手が招く

五味

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三章 

沼の底 7

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何事もなく事務所に帰り着いた海斗は、疲れを感じて、仕事机の前ではなく、その足で仮眠室へと向かう。
いつものソファーに、いつものように横になると、大きく息をつく。
人が消える、そのことにしてもそうだが、過去に自分も関係のあった事件。
それがまだ尾を引いていた。出所して、再犯。それどころか、あの優し気な、本当に娘の事を大事に思っていたのだと、彼でもそう分かった、あの両親が手にかけられていた。
そして、周囲の気遣い、両親も、伊澄も。
それによって、その事実を、今の今まで彼は知らなかった。
その事実が、ひどく、横になる彼に大きな荷物かのように、のしかかる。
ソファーの脇に置かれた、安っぽい照明をつけて、裾を上げて足首を確認すれば、これまで足首を掴むだけ、そういった形状だったはずの痣が、それに加えて、さらに高く、縦に伸び、脛のあたりから掴む様な、そんな痣が増えている。
ただ、彼はそれを見ても、今更恐れを覚えることはなかった。
代わりに、不思議な納得が生まれていた。
死んだ人間が何処に行くのか、それはわからないが、死後の世界、そんなものがあるとすれば、それこそ汚泥の底だろう。
魂というものがあれば、それは綺麗な、それこそ天国とやらに行くかもしれないが、残された肉は焼かれなければ、ただ腐り、土にかえる。そして、ただただそれが積もる。
未練を残さず旅だった魂、未練を残して肉体と共に、地の底に沈んでいく肉。
ああ、そういう事かと、そんなひらめきにも似た考えに、彼は改めて納得を覚えて、そして、そのまま眠りに落ちる。
耳元からは、地の底に沈んだ彼女の両親、そして既に記憶や記録の消え始めた彼女の声が聞こえる。

「二回目は、助けてくれなかったんですね。」

それは、彼を責めるというよりも、ただ悲し気で。

そして、彼が再び目を覚ませば、そこはただ薄暗く、周囲にはただただ枯葉や、枯れ木といったものが水に流れるように漂う、そんな場所だった。
その光景を見ながら、ああ、また夢を見ているのだと、彼ははっきりと自覚する。
周囲からは、雨に濡れた土の、黴臭さを感じさせる匂いが漂っている。
夢から覚めるまでの付き合いと、周囲をぼんやりと眺めれば、一つの方向だけ、ぼんやりと明るくなっている。
周りの物は、どうやらその明りに向かって流れていっているらしい。
特にやることも思いつかず、夢から覚める方法もわからない。
彼は、周囲の流れる風景に合わせて、そちらへ行こうとするが、上手く体が動かせない。
あたりの物は、ゆっくりと確実に動く、しかし彼は水の中よりもはるかに、緩慢に、それもかなり力を籠めなければ、体が一歩も前に勧められない。
そんな状況を把握して、彼は、ああ、あの手はここから伸びていたのだと、そんなことを直観する。
ここが、沼の底。
あの手は、ここから伸びて、上にいる物をここに招くのだろう。
その割に、手の持ち主が何処にも見つからない。
あくまで夢に見ているだけだから、それも当然かと、そんな取り留めもないことをただ考える。

彼が、重たい首をどうにか動かして、足元を見れば、そこからは夥しい数の手が、これまでは手首から先だけではあったが、今となっては肘まで見える物もある、彼の足を掴み、さらにしたが、こんなところは浅瀬だ、沼の底はもっと深いのだ、そうとでもいうようにまとわりついている。

「正直、もう見飽きてきたよ。」

彼は、それを眺めながら、そう呟く。
最初に見たときは、畏れこそしたが、今となっては、所詮手だ。
今も、彼にまとわりつくだけで、何処かに引きずり込む、そのような力はそれにはない。
それこそ、その招きに応じて、そこに行こうと、そう思わなければ害などないのだ。

「こうして夢に見る程度には、引っかかるし、現実で見れば、ありえないから怖いと、そう思うが。
 夢に見たところで、夢は夢。それにおびえて泣いて起きたり、眠るのを恐れたり、流石にそういう時代は過ぎたよ。」

