愛されてアブノーマル(旧題:ヒーローも犯罪者)

柳月ほたる

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1巻

1-1

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   第一章 ヒーローも犯罪者


   1


 月末の金曜日、夜十一時半。
 結城ゆうき奈津なつは自宅マンションの三軒隣にあるコンビニの袋をぶら下げて、必要以上にゆっくりと歩いていた。こんなことをしても彼に会える確率は非常に低いが、挑戦しないよりははるかにましだ。都心に近い住宅街のため、空を見上げても星はあまり見えない。はぁっと白い息を吐き出して、できれば運よく会えますようにと、心の中で満月に祈る。

「うぅ、寒い……。この季節は無理かも」

 真冬の冷え切った空気の中をのろのろと移動するなんて、みずかこごえさせて下さいと言っているようなものである。
 奈津は小柄な体をさらに小さくし、緩んでいたチェックのマフラーをぐるぐると巻き直す。肩まで伸びたダークブラウンの髪も一緒に巻き込み、少し考えて髪はマフラーから出すことにした。なぜならこの髪色は、彼が似合うとめてくれたものだから。
 先月奈津は、二十七歳にして初めて髪を染めた。いつまでも終わらない片想いに悩む中で心機一転したかったというのもあるし、大人しくて地味な自分が少しでも明るい印象になればいいと思ったというのもある。髪の色を変えた程度ではなにも起こらないとわかっていつつドキドキしながら出社すると、なんといち早く気付いた彼がポンと肩を叩いて「その色も似合うな」と声を掛けてくれた。
 あまりの出来事に舞い上がってしまい、上擦うわずった声で「は、はい……!」としか答えられなかった。そのことには後から少し落ち込んだが、奈津は一生この髪色で過ごそうと決めた。
 この髪が彼を引き寄せてくれないか……という奈津の願いが本当に届いたのだろうか。マンションのエントランスに入る直前で、やわらかなウールのダッフルコートに包まれた奈津の肩が大きな手に叩かれた。

「結城、お疲れ」

 その手が触れた部分から電流が走るように全身の毛が逆立つ。
 あまりの奇跡に奈津はその場でガッツポーズをして叫びだしてしまいそうになる。しかしなんとかその興奮を表に出さないように取りつくろい、貼り付けたような笑顔で振り向いた。

「課長! お疲れ様です。今お帰りですか?」
「おう。金曜だからな、また接待だよ」

 いつもは一分いちぶすきもなく固められている前髪が、一房ひとふさだけはらりとこぼれ落ちる。それをうっとうしそうに掻き上げながらエントランスの鍵を開けるのは、奈津が所属する総合商社の営業二課の真山まやま恭介きょうすけ課長。営業事務として働く奈津の直属の上司である。
 他人に厳しく、自分にはさらに厳しく、を信条にでもしているかのようにストイックなこの上司についていくのはとても大変だ。だが厳しい一方で非常に面倒見もよいため、したっている部下も多い。加えて真山の優秀さは目に見える数字としても表れていて、最年少課長ながら実績も高いと評判だ。
 そんな真山のもとに配属されて二年、奈津はいつ実るともしれない片想いに身をがしていた。

「飲み過ぎには気をつけて下さいね。課長が倒れたらみんな困りますから」
「おい、俺はまだ三十四だからな。年寄り扱いするんじゃない。それより結城は夜中にコンビニか? 危ないからこんな時間にあまり出歩くんじゃないぞ」
「すみません。気をつけます」

 あなたに会えるかと思ってフラフラ出歩いてたんです、なんて言える訳がない。
 週末は大抵、飲み会で真山は遅くなる。もしかしたらその帰宅とかち合うかもしれないと、金曜日の夜は近所のコンビニで必要のない物を買うくせがついてしまっていた。
 二人は並んで歩き、エントランスの脇にあるポストの前に着く。そして奈津は、ポストの中を確認して必要な郵便物をり分けている真山のために、エレベーターのボタンを押して待つ。奈津が買い物に行っている間には誰も利用しなかったのか、エレベーターは一階に止まったままだった。

