白雪姫の悩める日常

桜木小鳥

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1巻

1-2

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「さて、ご飯食べに行こうか」

 片付け終えた晴香が言った。

「そうね。お腹空いたわ」

 子犬たちにバイバイして、晴香と一緒に商店街の中にある居酒屋に入った。
 食べ物を頼み、ビールで乾杯する。

「今日もお疲れ」
「お疲れさまー」

 晴香がジョッキに注がれたビールを一気飲みした。

「ぷはーっ。やっぱ仕事終わりのビールはうまいっ」

 さすがに一気飲みはできないわたしは、半分ほど飲んだところでジョッキを置いた。すかさずおかわりを頼んだ晴香に便乗して、自分の分も追加する。
 わたしも晴香もお酒にはめっぽう強い。いわゆるザルというやつだ。顔色も変わらなければ、酔いがまわることもない。
 サラダにだし巻き卵、焼き鳥、からあげ。あっという間にテーブルの上がいっぱいになる。
 お腹を満たすべく、まずは運ばれてきたキムチチャーハンを小皿によそって食べた。

「あんた、自分の仕事の方はどうなの?」

 焼き鳥のくしを片手に、晴香が言う。

「どうって、ボチボチやってるわよ。新規の顧客もうまくっているし」
「あれは? ほら、夏目さん」
「夏目さんねぇ……」

 夏目さんのことは、以前から晴香に話していた。最初にそれってストーカーじゃないの? って面白おかしく言ったのは晴香だ。

「四月から同じ部署になりそう」
「えっ、マジで?」
「マジで」

 大きく目を見開いた晴香にうなずく。

「チャンスじゃない。もう思い切ってつきあっちゃいなよ」
「なんでそうなるのよ!?」
「ここまできたら、もう星のめぐりあわせじゃない。イケメンで背も高くて、仕事もできる男なんでしょ? 今どき、そんなスペックの高いフリーな男なんていないよ?」
「なに言ってるの?」
「多少のストーカー行為には目をつぶりなさいよ、実害はないんだし」
「いやいや。わたしのことをどう思ってるのかもわからないのよ。というか、絶対からかってるだけだと思うし」
「からかうにしては手間がかかってるわよ。嫌われてはいないんでしょ? だいたい、嫌いならまず話しかけもしないし、ストーカーじみたこともしないわよ。思い切ってアタックしてみなさいよ。それに、ここいらで妥協しないと、あんたももう三十になるのよ。もっと頑張らないと」
「晴香だって同い年じゃない」
「わたしはいいのよ。彼氏だってちゃんといるんだから。雪みたいに枯れてないし」
「か、枯れてって、ひどいじゃない」
「本当のことでしょ。仕事を張り切るのもいいけど、せっかくのチャンスは逃さない方がいいわよ」

 晴香が楽しそうに笑う。とても本気で心配しているようには思えない。夏目さんのことを話したときから、晴香は面白がっているのだ。

「そんなチャンスなんていらないわよ」

 どうせなら、動物に触れるチャンスがほしい。ふんと顔をそむけると、晴香がまた笑った。

「わかった。ストーカーって思うから嫌なのよ。ここはもう、『やけに雪に詳しい人』に変えよう」
「……ばかにしてるでしょ」
「してないって。言葉のイメージの問題よ」
「絶対してる」

 散々晴香に遊ばれながら、ビールジョッキを九杯ずつ空け、料理もすべてお腹に収まったところで店を出た。自分の店舗の二階に住んでいる晴香と別れ、食後の運動がてら一駅分を歩いて、自分のマンションに帰る。
 三階建ての建物には全部で十二部屋あって、わたしは二階の角部屋だ。1DKの単身向けのこの部屋が、わたしのお城ともいえる。

「ただいまー」

 玄関を入るとすぐに、四畳半のダイニングキッチンがある。キッチンの真ん中に置いてあるダイニングテーブルに鞄を置いて、奥の八畳の部屋に行った。そこにはベッドと本棚、それと水槽が置いてある。

「ただいま、みんな。おまたせ、ご飯にしようね」

 水槽には真っ赤な金魚が七匹泳いでいた。昔、お祭りの縁日で晴香が釣って、わたしにくれたものだ。まあ、押しつけられたと言わなくもない。
 一生懸命お世話をしたからか、みんな結構大きくなった。
 それでも、わたしが近づくとささっと水草の陰に隠れてしまう。わたしは魚にも人気がない。
 でも、えさ箱からえさをつまみ、水槽の上から入れると、七匹がゆっくりと上がってきた。まあ、渋々といったところだけど。

