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1巻
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赤外線スコープが自分を狙っている。
感覚だけでそれがわかるのは逃亡生活が長いからか。
息を殺して、闇に潜む。今動くわけにはいかない。
あとどれくらいだろう。どれだけ逃げ続ければいいのだろう。
涙と汗が混じり、埃だらけの頬を伝う。
あの男の気配を感じる。どこまでもどこまでも追ってくる気配。
まるでわたしを嘲笑うかのように、決して姿を見せず、ただ影のようにつきまとう。
逃げなければ……
その思いだけで疲れ切ったからだを奮い立たせる。
どうして?
常に頭の中に浮かぶ言葉。
なぜわたしは逃げているの?
ついこの間まで、幸せに暮らしていたのに。
平凡な日々は何の前触れもなく突然に終わりを告げた。
逃げなければ……
薄暗い路地の隅にうずくまり、朝が来るのを待った。
ハッと目が覚めた。窓の外は暗く、時計を見なくても朝までにはかなり時間があるのがわかる。
一連の夢はまだまだ続きがあるようだ。そして日に日に悲壮感が増してきている気がする。
いやいや、ちょっと待とうよ。
わたしが昨夜寝る前に読んだのは何だった? 表紙を見せるのもちょっと躊躇しちゃうような、とっておきの一冊よ。出てきた男の子は強くて優しくって、恥ずかしげもなく甘い言葉を吐きまくる乙女の夢の結晶みたいな人だった。
どうせ夢に見るならこういうのにしようよ。現実にはありえないんだから、夢の中ぐらい、いい思いさせてよ。
夢も現実もハードボイルドだなんて……わたしの心はいつ休まるの?
まだ時間はある。目覚ましが鳴るまであと数時間はあるはず。
妄想しよ、妄想。得意技だもん。
自分をヒロインにするなら、相手が高校生……っていうのはちょっと厳しいな。大人でイケメン……を思い浮かべようとすると、どうしても池田さんが頭に浮かぶ。一番身近だからかな。
でも、池田さんは本当に煌びやかで、小説に出てくる男の子みたいに華やかで王子様みたいな人だ。
今まではそんな人も素敵だなって思っていたけれど、いざ現実に見てしまうとちょっと違うなって思うの。やっぱり軽薄な感じがダメなのかな。気障なところもちょっとなーと思う。
実際にあんな風に始終煌びやかな人と一緒にいると、こっちも疲れちゃうと思うのよね。やっぱりお話と現実は違うんだなあ。
いや、まあ現実にわたしと池田さんがつき合う確率なんてゼロ以下だけどさ。
いつでもドキドキしていられる関係はそれはそれで憧れるけれど、でもどっちかっていうと物静かでそばにいるだけで安心できる人の方がいい。
そして自分だけに優しい人。程よく甘い言葉と優しい仕草。包容力があって……でもそれって、うんと年上ってこと?
『みく、こっちにおいで』
なんて呼ばれたら、はーいって子犬みたいにしっぽを振っていっちゃうわ。
甘い妄想を重ねているうちに意識が少しずつ沈んでいく。
わたしの頭の中で、甘い言葉をささやく人のシルエットが段々と浮かび上がってきた。大きなからだがわたしを見下ろすように目の前に立っている。顔を上げても、相手の顔は逆光のようになっていて見えない。
シルエットの腕がゆっくりと持ち上がった。その手には、この前お風呂場で大量の洗剤で洗濯し、へたくそなアイロンをかけてから返したはずのイチゴ柄のハンカチがかかっていた。そして、シルエットの手がそのハンカチを払い……わたしの目の前に銃口が……
ゴルゴ!?