「悪いな」
「いえ。最近ポスティングチラシが多いですね。毎日本当にゴミが多くて」

 真山がエレベーターに乗り込んだのを確認した奈津はエントランスに備え付けのゴミ箱に溜まったチラシやダイレクトメール類を見て、大げさに顔をしかめてみる。こんな他愛もない会話も会社ではライバルが多くてなかなかできない。だからこうやってマンションで会った時が唯一にして最大のチャンスなのだ。


 奈津が真山に初めて会ったのは二年前の春だった。定年退職した前任の課長の代わりに新しく来たのが彼である。イケメンですごく若いがやり手らしい、とまことしやかに噂される中、オーダーメイドのスーツをピシリと着こなした彼が現れた瞬間に奈津は目を奪われた。端整な顔立ちも、程よくきたえられた体も、堂々として無駄のない身のこなしも、奈津の心を鷲掴わしづかみにして離さない。
 最初はどんな人が上司になるのかと探るような雰囲気だった課内も、真山が着任の挨拶あいさつを終える頃にはすっかり彼のカリスマ性に引き込まれていた。

『ねぇ、真山課長って彼女いるのかな?』
『直接聞いてみよっか!? でもあの顔とスペックなら絶対いるよねぇ』

 真山が着任した日、女子社員達は彼の話題で持ちきりだった。かっこいいと浮かれるだけの者もいれば、早速誘ってみるつもりだと豪語ごうごする猛者もさもいて、奈津はあまりのライバルの多さに愕然がくぜんとした。地味な奈津には、るライバルを押し退けて真山の歓心かんしんを買うことなんて到底できそうになかったから。
 でも……こっそり好きでいるくらいなら、いいよね。
 そう思った奈津は、それから密かに真山を想い続けている。最初は一目惚ひとめぼれだった奈津が、真山の人間性にも尊敬とあこがれの眼差まなざしを向けるようになるまでに、そう時間はかからなかった。
 真山は仕事では決して妥協だきょうを許さず、己に対してとても高い目標を設定している。さらに部下への指導もおこたらない。その厳しくも的確な指導は、真山が部下の一人一人をしっかりと見ているからできることだ。もちろんその後のフォローや、日頃からのコミュニケーションも完璧かんぺきだ。四年目の営業事務として一人前だと自負していた奈津も、真山のまとた指摘によって自分の未熟な部分に気付けた。
 あぁ、ほんとにかっこいい……。奈津はいつも部下に囲まれている真山を遠くからながめ、うっとりとため息をついていた。
 絶対かなうことのない片想いは少し切ないけれど、会社に行けば毎日会える。それに面倒見がよくて誰にでも優しい真山は、あまり目立たない奈津にもたまには声を掛けてくれる。それだけで奈津は幸せだった。それなのに、まさか真山が同じマンションに引っ越してくるなんて……


 体に重力を感じ、エレベーターが静かに停止する。大して高層ではないこのマンションにおいて、エレベーターに乗っている時間は非常に短い。
 結局今日は、ピザ屋のチラシがよく入っていること、それを見ると夜中なのにピザを食べたくなってしまい困ること、真山は学生時代にトッピング全部のせを頼んだことがあること、ここまで話したところで時間切れになってしまった。だが真山の学生時代の思い出を聞けたのは大きな収穫で、奈津は非常に満足した気分でエレベーターを降りる。

「じゃあ、おやすみ。ちゃんと戸締まりして寝るんだぞ」
「そこまでうっかりしてませんよ! ……おやすみなさい」

 ぺこりと頭を下げると、軽く右手を上げた真山がドアの向こうに消えていく。奈津も隣接する自宅に入り、こっそり真山の部屋のほうの壁に耳をつけてみる……、が、いつも通りなにも聞こえなかった。防音がしっかりしていることが、このマンションの売りなのだ。

