触手の魔女 ‐Tentacle witch‐

塩麹絢乃

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最終章

6.乱世の奸雄 その③:英雄

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 彼の死の余韻に浸る間もなく、背後に月を蝕むものリクィヤレハの気配が現れる。

「――問題なく、イスラエル・レカペノスは始末できたようだねぇ」

 全く、無粋極まりない。
 もう少しぐらい待てないのか。

「そうね、ワキール。でも、まだ終わっちゃいないわ」

 私は、イスラエル・レカペノスの遺体を床に寝かせ、その首元に実体化した魔力刃をてがう。彼の首を斬り落として晒すことで、クーデターは真に終わりを迎える。

 だが、どういう訳だか一向に力が入らず、魔力刃は首元の皮膚を何度も撫でて赤い線を付けるだけだった。

 人の首なんて、これまで数え切れないほど斬り離してきた筈なのに、スプーンより重たいものを持てない箱入り娘のように、カラギウスの剣を握る手がカタカタと震えてしまう。

「手伝った方が良いかい?」
「……結構よ」

 歯を食いしばり、全身全霊の力を振り絞って魔力刃を彼の首元へ押し付け、震える手の上に体重を乗せるようにして圧し斬る。ゴロンと床に転がったから眼を逸らしつつも鷲掴みにし、バルコニーへ出てを高らかに掲げた。

 すると、既に戦闘を終えていた地上の部下たちから、わあっと野太い歓声が湧き上がる。

 ――これにて、クーデター完遂せり。

 全てを終えて感じるのは、達成感ではなく計り知れない虚脱感だった。あまりにも、あまりにも失なったものが大きすぎた。多すぎた。気力という気力が、右眼から溢れる涙と一緒に零れ落ちてゆくかのようだった。

 私は、すぐにバルコニーから引っ込んで、首をワキールに持たせておいた木箱に仕舞わせると、床にへたり込んだ。

(長かった……ここまで、本当に長かった……)

 だが、終わりというものはまた別の始まりでもある。

 このクーデターの成功は、我が深遠なる野望の第一段階、その足がかりを得たに過ぎない。きっと、それはこれからも何十年という歳月を要して、ようやく実現するものだろう。

 面倒極まりない。
 だが、不思議とそのことを考えると、やる気と充実感が湧いてくるのだった。

 私は、涙と共に後悔と未練を拭い去り、再び立ち上がった。

「リン、これからどうするんだい?」
「やることは無限にあるわ」

 私は――ヘレナの〝思想〟を継承する。

 私自身に目指すべき確固たる〝理想〟がないのだから、そこは借り物で済ませようと考えていた。そうしても問題ないと思うぐらいには、私はヘレナのことを信用している。

 だが、今すぐにそれを実現とまではいかない。

「まずは、愚民どもを教育してやらないとね」

 シジズモンドさんの五ヶ年計画を下敷きにして、教育改革を行うつもりだ。それと並行して、新しい学校施設の建設なども行いたい。

 取り敢えず、無教養な阿呆どもに教育を施し、平均を引き上げてやれば多少は見れるようになるだろうと期待している。ならなかったら、その時は本当に愛想を尽かすかもしれない。

 教育以外にも、やりたいことは沢山あった。

「亡命した連中を呼び戻したいわね。人が足りてない。銀行も作りたいと思ってたし、税制改革も、区画整理もしたい。宗教的には教皇と和解しときたい。発展のためにはもっと鉄道なんかも敷きたいし、魔法工学の発展のためには工場なんかも建てたい。鉄道と工場に関しては住民を叩き出してでも用地を確保するとして……後は……」

 後は、どうしよう。
 他にやりたいことは……あぁ、そうだ。

「ヘレナのこと、教科書に載せてやらなきゃね」
「ヘレナ・アーヴィンを?」
「ええ」

 どうせ、教科書は刷新する予定なのだ。新しく誰かを載せてやるぐらいは簡単にできるだろう。

 ――そうだ、ヘレナだけではない。
 考えても見れば、他にも載せてやらなくちゃならない人間が山ほどいる。

(世に知らしめてやらなきゃあね)

 血なまぐさい革命の裏には、イリュリアを憂える数多の天才たちが居たことを。

 彼らの殆どは志半ばで斃れたが、その人生や試みが全て間違っていたとは言い切りたくない。ただ、時季を解さぬ幾人かは少しばかり急進的すぎた嫌いはあるだろう。それ故に、夥しい血を余計に見る羽目になった。

 しかし、人間は完璧では有り得ない。
 間違えても、なお進むのが人間だ。

『人類は妥協を続け、もんどり打ち、苦しみながらジリジリと前に進んできた』

 昔に聞いた時は同意するのが難しかったシジズモンドさんの言葉も、今なら素直に真理の一つとして受け入れられる。進む意志さえ捨てなければ、人間は一歩ずつ着実に前へ進んで行ける筈だ。