目覚まし時計とわたしの悲鳴が同時に響き、何事かと階段を駆け上がってきた母からまたぶつぶつと小言を言われたのは言うまでもない。
な、なんちゅー夢を見せるのか……
飛び出しそうな心臓を押さえ、ぜぇぜぇと息を吐いた。
お、恐るべし、ゴルゴめ。
夢見の悪い日は気分が乗らないわ。
なんてことを思いながらひたすら資料を作っていた。数年分の書類を引っ張り出し、比較できるようにまとめ直す。
不況の影響からか、去年よりも低コストになるよう求められているみたい。素材選びから気を使わないといけないなんて、下っ端の自分は考えもしなかったことだった。
「永野、去年の原価表見せて」
「あ、はいっ」
一日数回は聞こえてくる低い声に、大慌てで堆く積まれたファイルの中から目当てのものを探し、数冊まとめてゴルゴのデスクへ持っていった。
「どうぞっ」
机の上に置き、戻ってまた続きを始めようとしたとき。
「永野」
「は、はいっ」
「……これは?」
「へ?」
間抜けな声を出しながらそばまで行くと、ゴルゴが一枚の紙を見ていた。
誤ってファイルの間に挟まっていたのであろうそれは、ピンク色のウサギが大きな桃を抱えているへたくそなイラストだった。もちろんわたしの手描きで、次回の企画会議に出せればいいなと漠然と思い、空いた時間で書き殴っていたものだ。
「ああっ、す、すみませんっ」
慌てて取ろうとしたわたしをゴルゴが制した。
「きみの?」
「ええっと、はい。すみません。間違えて挟まってしまったみたいで――」
「……これだけか?」
「え? えーっと、はい、今のところは」
わたしの話を聞いているのかいないのか、ゴルゴはじっとウサギを見つめていた。
「……いいんじゃないか」
「え?」
「このまま続けて。企画を出すときにはもう数種類あった方がいい」
そう言うと、ゴルゴは紙を返してくれた。
「あ、ありがとうございますっ」
思わず大きな声が出てしまった。そばにいた何人かが何事かとばかりにこっちを見たけれど、気にならないくらい浮かれていた。
うわ、どうしよう、ものすごく嬉しい。
企画部に入ったときから自分のオリジナルのデザインが商品になればいいなと思っていた。でもそれはとても難しくて、今まで何度もダメ出しをされ続けている。
褒められたのは初めてだった。
いくら恐ろしいとはいえ、ゴルゴは仕事面では尊敬できる上司だ。そのゴルゴに褒められた!
そのときのわたしは今にも小躍りしそうなくらい舞い上がっていた。
「みく、どしたの?」
席に戻ったわたしのテンションの高さに、夏美が怪訝そうな声をかけてくる。
「褒められたっ」
「え?」
「これ」
驚いている夏美にだけ見えるように、こっそりとデザインを広げた。
「お、可愛いじゃない」
「続けてみなさいってゴルゴが」
「へえ、良かったじゃない。次の会議が楽しみね」
彼女の言葉に大きく頷く。
どんな小さなことでも、認められるってことはすごく嬉しい。
もう、ゴルゴってばいいとこあるじゃない。
わたしの中で、ゴルゴのイメージがまた少しアップした。
元々定時きっかりに終わる職場ではなかったけれど、ここ最近はさらに遅くなっている。その日も午後八時を過ぎて、ようやく自分の仕事が終わった。
いつもならまだ数人は残っている部内だけれど、今日はわたしとゴルゴだけだった。こっそりとゴルゴの様子を見ると、パソコンを前にまだパチパチと手を動かしていた。
あの大きな手じゃ打ちづらそう。それに何だか……ちょっと帰りづらいじゃない。
「ゴ……と、東堂さん、あの……お手伝いしますけど」
思いきってそう声をかけると、ゴルゴが手を止めて顔を上げた。一瞬驚いたような表情をしたように見えたのは気のせいだろうか。
「……いや、いいよ。これは別のだから」
そのとき、わたしはなぜか引き下がらなかった。一人でポツンと残っているゴルゴが、何だか少し寂しそうに見えた……とか言ったら、夏美とかは大笑いしそうだけど。
「簡単なものならやりますよ」
そう言ったわたしに、ゴルゴは少し考えたあと書類を差し出した。
「……これを、十部コピーしてもらえるか」
「はいっ」
受け取った書類を持って部屋の隅にあるコピー機に向かった。書類を整えながら、ふとその表紙を見て手を止める。
あれ? これって……
ゴルゴから受け取ったそれは、紛れもなく池田さんの企画のものだった。
なぜこれをゴルゴが? 池田さんもサポートの人たちもすでに帰っているのに。
疑問に思ったままコピー機にセットしてスタートボタンを押した。ちょっと型の古いコピー機がゴンゴンと音を立てる。次々と排出される紙を見つつ、横目でちらっとゴルゴを見た。
まだ何かを打っている。もしかしてアレも池田さんのやつなんだろうか。
残業までしてやってるってどういうこと?
