心の中にあなたはいない

ゆーぞー

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アリー

66 向かった先は

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 しばらくの間、私はレイモンドを蹴り続けた。レイモンドは何も言わず、私に蹴られ続けている。その様子に私の怒りは爆発した。少しでも哀れな声を出したり、私に許しを乞うのであればやめてやったのに。

 そうやってしばらくすると、レイモンドが私を見た。その目は憎悪に満ちていた。

「いい加減にしろ!」

 レイモンドは立ち上がり、私の腕を掴んだ。

「何をするの!」

 思わず私は声を上げた。

「お前にそんなことをする権限があると思っているの?」

 私の産んだ子どもの父親は確かに彼だが、夫ではない。私たちは雇い主と使用人なのだ。長い間、彼はその関係を壊すことはなかった。私の命令を忠実に聞く使用人だったからこそ、私は彼をそばに置いてやったのだ。だから彼は私に反抗することはできないし、殴られようと蹴られようと黙って耐えるしかないのだ。

 しかし彼は何を勘違いしたのか、私の前で偉そうにも私の腕を掴んでいる。

「あぁ、そうさ。権限なんてないんだ」

 彼はそう言って、今度は私の髪を掴むと思い切り引っ張った。

「痛い!」

 思わず声が出る。

「そうか、痛いか」

 彼の唇が歪に歪んでいた。今目の前にいるこの男は誰だろう。本当に私の知っているレイモンドなのだろうか。彼はいつもどこか自信なさげにオドオドしていた。いかにも田舎から出てきたような男のはずだった。私の言うことを聞き、従順に仕えてきた男のはずだったのだ。

「お前も痛みがわかるんだな」

 そう言いながら、私のことを思い切り突き飛ばした。

「キャッ!」

 その時初めて恐怖を感じた。今ここには私とレイモンドしかいない。ここは誰も来ないような場所なのだ。ここで私たちは何度も愛し合ったはずだ。一度目の妊娠も、そして二度目の妊娠だってこの場所だった。

 夫となったブライアン様とは不審に思われない程度の関係しかない。おそらく妊娠できただろうと思った時、ブライアン様のベッドに行き辻褄を合わせた。ブライアン様は何も疑っていない。ケイラのこともアダムのことも自分の子どもだと信じきっている。バカな男よね、と私はレイモンドと笑った。やはりこの場所でだ。

「いい加減にしなさい」

 私の前に立つレイモンドに私は言った。

「私を怒らせるとどうなるか、分かっているわよね」

 きっとレイモンドは一時的におかしくなっただけだろう。すぐに冷静になって、そして私に取りすがるだろう。私は雇い主なのだ。私を怒らせたら、彼だけではなく彼の実家も無惨な結果になるのだ。彼はそれが分かっている。だから今まで逆らうこともなかった。私の言うことはなんでも聞いてきたのだ。

「どうなるか、だって?」

 彼の声が低く響いている。

「その前に自分がどうなるか、分かっているのか?」

 彼はこんな声を出しただろうか。こんな粗暴な言い方をしただろうか。今まで見たこともない彼の姿に私は混乱してきた。

「お前が俺の家をめちゃくちゃにしたのだろう。わざと借金を作らせて、そして逆らわせないようにした」

 確かに。結婚前のいい練習相手がいるからとレイモンドの実家に借金を背負わせたのは祖父だ。だがお金も支払って、彼の実家は元通り商売をしている。彼だっていい生活をしているのだ。何の問題があるというのだ。

「何が聖女だ。刺繍だって、翻訳だって、お前は何一つしてないだろう」

 彼には隠していたつもりではいたが、やはりバレていたのか。失敗したとは思ったが、彼に知られても困ることではない。そんなことで怒るほうがどうかしている。

「子どもだって俺の子だ。しつけのできていないバカな子どもにしちまったのは、お前のせいだ」

 バカな子どもなんて言い方はよくないと思う。少し腹も立ったが、子どもの躾は私の責任ではない。使用人の仕事だ。そういえばアニーが時々子どもに注意をしていたが、私の子になんの権利があって口出しするのだろう。余計なことをするなと逆に躾をしてやった。そんなことを思い出して、レイモンドが何を怒っているのか少し見当がついた。

 彼は僻んでいるのだ。最近は翻訳本を陛下に褒められたので、ブライアン様と一緒にいることが多くなった。自分との時間が減ったので焦っているのだろう。自分が捨てられると思って、それでわがままを言ったのだ。私を怒らせるようなことをわざと言って、私を試したのだろう。

「そんなに色々言わないで」

 私はとびきり優しい笑顔を作り、甘えた声を出した。こうすれば男は皆言うことを聞く。今までだってそうだった。

「どこまでもおめでたいんだな」

 レイモンドの声は変わらず冷たかった。

「もううんざりなんだ。お前のせいでどれだけの人間が不幸になったのか、想像したことがあるのか。お前は誰1人幸せにしていないんだ。疫病神なんだよ」

 何を言っているのか分からなかった。どうしてこんなことを言われるのかも理解できなかった。彼は私に雇われている使用人だ。私がお金を渡しているから、彼は生活ができているのだ。それも貴族の裕福な暮らしだ。それなのに何故。

「妹はお前の父親の紹介でメイドになった。その家で息子に襲われ子どもができた。しかし妹の方がたぶらかしたと言って、追い出されたんだよ。実家に帰る途中で、妹は自ら川に飛び込んだ。お前の家のせいで妹は死んだんだよ」

 そんな話は初めて聞いた。父は仕事の斡旋をしただけだ。確かに気の毒かもしれないが、私は関係ない。川に飛び込んだのは妹だ。彼女は自ら飛び込んだのだ。私に責任を求めるのは違うだろう。

 そう言い返したいと思ったが、彼の様子があまりに異常に見えたのでそれはやめた。

「お前たちはそうやって人の命を好き勝手にできると思ってるんだ。何様のつもりだ」

 彼の目は血走っていて、とてもまともに見られなかった。端正だったはずの顔は醜く歪んで見え、私が好きだった彼ではなかった。どうしてこんなことになったのだろう。考えても分からない。

 ずっと何かを言い続け、何を言っているのか聞き取れなくなり、やがて彼は泣き出した。その時になって、私はここから逃げようと思った。どうして思いつかなかったのだろう。とにかく走っていけば屋敷に辿り着くはずだ。道はよく分からないが、いずれは誰かに出会うだろう。その時に助けてもらえばいい。

「お嬢様」

 突然彼の声が変わった。いつもと同じ優しい声だった。

「さぁ、行きましょう」

 どこへ、と聞く暇もなく馬車は走り出した。経験したことがないくらいのスピードだ。何度も馬に鞭を使う音が聞こえる。馬が嘶いている。恐怖のまま、私はおかしな浮遊感を感じていた。
 


 
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