説明書を読み込んでいると、社内がなにやらざわついた気がした。なんだと顔を上げた時、環がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

「由衣、お客さんよ」
「え、わたしにですか?」
「そう。ここは良いから行って。課長の許可は取ったから」
「は、い……」

 お客さんって、誰かしら?
 由衣は戸惑いながら、説明書を置いて指定された会議スペースに向かった。そこは総務課の出入り口の近くで、パーテーションで区切られただけの小さな部屋だ。

「失礼します」

 恐る恐る声を掛けて扉を開ける。その真正面に座っている人物を見て、由衣は思わず目を丸くした。

「まあ、蓮さん!」

 そこにいたのは竜崎蓮だった。
 相変わらず驚くほど整った顔をしている。その表情はいつも自信に満ちていて、狭い会議室のパイプ椅子に座っているのに、まるで王様のように堂々としている。
 ただ、今日はその眉間に深いしわが寄っていた。
 顔を見るのは随分久しぶりだと思った瞬間、由衣はその理由に気づいた。

「そういえば、出張に行っていたんだっけ。帰ってきたのね、おかえりなさい」

 由衣がそう言うと、そのしわが一層深くなる。

「ただいま……じゃない。どういうことだ?」

 怒りを含んだ蓮の声に、由衣は戸惑った。
 どういうって、なんのことだろう。思い当たるのは婚約解消のことだけだ。

「どういうって……聞いてない? 婚約解消のこと」

 由衣が尋ねると、蓮の顔がさらに険しくなる。

「聞いてる」
「じゃあ……」

 なんのこと? と聞こうとしたところで、蓮が大きな声で言った。

「そういうことじゃない。なぜ連絡を寄越さない! 毎日必ず連絡すると約束したじゃないか。スマホを解約したとはいえ、手段はいくらでもあるだろう⁉」

 由衣は蓮がなにを言っているのか、理解するまで少し時間がかかってしまった。
 連絡しなかったことを怒っているとは、考えもしなかったのだ。でも、連絡をしなかった理由は、やっぱり一つしかない。

「なぜって……婚約解消したから?」

 由衣はまた恐る恐る答える。

「してない」
「え?」
「婚約は解消してない」

 蓮がきっぱりと言った。

「そうなの? お父さんはお断りしに行ったって言ってたけど……」
「勝手に解消されては困る」

 蓮の毅然きぜんとした態度を見て、由衣の父親が言ったことは幻だったのだろうかと一瞬考えてしまった。

「でも、蓮さんたちにもご迷惑をかけることになるし……」
「なにが迷惑かは俺が決める」
「……はあ」

 蓮の勢いに押され、由衣はそれ以上なにも言えなかった。そもそも父親がなぜ会社を追い出されたのか、具体的な理由がわからない以上、こちらも反論も出来ない。でもそれ以上に、今までとまったく変わらない蓮の態度が嬉しかった。
 父親の事件があってから、由衣の人間関係はがらりと変わった。事情もなにも知らない人たちが、こぞって背中を向けたのだ。そんな中で手を差し伸べてくれたのは雛子様。変わらずにいてくれたのは、蓮だった。


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