「おいしい? むっちゃん」

 一番手前に来た子に話しかけると、ふいと奥に行ってしまった。
 ちなみに、七匹には名前がある。いっちゃん、にーちゃん、さんちゃん、しーちゃん、ごーちゃん、むっちゃん、ななちゃんだ。もちろん、見分けられてなどいない。適当だ。
 金魚たちはパクパクと口を開け、えさたいらげていく。

「おかわりだよー」

 もうひとつまみえさを入れ、水槽の前で頬杖をついた。

「ねーみんな。わたしって枯れてる? そんなことないよね?」

 問いかけたところで金魚たちが答えるわけもなく、ひたすらえさむさぼっている。

「別に恋人がいらないわけじゃないのよ。ただ、出会いがないだけ。自分の年齢だってちゃんとわかってるし。それに今どき、三十歳で独身なんてざらにいるじゃない、ねえ?」

 金魚たちに話しかけるようになったのは、いつからだろうか。当然金魚からの答えはないけれど、わたしはこうしてほぼ毎日話しかけている。
 もちろん、こんなことはだれにも内緒だ。晴香にすら言ってない。本当におかしくなったと言われるのがオチだろう。

「晴香に妥協しろって言われたけどさー。そりゃ夏目さんは、世間一般からすれば素敵な人だとは思うよ。でも、どこまで本気なのか、さっぱりわからないんだもん」

 えさを食べ終えたいっちゃんたちは、また水草の後ろに隠れてしまった。

「でももっと素直に喜んだ方がいいのかしら。他の女の子みたいに、あの夏目さんに話しかけられちゃった♪ みたいな……。いや、無理よ。わたしそんなキャラじゃないもの」

 そこまでして、夏目さんとどうこうなりたいとか、恋人がほしいとか思っているわけでもない。

「なにを頑張ったらいいんだろうね? 自分がどうなりたいかもわからないのに」

 金魚たちから目をそらすと、お化粧用の鏡に映った自分が見えた。
 あんなにお酒を飲んだのに、青白い顔は変わらない。口紅の赤がまるで血のようにも見える。
 とりわけて不細工ではないけれど、綺麗きれいということもない、普通の顔。

えない白雪姫……」

 わたしが白雪なんてあだ名で呼ばれていることをよく思わない人たちが、陰で言っている台詞せりふだ。

「とりあえず、もっと頑張ろうか、雪」

 なにを頑張るのかまだわからないけれど、とりあえず前向きに。
 まるで鏡に向かって問いかける魔女のように、わたしはそうつぶやいた。



   3


 四月一日。大幅な人事異動で社内が慌ただしい中、新入社員のための入社式の日を迎えた。とはいえ、わたしにはあまり関係がない。
 いつものように出社して、エレベーターで十階に上がる。扉が開いた瞬間、目の前に棚があった。

「あ、悪い、ちょっと待って」

 男性社員が二人がかりで棚を持ち上げ、えっちらおっちら運んでいた。

「だ、大丈夫ですか?」

 思わず声をかける。

「うん、あとこれだけだから」

 二人はふらふらとした足取りで、通路の奥へ向かっている。よく見れば、あちこちに段ボールや机、椅子といった事務用品が置かれていた。どうやら、異動してきた人たちが早朝から引っ越し作業をしているようだ。
 それらを見ながらシステム課のドアを開けると、パーテーションの位置が代わっていた。システム課は、昨日より倍ほどの広さになっている。まだ場所が定まっていない荷物が脇にたくさん置かれていて、これは、片付けだけで数日かかりそうだ。
 荷物をよけつつ、自分の席に向かう。多少配置が代わっていたけれど、わたしの席はほぼそのままの場所にあった。
 机の上に鞄を置いたそのとき――

「おはよ、白雪ちゃん」

 聞き覚えのある明るい声に、思わずからだが固まる。声がした方にギギギと頭を動かすと、わたしの隣の席に夏目さんが座っていた。

「な、夏目さんっ」

 どうして? と口に出す前に、夏目さんがシステム課に異動になっていたことを思い出した。

「お、おはようございます」

 なんとか挨拶あいさつの言葉を絞り出すと、夏目さんがにっこりと笑った。

「嬉しいな。これから毎日白雪ちゃんの隣で、仕事ができるなんて。今日からよろしくね」
「……は、はあ。よろしくお願いします」

 喜んでいいのか、驚いたらいいのか、自分でもわからない。
 にっこりと笑った夏目さんはキラキラと輝いていて、びっくりするほどイケメンだった。まぶしすぎる笑顔に、まともに目を向けることもできない。
 ああ、もうっ。まじでイケメン過ぎるのよ。ストーカーなのに、こんなにリアル王子様だなんて。
 もっと頑張ろうとか言ったけど、どの方向に頑張ればいいのか、ますますわからなくなる。
 軽いめまいを覚えながら席に座り、ちらりと隣を見ると、夏目さんの机のまわりにも段ボール箱がたくさんあった。机の上にも荷物があり、夏目さんがせっせと片付けている。まわりを見渡してみても、みんながそれぞれ片付けをしているようだ。