「こんなに近くにいるのに、遠いなぁ」

 真山がこのマンションに引っ越して来たのはちょうど半年前のこと。休日に共用部分の廊下からかすかな物音が聞こえたのでのぞいてみたところ、なんとそこにいたのは引っ越し業者とそれに指示を出す真山だった。
 その時の奈津の驚きと言ったらなかった。ここは奈津が社会人になった時からずっと住み続けているマンションで、会社へのアクセスが非常にいい。だがまさか隣に同じ会社の人間、それも真山が引っ越してくるとは思いもよらなかったのだ。
 そういえば、忘年会で真山は通勤時間を短くしたいとぼやいていた。それに隣の住人が大音量で音楽を聴くから静かな環境に引っ越したいとも。その時は周りを囲んだ女子社員達がしきりに自分の住む地域をすすめていて、大人しい奈津は会話に入ることすらできなかったのに。
 降っていたような幸運に奈津は心の底から感謝した。この環境を生かしてなんとか真山とお近付きになり、できれば恋人と呼べるような関係になりたい、そう思った。
 だがいきなり馴れ馴れしく押しかける勇気はない。おかずを作りすぎました、と言って持って行くのもなんだかあざとい気がする。結局奈津にできることといったら、真山に会えるのを期待してコンビニに行くという口実こうじつのもと夜中にマンションの周りを徘徊はいかいするくらいだ。


 真っ暗な室内で壁を伝い、電灯のスイッチを押すと、シンプルな1DKの部屋が浮かび上がった。そして背の低いチェストの上にのせた、暖色系のルームランプもつける。可愛いレースの縁取ふちどりがされた笠の部分に淡く暖かな光がぼうっとともる。その光を見ているうちに奈津は自然にほおが緩んでしまう。

「ふふ。課長、今日もかっこよかった」

 このルームランプは、なんと真山からゆずり受けたものである。
 あれは彼が引っ越してきてすぐの頃のことだった。夜中にどうしても炭酸飲料が飲みたくなってコンビニに行ったところ、結婚式の二次会帰りだという真山とエントランスで出くわした。
 電器店の大きな紙袋を持っていたから、もしかして賞品が当たったんですかと話を振ると、『ビンゴで当たったんだが明らかに女物なんだよ。あ、ちょうどいいから結城使うか?』と紙袋を押し付けられた。
 真山に会えただけでなく、まさかこんなプレゼントまでもらえるなんて! 奈津にとっては、彼からもらえるものならガム一枚だって死ぬほど嬉しい。もしも実際にもらったら、もったいなくて食べられず、ずっと大事に取っておいてしまうだろうなと思ったくらいだ。
 嬉しさのあまりはしゃぎ出したいのをこらえ、エントランスの床に一旦いったん袋を置いて開けると、そこから出てきたのは高さ三十センチほどのファンシーなルームランプだった。確かに三十代男性が使うには少々可愛らしすぎる。

『ほ、ほんとにいいんですか!? 嬉しいです! 一生大事にしますっ!』
『そうか。そんなに大事にしてもらえるなら、このランプも喜ぶな』

 箱を抱えて大喜びした奈津に、真山は少し驚きながら苦笑していた。それ以来、このルームランプは奈津の一番の宝物だ。


 コートをクローゼットに片付け、そろそろ寝るためにパジャマに着替えようかと思った時だった。ピンポン、とエントランスのインターフォンが鳴る。

「え、こんな時間に?」

 壁の時計を見れば、もう少しで日付がかわるというところ。深夜に訪ねて来る人間に心当たりはなかったが、奈津はインターフォンの受話器を手に取った。

『ヤマネコ運送です! お届け物です』

 受話器越しに明るい声が聞こえてきた。このマンションには宅配ボックスがないので、仕事をしている奈津は昼間は荷物を受け取ることができない。だからいつも平日は夜間に時間指定して荷物を受け取るのだが、さすがに遅すぎる。

「あの、こんな時間に宅配ですか? 送り主は?」
『すみません、不在票を入れてたの、見て頂けませんでしたか? 連絡がないし、日中もご不在なんで今持ってきたんですが。えー、送り主はA&G出版で、品名は懸賞けんしょう当選品になってますね』
懸賞けんしょう当選……? わかりました、とりあえずドアを開けますね」

 最近、懸賞けんしょうに応募しただろうか、と奈津は首をかしげた。
 A&G出版は若い女性向けの雑誌を多く出している出版社で、会社の休憩きゅうけい室にも一冊置いてある。何度か買ってアンケートハガキを出したことはあるものの、最近は忙しくてそういうこともしていなかった。だが、もしかしたらかなり前の懸賞けんしょうが当選したのかもしれない、と納得し、オートロックの鍵を解除する。
 そしてしばらくすると、今度は玄関のインターフォンが鳴らされた。

