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第一章
9 あなたと2人きり
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王立宮廷楽団の奏でるワルツが風に乗って流れて来る。
この曲は、かつて波乱万丈な人生を歩んだ異国の音楽家が作曲したものだそうだ。煌々とした明かりが灯る大広間と違い、静かな月明かりの下で聞くそれはどこか寂しさを感じさせた。
色とりどりのドレスを纏った貴婦人も、彼女たちをさらに輝かせるシャンデリアも、年代物の重厚な楽器を揃えた楽団も見当たらないからだろうか。物言わぬ薔薇の花に囲まれ、ただ2人きりで過ごす最後の時。
今、この瞬間だけは誰にも邪魔されない閉じられた世界だった。
どちらともなく動き始めた2人は、耳をすませ、ゆったりと足を動かす。
ミアの足に負担がかからないようにと、彼はさりげなく体を支え、穏やかな動きでリードしてくれる。
舞踏会で相手になった男性達とは大違いだった。彼らは周囲に見せつけるように派手な動きを求め、複雑な足さばきを要求し、それについていくだけでミアは疲れ切ってしまったのだ。
「大丈夫? 足は痛くない?」
「えぇ……これならずっとでも踊っていられそう」
舞踏会では履いてきたことを後悔した高い靴も、今、初めてその存在に感謝した。この靴があるから、小柄で背の低いミアでも彼と無理なく踊ることができる。
ただ、そうは言っても背の高い彼との身長差は相当なもので、ターンをする時などふわりふわりと持ち上げられてしまったのだが。
「君は軽いな。もっと食べた方がいいんじゃないか?」
彼の青い瞳にいたずらっぽい微笑みが浮かび、ミアは小さく口を尖らせた。
「うそ。私に太れって言いたいの? とっても失礼だわ」
ミアは肥満体ではないが、一部の行き過ぎた食事制限をしている御婦人方のような痩せぎすでもない。
だが年頃の女の子なのだから少しでも細くありたいと思うのは当然で、いつも体型には気を遣っている。それを簡単に『太れ』なんて言われたのでは、少しくらいチクリと言ってやりたくなる。
「いや、本当に軽い。これじゃ私が帰って来る前に消えてなくなってしまいそうだ」
「……え」
彼の言葉に、ミアの足がほんの一瞬だけ止まる。
その一瞬でリズムに乱れが出てしまい、危うく転びかけたところを彼に助けられた。
「大丈夫?」
「ええ……ごめんなさい」
今、彼は“帰って来る”と言った。
だから大丈夫。
彼と過ごす時間はこれで最後じゃない。
またいつか、きっと会えるはず。
ミアは彼にそっと身を委ねる。
緩やかなテンポで芝生を踏み、何度も練習したターンをしながら、ダンスの家庭教師が言っていた言葉を思い出していた。
『ダンスとは、ただ決まったステップとターンを繰り返せば良いというものではないのです。小手先のテクニックなど全く意味がありません。音楽の流れに自然に乗り、信頼出来る男性のリードに任せてごらんなさい。そうすれば音楽とひとつになれるのですよ』
その通りだと思った。
今まで自宅で練習をしていても、舞踏会で知らない男性と踊っていても、ミアの頭はいつも次の動きでいっぱいだった。間違って相手の足を踏まないように。ステップのタイミングがズレないように。
上手だと褒められても、いつもそんな事ばかり考えていたと思う。
だけど彼とのダンスは違う。
頭で考える前に足が自然に動いていた。音楽を聞いて、彼の動きを感じて、スカートの裾をひらりと翻す。楽しくて、嬉しくて、自然に笑みがこぼれていた。
ーー離れたくない。ずっとこの時間が続けばいいのに。
しかしいつしか音楽は鳴り止む。
辺りを包む静寂が耳に痛い。
曲が終わった時の姿勢のまま動かない彼は、もしかしてミアの気持ちが分かっていたのだろうか。
この時彼とミアは、確かにひとつだったと思う。
遠くからかすかに流れてくるざわめきを聞きながら、もう行かないと、と言いかけたミアは、逞しい腕に抱き込まれた。