「て、手伝いましょうか?」

 一人いたたまれなくなったわたしは、多分初めて自分から夏目さんに声をかけた。

「ほんとに? 助かるよ。ありがとう」

 夏目さんがまた綺麗きれいな笑顔を見せた。思わずドキッとする表情。なんかもう、流されてもいいんじゃないかとか思ってしまう。
 でも、お手伝いにと開けた夏目さんの段ボール箱の中に見慣れたペンを見た瞬間、そんな思いはシュルシュルと消えた。
 それは一本の黒いボールペン。会社からの支給品で、どこにでもあるありふれたものだけど、軸にまかれた猫柄のマスキングテープは、わたしが目印にと貼ったものだ。
 同じボールペンを何本ももっているから、くしたことに気づかなかった。まさか夏目さんがもっていたとは……。どうしよう、きいた方がいいのだろうか。でも、なんだかいろいろ怖い。
 結局わたしは、片付けるふりをしながら、そのボールペンをこっそり自分の机の中に戻した。
 その後も、なにが出てくるのかと恐る恐る箱を開けていったけど、結局あのボールペン以外に怪しいものは出てこなかった。

「ありがとう。助かったよ」

 三十分ほどかけて、片付けは終わった。夏目さんの席まわりはだいぶすっきりとして、たくさんあった荷物もきっちりと収まっている。元々几帳面なタイプのようだ。

「いえ、どういたしまして」
「お礼に今度ごちそうするよ」
「お、お気持ちだけで十分です」

 これ以上お近づきになるのはちょっと、いやかなり怖い。ふるふると首を振ったそのとき――

「えーーっ、もう片付け終わっちゃったんですか?」

 そばで大きな声が聞こえた。パッと振り向くと、派手な顔立ちの美人が立っている。わたしと同じシステム課の先輩、秋庭亮子あきばりょうこさんだ。秋庭さんは以前から夏目さんのファンであることを公言していて、今回の彼の異動を最も喜んでいたのも彼女だった。

「せっかくお手伝いしようと思ってたのに」

 秋庭さんは残念そうに赤い唇を尖らせ、夏目さんに詰め寄る。

「ああ、ありがとう。白雪ちゃんが手伝ってくれたらから、早く終わったんだ」

 ね、とわたしに笑いかけるけど、そういうの、まじでやめてほしい。
 ほら、秋庭さんが般若はんにゃのような顔になったじゃない。

「と、隣の席なので」

 言い訳を述べようとしたけれど、隣という言葉に、秋庭さんの頬がさらにぴくりと動いた。

「随分、仲良しですね」

 言葉の端々からとげが出ているのがわかるくらいだ。それなのに、夏目さんは能天気に笑う。

「そう見えるなら光栄だね。ね?」

 だからそれ、本当にやめて。
 秋庭さんは夏目さんの大ファンなのよ。
 わたしは今まで本当に地味に生きてきた。それこそ、そこにいるのかいないのか、わからないくらい地味に。なのに夏目さんのせいである種有名人になってしまったことは、本当に不本意だ。
 秋庭さんは美人で華やかで、いつもおしゃれな女の子たちの中心にいる。つまりわたしとは正反対だ。だから、何年も同じ部署にいるのに、こうして秋庭さんとばっちり顔を合わせたのも初めてだと思う。
 そういう集団が昔から苦手だったこともあり、極力お近づきになりたくないと思っていたから、今までもあえて顔を見ないようにしてきたのに。夏目さんのせいで台無しだ。
 秋庭さんがわたしを品定めするみたいにじっと見ている。それこそ、足の先から頭のてっぺんまで、視線を走らせているのがわかる。
 そしてまじまじとわたしの顔を見つめて……フンと鼻を鳴らした。
 あ、ばかにされた。多分、きっと。