「はーい、今開けます」

 ドアスコープをのぞくと、ヤマネコ運送カラーのオレンジの帽子ぼうし目深まぶかにかぶった男性が大きな箱を抱えて立っている。不審者ではないようだ。

「すみません、不在票に気が付かなくて」

 ドアを開けた奈津がそう言うと、ヤマネコ運送の配達員は小さく笑った。
 その笑い方に、ふと背筋が寒くなる。なんだか気持ち悪さを感じつつも、すぐさま荷物を受け取ってしまい早く帰ってもらえばいいのだと気を取り直す。

「いえいえ、そういう人多いんですよ。あの、これ重いんで、中に運ばせてもらってもいいですか? サインは後で結構なんで」
「じゃあ、お願いします」

 ドアを大きく開けると、狭い玄関に配達員が足を踏み入れる。一旦いったん奈津が室内に下がろうとしたところで、隣の家の玄関が開く音がした。

「課長?」

 スーツを脱いでラフな格好をした真山と、配達員越しに目があった。

「結城? こんな時間に荷物か?」
「あ、はい。私がうっかりして不在票を見落としてたみたいなんです。昼間はいないからって持って来て下さったそうで」

 奈津が自分のミスに苦笑いすると、いつも穏やかな真山の眉間みけんになぜかしわが寄る。そしてつかつかと近付いて来て、奈津と配達員の間に自分の体を入れた。突然目の前に広がった真山の背中と、ほのかに香るコロンの匂いに胸がどきんと高鳴った。

「おい、お前どこの運送会社だ」
「え、いや、ヤマ……ネコ運送、ですが」

 これまでハキハキと話していた配達員が、どこか目を泳がせながらしどろもどろに答える。奈津は真山の背中に守られたまま、ただその会話を聞いているしかない。その間にもするどい声色での真山の追及は続いていた。

「ヤマネコ運送なら帽子ぼうしと作業着にロゴが入ってるはずだろ。この帽子ぼうしも作業着も量販店で売ってるもんだよな。本物なら身分証出してみろ」
「……!」

 途端に荷物を放り出した配達員が、方向転換して一目散いちもくさんけ出す。配達員が重いと言っていたはずの大きな段ボールが、簡単に宙を舞って転がった。

「結城! 警察呼べ!」

 そう怒鳴った真山が配達員を追いかけ、一瞬で引き倒してうしろ手にひねり上げた。

「ぐあぁぁっ! 放せ! 放せよ! まだなにもしてねェだろうがよ!」

 配達員だと思っていたオレンジ帽の男が口から泡を飛ばして叫ぶ。その声が深夜のマンションの廊下に響き渡る。

「おい! 一一〇番!」
「は、はいっ!」

 突然の捕り物劇に固まっていた奈津は、真山のその言葉に弾かれたように飛び上がり、スマホを取りに慌てて室内に入った。



   2


 警察に通報してからは怒涛どとうの展開だった。
 さわぎを聞きつけた同階の住人が見守る中、すぐにけつけた警官に男は引き渡された。この男、実は深夜に宅配業者やガス点検を装って一人暮らしの女性の自宅に入り込み、強姦ごうかん強盗ごうとうを働く連続犯だったのだ。現場検証を終えた後、さらに詳しく事情聴取ちょうしゅをということになったが、深夜のため、日曜に改めるよう真山が話をつけてくれた。真山が奈津の上司だと名乗ったところ、警官も納得したのだ。
 集まっていた住人達にさわぎになったことを謝罪して回り、逆にいたわられてから自宅に戻ると、すでに時計は二時を回っていた。

「結城、大丈夫か」

 疲れがどっと出てダイニングチェアに座り込むと、真山が心配そうに声を掛けてくれた。一人で自宅に入ろうとした奈津に、真山が心配だからと付き添ってくれたのだ。
 必死に遠慮しながらも本気で断れなかったのは、真山と二人きりになれるチャンスを逃したくなかったからだ。