「1年……、いやその半分で帰る」
繋いでおかないと消えてしまうかのように強い力で、硬い胸板に押し付けられた。
彼の吐息がミアのつむじをくすぐって、彼女は小さく身震いする。
肌触りのいいシャツ越しに早鐘を打つ心臓が、ミアの耳元ではとてつもなく大きな音に聞こえていた。
「君に会えるよう、必ず生きて帰ってくる。だから……私のことを待っていてくれないか」
感情を押し殺したような声色に、ミアの鼻がつんと痛くなる。
菫色の大きな瞳からは小さな雫がほぽとんとこぼれ落ちたが、それを止める手立てを彼女は知らない。
何かを話そうにも声にならなくて、彼のシャツに縋り付いたままミアは小さく頷いた。
待ってる、ずっと待ってる。
そんな気持ちを込めて握りしめたシャツはもうぐちゃぐちゃだ。
何も言わず、ただただ抱き合っていた時間はどれくらいだったのか。優しい力で肩を押され、ミアは彼に縋るような視線を向ける。
「……行こう、君のお父上が心配なさっているだろう」
そっと体を離されると、彼との間に出来た隙間がどんどん広がっていく。冷たい夜風が、それまで感じていた熱を冷ましていく。
彼に案内されて歩くと、大広間とは本当に目と鼻の先だった。
これだけ王宮内の事を知り尽くしているなら、彼はもうここに勤めて長いのだろうか。
年齢はミアの長兄と同じくらいに見える。
「この角を曲がれば大広間の入り口があるんだ。そこに立っている者にお父上を呼んでもらうといい」
「えぇ。……本当にありがとう」
見上げた彼の表情は、月を背にしているせいで見えない。返事もなかった。
その代わり、ミアの額にそっと温かい物が押し付けられる。
微かなくちづけの音が聞こえたのはほんの一瞬。目を閉じる時間もない。
「さぁ、行って」
肩にあった彼の手が離れ、ミアは未練を断ち切るようにくるりと方向を変えた。
背後では彼も同じようにしているのだろうか。ミアは白いドレスのスカートをぎゅっと掴む。
やがて彼の足音が遠ざかり、全く聞こえなくなった頃。
ミアは毅然と前を向き、父に取り次ぎを頼むべく入り口へと歩き出す。
あれほど止まらなかった涙は、もう流さないと決めた。
この曲は、かつて波乱万丈な人生を歩んだ異国の音楽家が作曲したものだそうだ。煌々とした明かりが灯る大広間と違い、静かな月明かりの下で聞くそれはどこか寂しさを感じさせた。
色とりどりのドレスを纏った貴婦人も、彼女たちをさらに輝かせるシャンデリアも、年代物の重厚な楽器を揃えた楽団も見当たらないからだろうか。物言わぬ薔薇の花に囲まれ、ただ2人きりで過ごす最後の時。
今、この瞬間だけは誰にも邪魔されない閉じられた世界だった。
どちらともなく動き始めた2人は、耳をすませ、ゆったりと足を動かす。
ミアの足に負担がかからないようにと、彼はさりげなく体を支え、穏やかな動きでリードしてくれる。
舞踏会で相手になった男性達とは大違いだった。彼らは周囲に見せつけるように派手な動きを求め、複雑な足さばきを要求し、それについていくだけでミアは疲れ切ってしまったのだ。
「大丈夫? 足は痛くない?」
「えぇ……これならずっとでも踊っていられそう」
舞踏会では履いてきたことを後悔した高い靴も、今、初めてその存在に感謝した。この靴があるから、小柄で背の低いミアでも彼と無理なく踊ることができる。
ただ、そうは言っても背の高い彼との身長差は相当なもので、ターンをする時などふわりふわりと持ち上げられてしまったのだが。
「君は軽いな。もっと食べた方がいいんじゃないか?」
彼の青い瞳にいたずらっぽい微笑みが浮かび、ミアは小さく口を尖らせた。
「うそ。私に太れって言いたいの? とっても失礼だわ」
ミアは肥満体ではないが、一部の行き過ぎた食事制限をしている御婦人方のような痩せぎすでもない。
だが年頃の女の子なのだから少しでも細くありたいと思うのは当然で、いつも体型には気を遣っている。それを簡単に『太れ』なんて言われたのでは、少しくらいチクリと言ってやりたくなる。
「いや、本当に軽い。これじゃ私が帰って来る前に消えてなくなってしまいそうだ」