「これからは同じ部署だし、わからないことはなんでもわたしにきいてくださいね、夏目さん」
「ありがとう」

 秋庭さんは夏目さんにとびきりの笑顔を見せ、最後にわたしをジロッとにらみつけると、自分の席へと戻っていった。
 ああ、絶対敵認定された。
 これでもし意地悪とかされたら、間違いなく夏目さんのせいだからねっ。
 心の中で悪態をついていると、まただれかが近くに来た気配がした。パッと目を向けると、鈴木さんがぼうっと立っている。

「す、鈴木さん。おはようございます」
「おはよう、白崎さん。今日からここに異動になったんだ。よろしくね」
「え、そうなんですか? こちらこそよろしくお願いします」

 鈴木さんはうなずくと、ふらーっと離れていった。
 鈴木さんも異動なんだ。内示に名前あったっけ?
 あんなにまじまじと見たはずなのに、記憶がない。夏目さんのインパクトが強すぎて、気がつかなかったのかもしれない。
 申し訳ないなと思いつつも、微妙な気持ちだ。

「随分、仲がよさそうだね」

 ため息の一つでも出そうになったとき、隣から声が聞こえた。見ると、夏目さんが目を細めてこっちを見ている。さっきの秋庭さんとおんなじ台詞せりふに内心驚いた。

「え?」
「鈴木とは知り合いなの?」
「知り合いと言うか、一度一緒にお仕事をさせてもらったくらいで……」
「一回でそんなに仲良くなる?」
「……仲良さそうに見えます?」

 挨拶あいさつだけなのに?

「僕にはね」
「そうですか……」
「こんなことになってるなら、もっと早く異動しておけばよかった」
「は?」
「まあいいや、挽回ばんかい挽回ばんかい

 夏目さんは一人納得したように、うんうんとうなずいた。
 ……なんか、まためまいがしてきそうだ。
 結局、部署内が落ち着いたのはお昼近くだった。多少の荷物は残っているけれど、大部分が片付いたと言えるだろう。そのタイミングで、部長がみんなを集めた。

「朝からご苦労様。今日から営業一課の一部とシステム課が合併することになりました。今後は、営業とシステムとでペアを組んで仕事をしてもらいます。ペアについてはこちらで検討しました。各自、書類を見て確認してください」

 部長がそう言い、全員に紙が配られた。今回の異動を受けて改めて作られた名簿だ。二枚目には、さっき部長が言ったペアの割り振りが書かれていた。
 わたしはだれとだろうと、一番上から順番に見ていく。

「白雪ちゃん、一緒だね!」

 すぐ後ろから声がした。驚いてちょっと飛び上がりそうになる。そんなわたしの様子を気にせず、夏目さんは後ろから、わたしがもっている紙を指さした。

「ほら、ここ見て」

 あら、夏目さんって指も長くて綺麗きれい……って、じゃなくて!
 異常にからだが近いのを気にしつつ、夏目さんが指さした先を見ると、そこには「営業、夏目祐斗、システム、白崎雪」と書かれていた。
 まさかこんなことが……

「またまたよろしくね、白雪ちゃん」
「よ、よろしくお願いします」
「じゃあ早速打ち合わせしちゃおうか。会議室借りまーす」

 夏目さんはだれにともなくそう言うと、わたしの腕を取って、会議スペースの一室に向かった。
 途中、秋庭さんにめちゃくちゃにらまれ、鈴木さんには驚いた顔をされたけれど、わたしのせいじゃないから。
 会議スペースには、パーテーションで区切られた小会議室がいくつもある。それぞれの中は、テーブル一つに椅子が四脚ととてもコンパクトだ。
 そんな狭いスペースに、ストーカー、いや夏目さんと二人きりなんて。

「さ、座って白雪ちゃん」

 夏目さんがにこにこと椅子をすすめる。とりあえず入り口に一番近い椅子に腰かけると、夏目さんが隣に座った。
 えっ、前じゃなくて横? 普通隣に座る? 打ち合わせなら前でしょ、向かい合わせでしょ?
 軽く頭の中がパニックになる。それも当然だ。
 ここは事務机の隣同士とはまた違う、さらに近い距離感なのだ。
 そんな間近で見る夏目さんは、やっぱりイケメンだった。軽くウェーブのある茶色い髪は柔らかそうで、思わず手を伸ばしたくなる。
 あらいやだ。そんなことしたら、わたしの方が変態だ。
 わたしの内心にお構いなく、夏目さんはもってきたファイルから書類の束を取り出した。

「今度ね、ここに営業に行こうと思ってるんだ」

 夏目さんが示す書類には、現在建設中の商業ビルの名前があった。

「店舗と居住区に分かれていて、一日の集客数もかなりなものになるらしい。ここを取れれば、大きいと思うんだよね」

 生き生きと語る夏目さん。意外にも普通に仕事の話をしている。
 いや、もう本当にごめんなさい。てっきりなにかされちゃうかと……
 すぐに頭の中を切り替え、渡された書類を真剣に見つめる。