「あ、はい。でもなんか、あんまり実感がないっていうか……あ、あれ?」

 今までなんともなかったのに、一旦いったん落ち着くと今さらのように肩に震えが走る。カタカタと揺れる体を抱きしめると、隣に寄り添った真山がそっと肩をさすってくれた。

「今までずっと緊張状態だったからな。気が緩んで恐怖心が出てきたんだろう」
「すみません……。私、あんまり怖くないと思ってたんですけど」

 安心させるように真山の手がゆっくりと動く。その動きに身を任せているうちに次第に落ち着いてきた。だが、同時に事件そのものよりも、現在の状況に対して心が穏やかではなくなってきた。なにしろあこがれの課長に肩を抱かれているという、まさかのシチュエーションなのだ。奈津の心臓の脈拍は速くなっていく。

「あ、そういえば」
「どうした?」

 ふと思い出したことがあって、奈津は声を上げた。

「何度か、下着がなくなることがあったんです」

 真山の手がぴたりと止まる。

「……それで?」
「もしかして、さっきの犯人がやったってこと、ないですよね? ここ五階だし、盗まれたんじゃなくて風で飛んだと思ってたんですけど……」

 下着がなくなるようになったのは、だいたい半年くらい前からだろうか。夜中に干していた下着がなくなることが何度かあった。しかしこのあたりで下着泥棒どろぼうが発生しているという話も聞かないし、なにより五階まで上がってくる犯人がいるとも思えず、風か鳥の仕業しわざだろうと思い込んでいた。それがもしかしたら人間の、しかもさっきの男の犯行だったとしたら。その可能性に奈津は身震いする。
 しかしそれに対する真山の返答は、奈津が思っていたものと少し違った。

「枚数は?」
「枚数、ですか?」

 盗まれた枚数を聞いてどうしようと言うのだろう。首をかしげながら、今までなくなった下着を思い出す。

「え……と、正確には覚えてないですけど、多分十枚くらい、かな? どうしよう、今から警察に言ったほうがいいでしょうか?」
「いや、十枚程度ならいい。そうだな、それに関しては後で話し合おう」

 十枚ならいい? 少し引っ掛かりを覚えながらも、信頼する真山がそう言うなら大丈夫だろうと奈津は引き下がった。
 それよりも深夜の密室に二人きりで、しかもこんなに親密に触れ合っているなんて勘違いしそうで怖い。今までの二年間で真山と交わした言葉の数を、今夜一晩で簡単に上回ってしまいそうだ。
 これだけでも奈津はパンク寸前なのに、真山はさらに爆弾発言をした。

「よかったら、うちに来るか。ここだと事件のことを思い出すかもしれないだろう」
「えっ!?」

 真山の自宅、という言葉に過剰反応して、肩がびくんと跳ねる。
 行きたい。ものすごく行ってみたい。しかし言われるまま押しかけて、ただの部下のくせに図々しいと思われたりしたらどうしよう、と二の足を踏む自分もいる。
 その様子を見た真山は、違う方向に勘違いしたようだった。

「あー、悪い。やっぱりあんなことがあった後じゃ、俺のことも気持ち悪いよな。悪かった、忘れてくれ」
「ちがっ……、そんなんじゃないんですっ! だって、課長にこれ以上ご迷惑をお掛けする訳には……」

 目に見えて落ち込んで申し訳なさそうにする真山に、奈津は慌てて言いつのった。
 真山が気持ち悪いはずがない。奈津が危なかったところを助けてくれて、さらに心配だからと付き添っていたわってくれる王子様のような存在だ。たとえこれまでの片想いがなかったとしても、今日みたいなことが起きればすぐに恋に落ちてしまっていたに違いない。

「はは。迷惑ならもう十分掛けられてるだろ。今さら気にするな。本当に俺が怖い訳じゃないんだな?」
「もちろんです! ……でも……」
「よし、それなら決まりだ。今日はうちに来い。明日は美味うまい朝飯作ってやるぞ」

 そう言って笑う真山に、奈津は強引に椅子から立ち上がらされた。確かに自宅にいれば、玄関を見るたびに嫌なことを思い出しそうだったのだ。またインターフォンが鳴るのではないかと、気になって眠れなかったかもしれない。


 徒歩二秒の真山の自宅は角部屋で、奈津の所とは間取りが違って少し広かった。
 モノトーンでシックにまとめられた彼らしい部屋の中、革張りの大きなソファに座らされると、真山が温かいココアをれてきてくれた。