手伝ってるの? それとも……やらされてるっていうのはないだろうしなあ。
と、そのときコピー機が止まっていることに気がついた。小さな液晶パネルにはエラーの表示が光っている。
「ええー」
何で? しかもトナー切れだ。
よりによって残業中にトナーを替えることになるなんて……一番嫌いな作業なのに。
仕方なく備品の棚から詰め替え用のトナーを出してくる。外箱に書いてある交換方法を読みながら、トナーの容器をセットした。
……やり方が下手なんだろうなぁ。
わたしがやるとどうしてもトナーの粉がどこかに飛び散ってしまう。数分後、何とか詰め替え、飛び散ったトナーをティッシュで拭き取ってから再スタートした。
うー、やっぱり手についた。
指先についた黒い煤のような汚れに、思わず顔をしかめる。仕方なく女子トイレで手を洗い、戻ってきたら、今度はちゃんとコピーが終わっていた。書類をソーターから一部ずつ出し、ページを確認してから揃えてダブルクリップで留める。
まだ熱の残る書類の束を抱え、ゴルゴの席へと向かった。
どうやらわたしがコピー機に悪戦苦闘している間に彼の仕事は終わったようだ。もうパソコンには向かっておらず、椅子の背にもたれて外を見ていた。
ヤバイ、待たせてる?
「す、すみません。お待たせしました」
慌てて書類を机の上に置いた。ゴルゴはゆっくりとからだを戻して、それを手に取る。
「……悪いな」
「いえ」
「今日はもういいぞ」
「はい、お疲れさまでした」
自分の席に戻り、帰り支度をした。窓の鍵とトイレの電気を確かめてから出ようとしたら、ビルの出入り口でゴルゴと一緒になってしまった。
「……永野は電車か?」
「は、はい」
そう言うと、ゴルゴはわたしと並んで歩き出した。
……こ、これって駅まで一緒にってことなんだろうか……だよねぇ。
遠慮したい気持ちは大いにあったけれど、言葉に出す勇気もなく……。仕方なくゴルゴと並んで駅までの道を歩いた。
き、気まずい。
何か話さなきゃと思うけれど、何を話せばいいのかまるっきりわからない。
ひたすら無言で気まずいことこの上ないのに、ゴルゴはまるで気にしていないようだった。
しかも、この時間の駅前はいつもものすごく混んでいるのに、わたしたちのまわりには見事なくらい誰もいない。いや、いるんだけど半径一メートル以内には誰もいないってことだ。
まあ、ちょっと避けたくなる気持ちはわかるわ。だって見た目が怖いんだもん。
でも一緒になって避けられているわたしの存在ってなに?
そんなことを考えているうちに駅に着いてしまった。相変わらずわたしたちは無言のままで、揃って改札をくぐった。
どこまで一緒なんだろうか? さすがに最後くらいは挨拶をした方がいいわよね? なんて思いながらも、からだは勝手にいつものホームへと動いていた。
あっと、ヤバイ。挨拶しなきゃ。
そう思ったとき、ゴルゴがまだ隣を歩いているのに気づいた。
あ、あれ?
思わず顔を上げたわたしに、ゴルゴがさっと視線を向けた。
「電車も一緒みたいだな」
「……そ、そうなんですか」
そう言いつつ、内心はパニック状態だった。
えーっ、今まで知らなかったわよ。一緒の時間に帰ることもなかったし、ゴルゴの家なんて知らないもの。
案の定というか、ホームはすでに満員状態だったけれど、わたしとゴルゴのまわりだけはぽっかりと不自然なくらいスペースが空いていた。それは電車に乗ってもほぼ同じで、満員のせいか少しは狭くなったけど、それでも半径三十センチは確実に空いている。
今まで満員電車が苦痛で仕方がなかったけれど、この状態はそういう意味ではすこぶる快適だった。
何、この楽チンな感じは!?
隣に立つゴルゴをそっと見上げる。眉間に皺を寄せ、じっと窓の外を見ている顔は何かを狙っているみたいでやっぱり怖い。電車の中でもいつもこんな感じなんだろうか?