「先方に伺うのはいつですか?」
「アポは来週の金曜日に取ってる」
「では、それまでにシステムの提案を考えればいいわけですね」
「うん。大丈夫そう?」
「提案だけなら、問題ありません」

 まだ具体的な設計図もないので、細かいシステムまでは考えられない。逆に、自由になんでも提案できるという意味だから、そう難しくはないけれど。

「さすがは白雪ちゃん。頼もしいな」

 夏目さんは笑いながら、次の書類を渡した。

「これはね、僕が最初に営業にまわった会社。そのときのシステムに最近不具合があって、全面的にやり直したいと思ってるんだ」
「なるほど」
「ここは今日の午後に行くから、一緒に行って見てくれる?」
「わかりました。ではそれまでに設計図見直しますね」
「よろしく。全部の資料はここにまとめておいたから、目を通しておいて。他にもあるんだけど、この二件が急ぎなんだ。あ、それから、この辺の資料とか営業内容は、上司以外には他言無用たごんむようだよ」
「わかりました」

 会議室から出て自分の席へと戻る。当然、隣なので夏目さんも一緒だ。じゃあ最初からここでやれば……とも思うけれど、セキュリティー関連のものは同じ会社内であっても基本的には担当者以外秘密なのだ。

「ちょっと営業部に、忘れ物取ってくるね」
「あ、はい。どうぞ」

 夏目さんが席を立って出ていった。その間に、受け取った書類に目を通す。それは結構な量で、ぱらっと見ただけでもかなり細かいけど、わたしのために作られたであろう資料はとてもわかりやすかった。
 さすがは他社からヘッドハンティングされてきただけの人だ。営業部でトップになったのもうなずける。
 彼の仕事面はほとんど知らなかったから完全に変な人扱いしていたけど、これは見直すべきよね。やっぱりストーカーっていうのも、言い過ぎかもしれない。
 ああ、なんか自分が恥ずかしいわ。
 気を取り直して資料を読み込む。しばらくしたところで、夏目さんが戻ってきた。その表情がなんだか曇っている。

「忘れ物、ありましたか?」
「いや、なかった。どこに行ったんだろう……」

 しょんぼりしている夏目さんなんて初めて見た。こんな顔することもあるんだ……

「なにがないんですか? 探しましょうか?」
「ペンなんだ、ただの黒いボールペン。大事にしてたのに」
「……ペン?」

 もしかして、猫のマスキングテープの? とは怖くてきけない。思わず机の引き出しを手で押さえてしまった。

「よ、よかったらわたしのをお貸ししましょうか? たくさんもってますから」

 ちょっとの動揺を覚えつつも、このまま放ってはおけなくて、引き出しを開けて同じようにマスキングテープがまかれたペンを夏目さんに渡した。それは偶然にも、さっき夏目さんの荷物から回収したペンだった。

「え、いいの?」

 夏目さんの表情がパッと明るくなる。

「ええ、まあ」
「助かるよ。これで……しなくてもいいし」

 え? 今ちょっとなにか言ったよね? 聞き取れなかったけど。
 でもわたし、バカなの? せっかく取り戻したペンを返してどうするのよ。いや、黙ってもっていかれるよりはましか。
 もはや自分の思考回路が正常かどうか、わからなくなっている。
 そんな葛藤かっとうも知らず、夏目さんはわたしから受け取ったペンをご機嫌でスーツのポケットに差した。
 微妙な気持ちのまま、午後に夏目さんと顧客先に出かける。出かける間際、秋庭さんにすごい目でにらまれた。
 ちなみに秋庭さんがペアになったのは、あの鈴木さんだった。ゴージャスと平凡。男女が逆だけど、わたしたちと同じような組み合わせだ。
 絶対嫌がらせとかされそう。会社に戻ってくるのが怖い……

「白雪ちゃん、こっちこっち」

 気もそぞろに正面玄関に向かおうとしていたわたしを、夏目さんが引き留めた。

「今日は車で行くから」

 夏目さんはそう言うと、会社の地下にある駐車場に向かう。そしてたくさん停まっている車の中から一台の軽自動車を指差した。

「さあ乗って」
「はい」

 返事はしたものの、実際に乗り込むことには躊躇ちゅうちょしてしまう。もしかして、このままどこかに連れていかれる……なんてことはないよね?

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