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真っ白な雪に、赤い血を一滴落としたような、白い肌とバラ色の唇。
物語に出てくる描写は美しいけれど、実際にそんな顔色をしていたら、ほとんどの人は病気かと思うだろう。
「なんだか、顔が青白いけど大丈夫ですか?」
初対面の人からそう言われることには、慣れすぎるくらいに慣れている。
「いえ、いたって健康ですので、お気になさらず」
笑みを浮かべて名刺を取り出し、相手の名刺と交換する。名刺を見た取引先の担当者は、顔を上げてまじまじとわたしの顔を見た。
その反応もまた、慣れたものだ。
「白崎、雪さん?」
「はい、芳野総合警備保障、システム課の白崎雪です」
にこりと笑って頭を下げる。表情には出さなくても、相手が頭の中でなにを思い浮かべたのか、容易に想像できた。
「へえ、本当に白雪姫だねえ。色白だし」
ほらね。初対面の相手とは、だいたいこんな感じになるのだ。
同席していた、同僚である営業担当者も苦笑している。
白崎雪、二十九歳。
真っ黒な髪に病的なほど白い肌。小さな頃から、あだ名は白雪姫。もちろん、それ以外はいたって平凡な容姿なので、お姫様感はまったくない。
なので、このあだ名はからかい半分でつけられたものだ。当然嬉しいはずがない。
ニヤニヤ笑う同僚を無視して、用意してきた資料を取り出す。打ち合わせ自体は順調だった。わたしは仕事はちゃんとやるから、こういう場でミスをすることは基本的にないのだ。
わたしが新卒で入社した業界最大手の警備会社、芳野総合警備保障。要人の警護から企業、個人のセキュリティーまで、幅広い業務を扱う。わたしはシステム課に所属していて、主に警備システムの構築の提案をする仕事をしている。
「それではこれでお願いします」
「ありがとうございます。では、すぐに見積書をお出しして、工事の日程の調整に入ります。よろしくお願いします」
満足げな顧客の様子に、営業担当者と顔を見合わせ、安堵の笑顔を交わす。どんなに自信がある提案でも、決まるまではドキドキするものだ。
「あー、決まってよかった。白崎さんお疲れさまでした」
「いえいえ。そちらこそお疲れさまでした」
まだこれからほかの営業先をまわるという同僚と別れ、一人で駅を目指して歩き出した。
三月に入って、少しずつ寒さが軽減している。今日は天気もいいせいか、ぽかぽかと暖かい。
「公園の中、通って帰ろ」
ひとりつぶやき、近くにある公園を目指す。道路沿いの歩道よりも、公園を歩くのが好きだ。都会の中にある大きな公園では、たくさんの人が思い思いに過ごしていた。
仕事中のサラリーマンはベンチで居眠りし、小さな子供たちは芝生の上を走っている。日中のこの時間帯は、犬の散歩をしている人も多い。
「可愛いなぁ。モフモフ」
ちょこちょこと歩く小型犬も、ゆっくりと歩く大型犬も、みんな可愛い。
ものすごく可愛いけど……
「ウウーーッ、ギャンギャンギャン!!」
「あらっ。急にどうしたの? ココちゃん」
小さなチワワが、わたしを見た瞬間牙をむいて吠えだした。
「すみません。いつも吠えないのに……」
「いえ、大丈夫ですから」
困惑気味にリードを引っ張る飼い主さんに笑顔を見せ、まだ牙をむいて唸っているチワワに視線を向ける。可愛いはずの小型犬が、まるでケルベロスのようだ。
逃げるようにそこを離れ、公園中を足早に進むも、近くの犬たちが次々と吠えたり、走り出したり……
わたしが白雪姫に程遠い理由は、ここにもあった。
壊滅的に動物に好かれない。
おとぎ話の白雪姫といえば、森の動物たちに愛されているイメージだ。有名なアニメ映画でも、彼女は小鳥やらリスやら小動物に囲まれている。
それなのに、白雪姫のあだ名をもっているにもかかわらず、わたしは動物に徹底的に嫌われている。犬に吠えられるのも、猫に引っかかれるのも日常茶飯事だ。
思い起こせば子どもの頃から、カラスにはつつかれ、鳥にはフンを落とされ……。動物園に行けば、みんな檻の隅に離れていき、わずかに残った子たちには唾やらなんやらを飛ばされる状況。