そう思ったとき、急ブレーキがかかったのか、ガタンと音を立てて電車が大きく揺れた。急な動きについていけず、弾みでつり革から離れた手がゴルゴの腕をとっさに掴んでしまう。その瞬間、まわりからお馴染みの息を呑むような音が聞こえた。
「す、すみませんっ」
離そうとしたけれど、揺れる電車の中では上手く体勢が立て直せなくて手が離せない。
「大丈夫か?」
低い声が頭の上から響く。そっとわたしの腕を掴んだ大きな手は思ったよりも優しくて。
「すみません」
見上げると、わたしを見下ろすゴルゴの顔があった。相変わらず何を思っているのかわからない表情。それでもわたしを支えてくれる手つきは優しかった。
電車の揺れが収まり、ようやくゴルゴから手を離せた。つり革を掴み直したとき、ゴルゴの手がすっと上がって、指先がわたしの頬に触れた。
「……っ」
触れられた瞬間、心臓が大きく鳴った。思わず飛び上がりそうになったわたしに、ゴルゴは触れていた指先を見せた。大きな手と長い指。初めてじっくりと見たゴルゴの手はとても綺麗で、その指先についていた黒い煤のような薄い汚れに違和感を覚えたほどだ。
ん? 黒い煤?
「あ……」
トナーだ。顔にまで飛んでいたとは。
いい大人のくせに、なんて恥ずかしい。
「……重ね重ねすみません」
「いや」
それからゴルゴが先に降りるまで、わたしたちはまた無言だった。
電車の窓ガラスには並んで立つふたりが映っている。大きなゴルゴと小さめなわたし。他人から見たらまるで接点が見つからないだろう。
なんだか捕まった宇宙人みたい。
まわりは相変わらず不自然なくらい人がいなくて、ふたりの姿が余計に際立っていた。
なんだろう。すごく不思議な感じがする。
今までわたしがゴルゴに感じていたのは恐怖と、それから尊敬だ。今はそれに少しだけ違う感情がまじってきた。
それが何なのか、今のわたしには上手く表現できない。
それにしても、これってお約束のシチュエーションだなぁ。こういう場面は今まで何度も妄想に出てきた。だって定番中の定番でしょ。
わたしの妄想の中の理想の相手は学生服の男の子で、もちろん委員長だ。でもちょっと不良っぽいのもいいかもなぁ。
偶然同じつり革に掴まって手が重なっちゃったとか、よろけた弾みで抱きついちゃうとか……
『大丈夫か?』
急な揺れに思わずよろけたわたしの腰に彼の腕がまわった。華奢に見えたその腕は思っていた以上に力強くて、ドキドキが止まらない。
『しばらくこうしてな』
そうつぶやいて、さらに引き寄せるように力が入れられ、抱きつくような格好になってしまう。
『は、恥ずかしいよ』
彼の胸に顔を埋めて、くぐもった声を上げるわたし。
『誰も気にしてねぇよ』
『わたしが気にするの』
『……じゃあ、おれのことだけ考えてろ』
その言葉と同時に頭のてっぺんに彼がキスをして、ほんわかとした熱が伝わってきた……
なんてっっ!
思わず赤くなった頬を両手で覆うと、窓ガラス越しにゴルゴとばっちり目が合ってしまった。
ヤバイ、また変な子だって思われたかも。
思わずへラッと笑ったら、さっと目を逸らされてしまった。
……ああ、やっぱり怪しい顔だったのかしら。
でも妄想だけは広がるけれど、学生時代は自転車通学だったし、男の子を間近で見たこともほとんどないので、今までこんな機会はまずなかった。
夢のシチュエーションにかなり近かった相手がゴルゴというのはちょっと……だけど、少しだけときめいてしまったのも事実だ。
あー、もしかしてわたしってゴルゴ相手でもかなり妄想できるのかもしれない……
自分の守備範囲の広さを思いがけず自覚した夜だった。
「じゃあ、ここで」
「はい、お疲れさまでした」
先にゴルゴが降りてドアが閉まった瞬間、車内から緊張感が消えたのを感じた。でも、わたしが一人になっても、ぽっかりと空いたスペースは埋まらなかった。
ゴルゴといるときは平気だったのに、今はまわりからどんな風に思われているのか……想像するだけでも恐ろしい。
自分の降りる駅に着き、ドアが開くなりダッシュで電車をあとにしたのだった。
6
目蓋が重くて目が開かない。
廃墟のような建物の一番奥まった部屋の隅に丸まり、寒さに震える。
孤独が心の底まで沁み込んでいる。
もう逃げている理由すら思い出せなかった。
なぜ? なぜ?