「……え」
彼の言葉に、ミアの足がほんの一瞬だけ止まる。
その一瞬でリズムに乱れが出てしまい、危うく転びかけたところを彼に助けられた。
「大丈夫?」
「ええ……ごめんなさい」
今、彼は“帰って来る”と言った。
だから大丈夫。
彼と過ごす時間はこれで最後じゃない。
またいつか、きっと会えるはず。
ミアは彼にそっと身を委ねる。
緩やかなテンポで芝生を踏み、何度も練習したターンをしながら、ダンスの家庭教師が言っていた言葉を思い出していた。
『ダンスとは、ただ決まったステップとターンを繰り返せば良いというものではないのです。小手先のテクニックなど全く意味がありません。音楽の流れに自然に乗り、信頼出来る男性のリードに任せてごらんなさい。そうすれば音楽とひとつになれるのですよ』
その通りだと思った。
今まで自宅で練習をしていても、舞踏会で知らない男性と踊っていても、ミアの頭はいつも次の動きでいっぱいだった。間違って相手の足を踏まないように。ステップのタイミングがズレないように。
上手だと褒められても、いつもそんな事ばかり考えていたと思う。
だけど彼とのダンスは違う。
頭で考える前に足が自然に動いていた。音楽を聞いて、彼の動きを感じて、スカートの裾をひらりと翻す。楽しくて、嬉しくて、自然に笑みがこぼれていた。
ーー離れたくない。ずっとこの時間が続けばいいのに。
しかしいつしか音楽は鳴り止む。
辺りを包む静寂が耳に痛い。
曲が終わった時の姿勢のまま動かない彼は、もしかしてミアの気持ちが分かっていたのだろうか。
この時彼とミアは、確かにひとつだったと思う。
遠くからかすかに流れてくるざわめきを聞きながら、もう行かないと、と言いかけたミアは、逞しい腕に抱き込まれた。
「1年……、いやその半分で帰る」
繋いでおかないと消えてしまうかのように強い力で、硬い胸板に押し付けられた。
彼の吐息がミアのつむじをくすぐって、彼女は小さく身震いする。
肌触りのいいシャツ越しに早鐘を打つ心臓が、ミアの耳元ではとてつもなく大きな音に聞こえていた。
「君に会えるよう、必ず生きて帰ってくる。だから……私のことを待っていてくれないか」
感情を押し殺したような声色に、ミアの鼻がつんと痛くなる。
菫色の大きな瞳からは小さな雫がほぽとんとこぼれ落ちたが、それを止める手立てを彼女は知らない。
何かを話そうにも声にならなくて、彼のシャツに縋り付いたままミアは小さく頷いた。
待ってる、ずっと待ってる。
そんな気持ちを込めて握りしめたシャツはもうぐちゃぐちゃだ。
何も言わず、ただただ抱き合っていた時間はどれくらいだったのか。優しい力で肩を押され、ミアは彼に縋るような視線を向ける。
「……行こう、君のお父上が心配なさっているだろう」
そっと体を離されると、彼との間に出来た隙間がどんどん広がっていく。冷たい夜風が、それまで感じていた熱を冷ましていく。
彼に案内されて歩くと、大広間とは本当に目と鼻の先だった。
これだけ王宮内の事を知り尽くしているなら、彼はもうここに勤めて長いのだろうか。
年齢はミアの長兄と同じくらいに見える。
「この角を曲がれば大広間の入り口があるんだ。そこに立っている者にお父上を呼んでもらうといい」
「えぇ。……本当にありがとう」
見上げた彼の表情は、月を背にしているせいで見えない。返事もなかった。
その代わり、ミアの額にそっと温かい物が押し付けられる。
微かなくちづけの音が聞こえたのはほんの一瞬。目を閉じる時間もない。
「さぁ、行って」
肩にあった彼の手が離れ、ミアは未練を断ち切るようにくるりと方向を変えた。
背後では彼も同じようにしているのだろうか。ミアは白いドレスのスカートをぎゅっと掴む。
やがて彼の足音が遠ざかり、全く聞こえなくなった頃。
ミアは毅然と前を向き、父に取り次ぎを頼むべく入り口へと歩き出す。
あれほど止まらなかった涙は、もう流さないと決めた。
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