なまじ動物好きなので、余計に悲しみは大きい。
そんなふうに動物に好かれないわたしが人間にモテるはずもなく。二十九歳になった今まで、つきあった人はわずかに一人だけだ。大学時代に一度だけできた恋人は、卒業とともに自然消滅した。
恋愛に消極的なわけではないのに、出会いもないまま年月だけはどんどん過ぎる。
プライベートに潤いを――いや、恋人は最悪できなくてもいいけど、動物には好かれたい。ばかばかしいけど、結構切実な悩みだった。
でも、その悩みにも最近多少の変化がある。その変化をどう受け止めていいのか、わたしは今、考えあぐねているところだ。
そそくさと公園を後にして電車に飛び乗り、会社の最寄り駅で降りた。駅から少し歩くと、目の前に巨大なビルが現れる。芳野総合警備保障本社だ。
大きな正面玄関には、屈強なガードマンが常に待機している。昨年新社長に変わってから、社内の雰囲気も少しずつ変化してきていた。もちろん、いい方にだ。
セキュリティーチェックを受けて社内に入ると、広いロビーには大勢の人がいた。その間を縫うように、エレベーターホールに向かう。
「あ、白雪ちゃん。お疲れさま!」
突然よく通る声がホールに響き、まわりから視線が集まる。
「……お疲れさまです」
そんな視線などまったく目に入らないみたいに、その男性はわたしにまっすぐに近づいてくる。つい数か月前に他社からヘッドハンティングされてきた、営業一課の夏目祐斗さんだ。
わたしに起こったわずかな変化は、彼の存在によって起きていた。
夏目さんは、一言でいうと王子様みたいな人だ。パッと目を引く華やかな顔立ちは、どこのモデルかと思うほど整っている。百八十センチを超えるすらりとした長身で、髪は少し長めの茶色。それが少し軽い印象を与えるけれど、仕事ぶりは真面目で、そのギャップに萌える女性が続出している。
三十二歳独身、そして恋人もいないという噂。さらに花形部署である営業一課で早々にトップの成績となったことから、社内の女性たちから熱い視線を送られている。現に今も、ホールにいる女性の視線を一身に集めていた。
「今日は芦野建設に行ってきたんでしょ? その顔は上手くいった顔かな?」
わたしの目の前まで来た夏目さんが、楽しそうに笑う。
そして本当にイケメンで、キラキラ輝く王子様みたいな人だけど、なぜか地味の見本であるわたしに気さくに話しかけてくる奇特な人なのだ。
どうしてわたしの今日の訪問先を知っているのかなんて、きくのは愚問だ。だって夏目さんは、なんでも知っている。
「芦野建設って確か近くに大きい公園があったよね。帰りに寄ってきた? 白雪ちゃん、公園歩くの好きだよね?」
「……まあ」
そうですね、という言葉は呑み込む。
公園を歩くことは好きなことの一つだけど、それを夏目さんに言った記憶は一切ない。
夏目さんは、なぜかわたしのことをやけに知っている。お昼によく行くコンビニや、毎日飲んでるお茶の商品名とか、ほんの些細なことだけど。
「まだしばらくは通うんでしょ? あの近くに白雪ちゃんの好きなカフェがあるといいね」
夏目さんは言いたいことだけ言って、じゃあねと爽やかに去っていった。
颯爽と歩く後ろ姿を見送っていると、どこか面白がるような男性の声が聞こえた。
「あの分だと、明日にはおすすめのカフェ、教えてくれるんじゃないか?」
――そうかもしれない。いや、確実にそうなるだろう。
そこにいた全員がそう思ったに違いない。
わたしの周囲は、面白そうな顔をした男性たちと、まあと頬を染めて楽しそうにしている既婚者の女性たちと、憎らし気な視線を投げてくる若い女性たちに、見事に分かれていた。
「あんなにイケメンなのに、変な人もいるもんだねえ」
ぼそっとつぶやいたのは、お掃除のおばちゃんだ。
その言葉にも、きっと多くの人が心の中で頷いただろう。
わたしは、ふうと息を吐いて、また歩き出す。途端に時間の流れが戻ったみたいに、他の人たちも動き出した。