閉じた目から自然と涙がこぼれる。
そのとき、微かな気配を感じた。
追手だろうか。
逃げなければ……けれど、疲れきったからだはぴくりとも動かなかった。
懸命に耳を澄ますけれど、足音は聞こえない。
気のせいだろうか。
気を抜いた瞬間、眠りは急速に訪れた。
早く夢が見たい。
夢の中のわたしは幸福なままだ。
温かな家、テーブル一杯に並べられたご馳走。ふかふかのベッド。
そして、いつでも優しく抱きしめてくれる温かな腕。
夢うつつの中、温かな手が頬を撫でるのを感じた。
ずっとずっと忘れていた、この温かさ。
お願い……
なんだかなぁ。
朝の満員電車に揺られながら今朝の夢を思い出していた。
すでに舞台が日本じゃなくなってるような気がする。今の日本にあんな廃墟なんてないでしょ……多分。
夢の中のわたしはいったいどうなっていくんだろう。まったくもって先が読めない。
それに、最近少し内容が変わってきたような感じがする。最初はサスペンスとかホラーっぽかったのに、今朝のはなんというかファンタジーに近い。
ほら、昔の少年漫画の世紀末何とかみたいな。
まあゴルゴと一緒に帰ったこととこの夢とが関係あるのかはわからないけれど。
あれから数日が過ぎたけれど、ゴルゴとの関係に大きな変化はなかった。
ただわたしの中でゴルゴに対する印象が大きく変わったのは確かだ。怖くてドキッとするのは相変わらずだけど、目が合っても寿命が縮みそうになることはない。むしろ、その恐ろしさもちょっと楽しいと感じ始めていた。
電車が駅で止まり、また大勢の人が入ってきた。押しつぶされないように鞄を胸に抱え直し、足に力を入れて体勢を整える。
背の低いわたしにとって満員電車は本当に不快でしかない。ただでさえ見通しが悪いのに、さらに視界が狭くなる。おまけに隙間があまりないので息苦しいし。
この状態で本を読むことはすでに諦めていた。何度かやった結果、気分が悪くなっただけで夢にはまったく影響しないことがわかったし、周囲にとっては迷惑この上ない感じだったし。
こんなとき、ゴルゴがそばにいてくれたら……
ぽんと頭の中に浮かんできたその思いに自分でもびっくりした。
ああ、本当にすごい変化だ。やっぱり人間て慣れてくるものなのねぇ。
サポートが終わるまでずっとこんな感じだとやりやすいな、なんて思っていたそのときのわたしは、確かに少し浮かれていたのだ。
けれど、人生ってあんまり上手くはいかないものだと、後日痛感することになる。
特別暑いある日、朝一番で珍しく部長が企画部の全員を集めた。
いつもは陽気な部長なのにやけに神妙な顔をしている。そして、その隣には二十代後半くらいの場違いなくらい派手で綺麗な女性がにこやかに立っていた。
「えー、今日からしばらくの間、研修ということで来てもらうことになった上條瑠美さんだ。この仕事は慣れていないので、よろしく頼む」
「上條瑠美です。よろしくお願いします」
美女は一歩前に出ると、艶やかににっこりと微笑んだ。その仕草にまわりの男性たちが一斉にざわめく。
うわぁ。今、背後にバラが咲いたわ。しかもキラキラした効果音つきで。
「綺麗な人だねぇ」
バカみたいに口をぽかんと開けたわたしの隣では夏美が眉をひそめていた。
「……なんか、胡散臭いけどね」
「えー、なんで?」
「何となくよ」
きっぱりと言い切った夏美を見て、その自信はどこから出てくるのかしらと考えてしまう。わたしって結構単純なのかな。
ざわついてた声が静まると、部長はわたしたちの背後に目を向けた。
「東堂、忙しいところ悪いが、きみが彼女を指導してくれ」
「……はい」
ゴルゴよ、そこにいたのかっ! って勢いでわたしと夏美が飛び上がったのは、まあお約束だよね。
恐る恐る振り返ると、わたしたちの真後ろに立っていたゴルゴのその眉間にはいつも以上に皺が寄っていて、強面をさらに恐ろしくさせていた。一瞬でその場の気温が五度は下がったはずだ。
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