彼はそうこぼして、現実でもそうしたように、重たい足をどうにか動かし、泥にまみれた手を適当にふるい落とす。
緩慢な動作だというのに、動かした足からは、簡単にはがれ、落ち、そして何処かへと消えていく。
その様子を見た後、気になる薄明りへと向けて、ゆるゆると歩き出す。
さて、あそこにたどり着ければ、目が覚める、そういう事なのだろうか、そんなことを考えながら。

暫く歩いた後、その間も、足を止めればどこからともなく手が伸びては、彼の足にへばりつく、それを振り落としながら進め、そんなことを続けていると、夢の中だというのに、彼は疲労を感じ始めた。
普段から、調べ毎のためにと、あちらこちらへと移動を繰り返す彼は、足腰には少々自身もあったが、それも水よりも重たく体を抑える周りの透明な泥が、無意味なものとしていた。
疲れに息をつこうと足を止めると、今度は、後ろから、彼を呼ぶ声が聞こえだす。
声の主は、振り返るまでもない。

「どうして。」

そのあとに、何が続くわけでもなく、ただその一言だけ。
ただ、そのあとには、それこそ様々な言葉が続くのだろう。
彼は、応えようと口を開きかけ、それを止める。
そして、少し考え、口にする言葉は、最初に頭に浮かんだものとは全く違うものになった。

「向こうで話すさ。」

彼の言葉に、すぐ後ろから、また声が聞こえる。

「私が生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からないのに?」
「死んでない、そう考えているよ。
 事件の状況を聞いただけだが、そこでキミも死んでいれば、あそこであった人は、家族がなくなったと、そういったろうさ。」
「私が忘れられているから、そういっただけですよ、それは。」
「どうだろうな。死んだ人間が、生きているように現れて、そして消える。
 少なくとも、私の知っている現実では、そんなことは起きないからな。」
「今、こうして、現実には起きないようなことが起きているのに?」

その言葉に、彼は大きくため息をつく。
夢の中、いなくなった人間と言葉を交わす。
自分の空想に、自分の不安を指摘され、それを否定する。
自問自答、まさしくそれだと。

「それこそ、調べればわかることだろう。」
「調べる方法も、まだ、何もわかっていないのに。」
「それでもだ。それに、例えばだ。」

彼はそういって、再びため息をつく。
そう、彼には一つ明確な前提がある。
花家伊澄、彼女が彼の事務所で働いていた、それが確かなことだと、そう言えるだけの前提が。

「例えば、妄想だったとしよう。初めからそんな人間は死んでいて、現実にはいない、そうだったとしよう。
 そうであるなら、私は君を雇っていない。思い出してすらいない。
 だから、妄想ではないし、少なくとも雇用契約、それに伴う書類が確認できる程度に、キミはあの時生きていたさ。」

そう、偶然出会って、話したから思い出した。
そして、いなくなって、考えたから、過去の事件を夢に見た。
その中でも、彼女の様子など、彼はろくに覚えていなかったし、きちんと顔を合わせたのも一度きり。
現実に、彼女から声をかけられず、そのままであれば。
彼は今も彼女の名前など、意識の端に上げることもなく、日々を過ごしていただろう。

「ひどい人。」

何処か、泣くような、悲し気とはっきりとわかる声でそう聞こえる。
話している間に、薄明りは、すでにはっきりと明るいと、そう感じるほどのものになっていた。
彼は、彼女の声が聞こえてから、一度も自分で足を動かしてはいない。
それでも、その明りへとはっきりと近づいて行っていた。

「まぁ、そうだな。」

彼も、その言葉は否定できない。

「2回目も、助けてくれてもよかったじゃないですか。」
「最初と同じだ、偶然その場に居合わせて、通りかかっていたら、助けただろうさ。」
「ひどい人。」
「そう言われてもな。だって、無理だろう。そんなの。」
「最初の時だって、偶然が起きたんでしょう。」
「ああ。だから二回目は起きなかったんじゃないか。」

そういって、彼はまたため息をつく。
すでに彼の体は、明りに飲まれ始めていて、既に自分の手の形もはっきりと見ることができない。

「だけどな。」

もうじき目が覚めるのだろうと、彼はそう確信する。
そして、これが最後になるだろうからと、言葉を一方的に告げる。

「それでも、目の前で起きた事は、見過ごさないさ。
 だから、どうにか見つけるさ。3回目は、目の前で起きた。
 だから、前と同じように、助けるために、努力はするさ。」

そう、応えるとほとんど同時に、彼は事務所の仮眠室で目を開ける。
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