エレベーターホールに向かいながら、もう何度目かになる同じ疑問の答えを見つけようとする。でも、一向に出てこない。
夏目さんはわたしのストーカーだ。
いや、実際は違うのかもしれないけれど、そう言ってしまいたくなるのは事実だった。わたしのなにがあの人の琴線に引っかかったのかは今でも謎である。それでも、社内で一、二を争うイケメンが、よりにもよってわたしにだけああいう態度を取るのだ。
夏目さんとは、直接なにがあったわけでもない。そもそも部署が違うので、普通に会う機会などほぼない。たまたま用があって、営業部に顔を出したときが初対面だ。そのときに、初めましてと挨拶をした。ただそれだけ。
なのにそこから、お昼休みや移動中に出くわすことが増えた。よく行くコンビニやカフェでも、彼を見かけるようになる。そのたびに話しかけられ、最初はずっとびっくりしていた。けれど、会うと白雪ちゃんなんて気さくに呼ばれて、わたしもあまり悪い気はしなかった。むしろ、柄にもなくドキドキしたりしていたくらいだ。
もしわたしが人目を惹くほどの美女なら、夏目さんの行動を求愛行為と受け取ったかもしれない。けれど、いかんせんわたしは、見かけも性格も普通。白雪姫というあだ名が唯一の目立ち要素なくらいだ。華やかな夏目さんの対極にいるタイプ。なので、彼が話しかけてくるのはただの社交辞令だと思っていたのだ。
おかしいと思ったのは、いつだったか。
買おうと思っていた飲み物を、間違えて買っちゃったからと渡されたり。だれにも言っていないわたしのスケジュールを、夏目さんが知っていたり。
あれ? と思うことが積み重なって、そして今に至る。
夏目さんの不思議な行動には、だんだん慣れてきている。以前は、彼がみんなに対してそんな行動をとっているのかな、と思ってもいた。でもどうやら、彼のその行動は、わたしに対してだけみたいなのだ。
もしかしたら、本気でわたしのことが好きなのかしら? と一瞬考えたけど、自分のことは自分が一番よく知っている。
動物に好かれないわたしが、人間にモテるはずはないのだ。それに、夏目さん本人から、告白めいた言葉を言われたこともない。なので、わたしは、彼のこの行動は新手の嫌がらせか悪戯、からかいの類なのだろうと解釈している。
きっとこれまで彼の近くにいなかったタイプだから、面白がっているのだろう。
ということで、そのうち飽きるはずと、あえて無関心を装っている。けれど、この対応が合っているかは自分でも疑問だ。
そんなこんなで、妙にハイテンションな夏目さんと、無反応なわたし。そしてそれを面白がっている男性たちと、既婚女性たち。からかっているだけとはいえ、面白くないと思っている若い女性たち。そんな訳のわからない構図が出来上がっていた。
面白くないと思っている女性たちに、どうしてあなたなの? とこれまで何度か言われたけれど、その理由はわたしが一番知りたい。見た目地味なわたしは、当然ながら仕事もプライベートも地味なのだ。そんなわたしなのにどうして? なんて、わたし自身が思うくらいだから、他人が思うのはまあ当然のことだろう。
でも、夏目さん本人に直接きく勇気はわたしにも彼女たちにもなく、若い女性たちの歪んだ嫉妬ばかりが積み重なってきている。
普通の女の子なら、今のわたしの状態を喜ぶのだろうか。まったく知らない人とか、自分がよく思っていない人から頻繁に声をかけられたら、それはもう問題外というか、正真正銘のストーカー認定だろうけど、相手はあの夏目さんだ。
全女子社員から王子様と憧れられるような、特別な人。キラキラ笑顔の彼だから、ちょっと怖いことを言われても、一瞬嬉しくなりそうになるから恐ろしい。
王子様みたいなストーカーか……
からかい目的のストーキングをするなら、もっと可愛い女の子にすればいいのに。地味なわたしなんかよりその方が楽しいだろうし、もしかしたらその先に、恋愛面の素敵な展開があるかもしれない。いや、ストーカーに楽しさを求めてはいけないか。でも夏目さんだから、なんでもありな気もする。