 そのために……。

「ヘレナの……この時代に生きた彼らの、努力と精神を後の世に残しておきたい」

 所詮、個人が社会へ及ぼせる影響なんてちっぽけなものだ。それは、私のような天才も例外ではない。後世の人間が私の期待通りに彼らの精神を継承してくれると望むなんてのは、一個人には出過ぎた願いだろう。

(でも……そんなこと今を生きる私には知ったこっちゃないわね)

 未来のことは未来に考えよう。結局、今はやれることをやるだけなのだから、それ以上のことを考えても無駄だ。

 失敗しても良い。
 また、やり直せば良いだけなのだから。

 そして、やり直すのは私でなくても良いのだ。

 私は、後に続く誰かが余計な労苦を背負わぬよう、行き止まりデッドエンドへ続く岐路を示す標識を設置してやるだけで良い。それさえ出来れば、例えこれから何も成し遂げられなくとも、『価値のある人生だった』と胸を張って私は死ねるだろう。

 決意を新たにし、私はワキールへ向き直る。

「ねえ、ワキール……これからも、私を手伝ってくれる?」
「もちろんだよぉ。お前を放っておくと何をしでかすか分からないからねぇ」
「可愛くないわね」

 素直に一人だと不安だから一緒にやらせてくださいと言えば良いのに。私は頬が緩むのを感じながら、可愛くないワキールと軽くハグをした。

「あ、そういえば呼び方を決めたわよ」
「呼び方?」

 ワキールから身体を離しつつ頷く。

 これまで、私は若き『天才』と呼ばれてきた。だが、それはどこぞの新聞が使った非公式な呼称に過ぎない。これからは、別の呼び方を周知徹底させようと思う。

「――

 皮肉なものだ。あれほど嫌がった『英雄』という呼び方が、今はなぜだか妙にしっくり来る。憚りながら、学院生時代は無かった名実の「実」が伴っているからだろう。

(なったわよ、ヘレナ――『英雄』に)

 彼女の目利きは確かだったと言わざるを得ない。

 呆れ顔のワキールを捨て置き、私は部屋の入り口扉へ向き直る。

 さて、先程は色々とやりたいことを挙げ連ねたが、現実的にはまず目先のことに焦点を合わせるべきだろう。

 目先とはつまり権力掌握――即ち、地盤固めである。

 私の敵は多い。

 ラビブ神父はもちろんのこと、議会の共和派や軍隊にも私を敵視する連中は居るだろう。対して、味方らしい味方は民衆ぐらいのものだ。

(――時季は私の背中を押している)

 だが、過信は禁物だ。
 時季が、必ずしも私の望む方へ向かってくれるとは限らない。

 もう一度言うが、個人が社会へ及ぼせる影響なんてちっぽけなものだ。あのイスラエル・レカペノスでさえ、望むままに時季を操ることなど出来なかった。せいぜいが既にある流れを強めたり、流れに乗っかって利益を得る程度のこと。

(逆らえば、私とて出血は免れない)

 今、時季に逆らう行いの一つがラビブ神父を殺すことだ。今回のクーデターは表向き彼の功績となっている上、民衆の人気もある。つまり、クーデター後の新体制においては、暫くラビブ神父と共存してゆく必要があった。

 今頃はレイラがラビブ神父を味方に引き入れようと試みていることだろうが、仮に彼が首を縦に振ったとてほぼ間違いなく面従腹背となるだろう。ラビブ神父は善良で弱い人間である。それゆえに、私という劇物を心から信用することが出来ないのだ。

(ならば、排除するまで)

 私は、既にラビブ神父を出し抜く算段を立てていた。彼もまた強敵には違いない筈なのだが、イスラエル・レカペノスという天才の後では見劣りして仕方がない。そして、それは侮りでも何でもなく事実だろう。

 油断はしない。
 だが、不必要に見上げることもない。

 鷹揚に構えて行こうではないか。
 きっと、その方がらしい。

「恐るるなかれ――勝利の星は天高く、私の頭上に輝いている!」

 この先に道はない。眼前に広がるは前人未到の大地。だが恐れるな、行く手に待ち構えるものが栄光か、死か、そこにさしたる違いはない。ただ、脇目も振らず前へ進め。道はその後に出来上がる。

(後に続く者たちへ、祈りを。幸多き未来が彼らに訪れんことを、切に望む)

 どこまでも、どこまでも、私を高く押し上げんとする時季の圧を背中に感じながら、祈望きぼうに満ち溢れた人生の第一歩を今、私は踏み出した。
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