「ほら、あったかいもん飲むと落ち着くぞ」
「ありがとうございます」

 ココアの甘味あまみが舌に乗り、喉を通って胃に落ちる。体の中から温まると、あれだけ高ぶっていた神経が嘘のようにしずまった。
 正直、犯罪被害にいかけて間一髪かんいっぱつで助かった動揺もまだ少しだけある。だが自分がそれと気付く前に真山に助けられてしまったから、どこか実感がない。その上、あの真山に甲斐甲斐かいがいしく世話をされているという現状のほうが奈津には一大事で、いつの間にか恐怖心は薄れつつあった。
 それにココアは奈津の好物だ。会社の休憩きゅうけい室でもよく飲んでいる。まさか真山がそれを知っているとは思わないが、この偶然が嬉しい。思わずほおを緩ませると、それを見た真山が優しく笑った。

「やっと笑った。結城はココア好きだよな」
「えぇっ!? なんでそれを……っ」
「は? いつも飲んでるだろ。もしかして嫌いなのに飲んでんのか」
「い、いえ! 大好きです……けどっ!」

 ココアも。真山課長も。
 大勢いる部下の中の、大して目立たない自分の好みにまで気付いてくれていたなんて。胸の高鳴りが止まらなくなってしまうではないか。
 奈津がココアを飲むのをじっとながめていた真山は、マグカップがからになると隣に腰掛けた。近い。体が触れ合う位置にぴったりと座られ、奈津は緊張で体を硬くする。真山の重みでソファが沈み、うっかり体をしなだれかけてしまいそうになるのを、お腹に力を入れて精一杯阻止そしした。
 だが、そんな奈津の健気けなげな抵抗をあっさりかわし、真山のたくましい左腕が奈津の肩を抱き寄せる。

「え、課長……?」
「もう大丈夫か? 怖くなくなったか?」
「……あ、全然、怖くないです。ありがとうございました……」

 駄目だめだ、勘違いしてはいけない。真山は奈津の恐怖心をやわらげようとして近くにいてくれるだけ。さっきだって、奈津の自宅で何度も肩をさすってくれていたではないか。それと同じことをやっているだけだ。

「ならよかった。日曜は俺も警察に付き添うから一緒に行こう」
「……はい」
「本当に、結城が無事でよかった」

 そう言いながら、真山の右手が奈津の髪までで始める。大事なものをでるような、奈津をいつくしむような、そんな態度にドキドキする。もう、ほとんど抱きしめられているも同然の体勢だ。なんだか奈津の周りだけ空気が薄くなったかのように呼吸が浅くなってしまう。

「結城の髪はやわらかくて、触ってるだけで気持ちいいな」
「……あの、毎日流さないトリートメント使ってて」
「そっか、それでか」

 なぜ今、髪の手入れの話などしているのだろう。もっと上手な返し方があっただろうに、酸欠気味の頭ではまともな返答は浮かびそうもない。
 そうしている間にも真山の左手は奈津の腕を伝って下り、腰の丸みを確認するようにやわやわと動く。

「それにすごくいい匂いがする」
「……っ、コンビニに行く前にお風呂に入った、んです」
「このシャンプーいいよな。たまに会社でいで、そのたびにムラムラしてた」

 真山の手が太ももをでる。それと同時に頭頂部にやわらかい感触が降ってきた。
 あ、今キスされた、と回らない頭で考える。もう勘違いしてもいいだろうか。自分は女として真山に求められていると、そう勘違いしても。ただの上司なら部下にこんなことしないはずだ。
 それから何度もちゅ、ちゅ、と唇が押し付けられた。髪に、ひたいに、こめかみに、目尻に。いつの間にか真山の左腕は奈津を拘束こうそくし、右手はニットワンピースに包まれた胸をそっと持ち上げていた。

「か、かちょぉ……」

 胸を離れた右手が、くいと奈津のあごを持ち上げる。目の前には欲望にれた男の目をした真山がいて、奈津は覚悟を決めてそっと目を閉じた。

「んっ」

 すぐに触れ合った唇は、燃えるように熱かった。奈津の唇の形を確かめるかのごとくついばんで、小さな水音を立てる。


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