見ているだけなら目の保養になるくらいイケメンなのに。ターゲットにわたしを選んじゃうあたり、やっぱりちょっと残念な人なのかもしれない。でも顔がいいと、変なことをしてもその変態性は薄まるもんなんだなと、なぜか納得してしまった。
偽物の白雪姫と、ストーカー王子か……。まあ、人生うまくはいかないものね。
ようやくエレベーターに乗り込み、システム課のある十階のボタンを押した。扉が閉まり、ホッと息を吐く。ぼんやりと操作パネルを眺めていたら、三階で止まった。
扉が開いたので壁際に下がる。視線を上げると、平凡な顔をした男性が乗り込んできた。わたしの変化の原因その二の登場だ。
「あら、鈴木さん」
「やあ白崎さん。お疲れさま」
鈴木さんは、夏目さんと同じ営業一課の人だ。
わたしが言うのもどうかと思うけど、鈴木さんはびっくりするほど平凡な人だ。あまりにも普通過ぎて印象に残らないという、ある種営業には不向きな人。一度、一緒に仕事をしたことがあって以来、なにかと話す機会は多い。いや、むしろ一番よく話す人と言ってもいいかもしれない。
鈴木さんが営業一課のある九階のボタンを押し、また扉が閉まる。
「白崎さんって、今仕事に余裕ある?」
こちらを見ずに、鈴木さんが話しかけてきた。
「え?」
「いや、今自分が営業かけてるとこ、白崎さんにシステム組んでもらえないかと思って」
「すみません。自分では選べないんです」
基本、営業から来た依頼を振り分けるのは、上司の采配なのだ。
「そう……、白崎さんとまた一緒に仕事したかったんだけど」
鈴木さんはつぶやくようにそう言い、黙り込んだ。見かけは普通だけど、どこか闇を纏っているような人でもある。
なんだか、ものすごく気まずい……
気まずいままエレベーターは九階で止まり、鈴木さんがそそくさと降りていった。
考えようによっては、近頃、自分史上最大のモテ期が来ているような気もする。けれど、相手がからかい半分のプチストーカーとダークノーマルというあたりで、テンションはまったく上がらない。
おこがましいかもしれないけど、どうせ好かれるなら動物に好かれたい。
「はー……」
またため息をつき、エレベーターのボタンを押した。閉じたドアの内側はピカピカで、自分の姿が映る。身長百五十六センチ、体重……いわゆる中肉中背で、おしゃれの欠片もないビジネススーツ姿。肩を越える黒い髪はひとつにまとめ、仕事のときはナチュラルメイクだ。ナチュラルメイクなんていえば聞こえはいいけど、実際のところは化粧映えしないから、きちんとメイクをする意味がないだけ。顔は、とにかく地味だと思う。
こんなわたしに、多少なりとも言い寄ってくれる人がいるということは、もっと喜ぶべきなのだろうか。
……いや、無理でしょ。
夏目さんからはからかわれているだけだし、どこか不穏な鈴木さんは問題外だ。
白雪姫なんて呼ばれても、わたしは普通。普通も普通。だから、贅沢は言わない。本当にまともで普通な人と出会いたい。
エレベーターのドアに向かって、何度目かのため息をついた。
2
四月を一週間後に控えたある日、社内の異動が発表された。前社長の甥にあたり、スイス人の血を引く新社長はなかなかのやり手と評判で、彼が社長になってから、抜本的な異動が度々行われている。
出社早々、玄関ホールの掲示板の前に人だかりができていた。女性たちの黄色い声が響き渡っている。声の主を見ると、わたしの所属するシステム課の女子社員たちだった。その顔はやけに嬉しそう。異動の発表でこんな表情をすることがあるんだろうか。
興味を覚え、人だかりが少なくなったタイミングを見計らって掲示板の前まで行った。
内示と書かれた紙には、大勢の名前が書かれている。今回の異動はかなり大がかりなようだ。
一番上から順番に目で追っていくと、ある名前に目が留まった。
営業一課 夏目祐斗。
「あら、夏目さんが異動?」
思わずつぶやき、さらに視線を走らせる。
営業一課 夏目佑斗 四月一日付でシステム営業部(システム課内に新設)異動。
「えっ……」
夏目さんがうちに異動?
だから彼女たちから嬉しい悲鳴があがっていたのか。
でも、あの夏目さんと同じ部署……。これまであまり顔を合わせる機会がなかったから、プチストーカー疑惑があってもそれほど気にならなかったけど、四月からは毎日嫌でも会うことになるのだ。一体どうなってしまうのだろう。
そりゃ夏目さんは目の保養になるくらい美形で、見る分には申し分ない。けれどそんな彼に、朝から晩までずーっと観察されるとしたら、それはちょっと困ってしまう。
いや、ここはむしろ逆手に取って、わたしが夏目さんを観察してみようか。そしたら、夏目さんの行動の謎も解けるかもしれない。
……ストーカーをストーカー、なんだか空しすぎる。
考えるだけで疲れてしまった。また人が集まりだしたので、入れ替わるように後ろに下がった。
なんだかすっきりとしないまま仕事をこなし、終業時間を迎える。ここ一年、残業はめったにない。仕事の徹底的な効率化を図り、過度な残業を廃止したのは新社長の功績の一つだ。
「お疲れさまでしたー」
だれにともなく挨拶して、会社を出る。今日は一度も夏目さんに会っていない。いや、そう思っているのはわたしだけで、彼の視界の中にはわたしが入っているかもしれないが。
思わず後ろを振り返ったり、キョロキョロ辺りを見まわした。まったく、これじゃあわたしの方が挙動不審だ。
「あー、やだやだ」
自分自身に嫌気がさしながら、駅に向かった。
まだ夜の早い時間なので、駅には大勢の人がいる。混んだ電車に乗り、最寄り駅の一つ手前で降りた。まだまだにぎわっている駅前商店街を歩き、アーケードの一番端にあるペットショップの前で足を止める。
中からくぐもった鳴き声がいくつも聞こえてきた。これはいつものこと。歓迎されているのなら嬉しいけど、たぶん威嚇だ。
closeのプレートがかかっている扉に手をかけると、鍵のかかっていないドアは簡単に開いた。途端、大量の鳴き声が聞こえる。
「こんばんはー」
鳴き声に負けないくらいの声を上げ、ささっと中に入ってすぐに扉を閉める。五坪ほどの店内には、十匹の子犬と五匹の子猫がいて、みんながわたしの方を向いて一斉に吠えていた。ちなみに子猫は、毛を逆立ててシャーシャー言っている。
「あんた、営業中には来ないでよ」
眉間にしわを寄せて店の奥から出てきたのは、この店の店長で、わたしの学生時代からの友人でもある菅原晴香だ。
「なんでよ」
「完全な営業妨害よ。かわいい子たちがみんな悪魔みたいな顔になるじゃない」
晴香はそう言い、ケージの中の牙をむく子犬たちに視線を投げた。歯をむき出して吠える子犬たちは、やっぱりケルベロスみたいに見えなくもない。
「仕方ないじゃない。不可抗力よ」
開き直って近寄れば、子犬たちは吠えるのをやめて、後ずさりを始めた。
「雪。あんた、なにかに取り憑かれてんじゃないの?」
「まさか」
反射的に言ったけれど、否定はできない。いや、むしろ取り憑いていてほしいくらいだ。それなら、この現象をそいつのせいにできる。これが自分自身の問題なら、ほんと泣くしかない。
「あれ? この子見たことないね」
気を取り直してケージに向き直り、隅っこでぶるぶる震えている、一番小さなチワワに目を留めた。
「ああ、今日入った子よ。抱っこする?」
「する!」
晴香がケージを開け、片手に収まるくらい小さなからだを抱き上げる。白と茶色のまじった大きな目のチワワが、震える目でわたしを見ていた。
「か、可愛いっ」
晴香から受け取った子犬を優しく受け取り、きゅっと胸に引き寄せる。チワワはそれはもう盛大に震えながら、わたしの手にかみついた。がぶがぶと。
「痛い、でもそんなに痛くないっ」
これが成犬なら流血ものだけど、これくらいの子犬ならまだ大丈夫。思う存分子犬の感触を楽しんでいるわたしを、晴香が冷たい目で見つめている。
「あんた、立派な変態よ」
「なんとでも言って。ああ、可愛いなー。やっぱり犬飼いたい」
「無理無理。雪には金魚がいるでしょ」
「そうだけど、金魚は抱っこできないじゃない」
名残惜しく思いながらチワワをケージに戻し、閉店準備をする晴香を手伝う。
これは、子犬たちを触らせてもらう交換条件みたいなものだ。
本来はわたしもこういう仕事がしたかった。でも、動物のためにもやめなさいと家族や晴香に言われ、渋々あきらめて今の仕事をしている。昔からわたしと同じく動物好きで、けれどわたしとは違って普通に動物に好かれている晴香がペットショップを始めたときは、自分のことのように喜んだものだ。
子犬にかまれ、猫に引っかかれながらケージの掃除をする。手が傷だらけになっても、やっぱり可愛い。
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