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第13話 頭でっかち、恋を計算する
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「東京駅のような赤レンガの建物です。烏丸通りの交差点の西南角にあるんです。それを背にして歩けば祭の中心から離れられると思って東に向かって前に進んだのに、同じ建物の正面玄関に出たんです!」
その男性が大きく笑った。この人が笑うのを初めて見た。心底愉快そうに面白げに笑う。彼は一重瞼で、しかもそれが重たげなので人相が悪く見えるのだが、笑うとその眼が糸のように細くなってとても優しそうに見える。
「それはタツノシキだからだよ」
「は?」
それはタツノオトシゴの仲間か何か?
「俺が君を見つけたのは『文化博物館』の正面玄関だ。君が最初に見た『小さな東京駅』は三条烏丸交差点にある『みずほ銀行』に違いない。三条烏丸から三条通を東にまっすぐ歩けば文化博物館の前に出る。この二つは別の建物だ」
「でも、そっくりです。両方とも東京駅に似ています」
「それは建築家が同じだからだよ。みずほ銀行と文化博物館と東京駅、この三つの建物は全て辰野金吾《たつのきんご》という建築家による設計なんだ」
「そうなんですか」
「彼の建築は赤煉瓦に白い帯が特徴的でね。それを俗に『辰野式』と呼ぶ」
「ああ!」
「君は別に妖にたぶらかされたわけじゃないよ。泣き出しそうでも建築の特徴を掴んで正しく辰野式を見分けたんだから、なかなかの観察力だな」
その人は面白そうな顔で続ける。
「赤煉瓦なら途中に中京郵便局もあったと思うけど」
「左手のクラシックな建物ですね? でも、この建物は地面から高い位置まで白い石が使われていて赤煉瓦はその上です。そして横縞でもありません」
「ほうほう」
「赤煉瓦でしたら今出川通の同立大学のキャンパスにもありますけど、それとも雰囲気が違いますし……」
「どう違うと思う?」
「ええと。バスから見える建物は少し幾何学的で真面目な感じです。やはり大学の学び舎だからでしょうか。それに比べて辰野式というのは華やかだと思います」
「君が見たのは隣接する女子大の栄光館だね。うん、なるほどね。その感想ももっともだ」
実際、その人はうんうんと首を縦に振った。
「あのキャンパスには他にも個性の異なる様々な建築がある。下鴨に住んでるなら出雲路橋を渡れば近いから見に行ってみたらいい。同立大に知り合いがいたら有名な建築を教えてもらえると思うが……」
「あ! 知り合いいます。ウチの寮委員長さんが同立大です!」
「ええと、同立大の人と同じ寮なの?」
「ウチの寮は色んな大学から女子学生が集まっているんです」
その人の両目が再び糸のように細くなる。
「へえ、楽しそうだな」
「はい。資格取得に熱心な人も京都経済大学の人もいますし、えーと何て名前の大学か忘れましたが漫画学科の人もいます!」
「ああ宝華大だね。漫画学科があることは知っていたけどリアルに知り合いはいないなあ」
「寮で一緒だととても楽しいですよ。娯楽室の漫画から面白そうなのを選んでくださいますし」
「娯楽室?」
美希は娯楽室というものがあって漫画がたくさんあること、寮生はできるだけ紙媒体で購入して皆で共有していること、同じ部屋の和田さんも漫画好きだということなどを話した。
「その和田さんは西都大の法学部の先輩?」
「はい。他にも教育学部や理学部の人、あ、看護師さんで医学部に社会人入学をしてきた人もいます」
「いいなあ! 色んな大学の色んな専門の人がいて自分の分野の先輩もいて! 視野が広がりそうな理想の環境じゃないか」
「ありがとうございます!」
本当に興味深そうにその人は女子寮の話を聞いてくれる。会話が弾み、いつの間にか北大路駅を出てもバスに乗らずに一緒に東に歩き、あっという間に寮に着いてしまった。
「あの、ここです」
「ああ、このハーフティンバーの御屋敷の裏にボロい寮があるんだっけ?」
「はい」
その人は白河さんの御屋敷をじっと見つめた。
「この建築は……」
しかし、その男性が何かを言いかける前に、白河さんの家の前で立っている二人の背に藤原さんの「あれ、美希ちゃんもう帰ってきたの?」という声がかかった。
「あ! こちらが清水さんですね? 初めまして」
「いや、俺は清水という名ではなくて」
「は?」
そうだった。今日は清水さんと宵山デートのはずだった。それを思い出した美希の気分が一気に沈みこむ。
「俺は武田といいます。この人が連れの人とはぐれて道に迷ってしまったところに行きあわせました。俺も下宿に帰るところだったので一緒に帰ってきたんです」
言葉に詰まっている藤原さんに、武田と名乗った男性は存外に紳士的な辞去の挨拶を述べた。
「では。女子寮の前に男性が長居をするのも憚られるでしょうから、ここで失礼します」
美希は武田氏――なんとなく敬称を「氏」とつけたくなる――に慌ててお礼を言う。
「あ、あの、ありがとうございます」
「いや。交差点での自転車のサドルの件。初心者だというのにキツいこと言って悪かったと思っていたから。少し借りが返せてよかったよ」
武田氏があの出来事をそんな風に記憶していたとは意外だった。
氏は「じゃあ」と踵を返して歩き始めたが、途中で上半身だけ振りむいて片手を振る。美希が小さく片手で応えると、一つ頷いてから立ち去って行った。
そして――。
寮の食堂で寮生たちが美希を取り囲む。皆の顔に共通するのは当惑した表情だ。
藤原さんが「私の着付けのせいで時間に遅れたわけじゃないよね?」と念を押し、美希は首を横に振って「それはありません」と否定した。
由梨さんも口にする。
「清水さんの不機嫌な様子を見てスマホを確認したら待ち合わせ時刻ぴったりだったのだもの。こちらは何も悪くない」
新市さんは慎重な口ぶりだ。
「まあ、清水さんが言った通り、黒田さんに何か深刻なトラブルが降りかかっていたのかも知れない」
炭川さんが眉間に深い皺を刻む。
「だからって、普通自分の彼女を置いて行っちゃいます? それはおかしいですよ!」
「すごく緊急性が高いように見えたとか」
「だけど、美希ちゃんは京都の街を全く知らないんですよ? はぐれたら大変じゃないですか。現に道に迷って困ってたんだし!」
金田さんが息を吐いた。
「まあ、今のところは清水さんがどんな言い訳をしてくるのか、それを待とうか」
しかし、清水さんは何も連絡をしてこなかった。
翌日も、その翌日も、その次の日も。
寮のみんなは「今日は電話あった?」「メッセージは?」と心配してくれるが、音沙汰がない以上どうしようもない。
一週間、十日と経過するうち、寮生の間でも少し意見が分かれ始めてきた。
気になるならこちらから連絡すればいいのではないかというシンプルな意見ももちろんある。
だけど、金田さんをはじめとする何人かは「こちらから連絡するな」と言い張った。理由は「ナメられる」からだ。
「既に軽く見られてるわけじゃん。こちらから何も働きかけることはない。向こうが早く謝ってくるべき」
今日は看護師の朝子さんもいて「こっちが大人しくしてるとつけあがる人っているからねえ~」と言い、隣で由梨さんも頷いている。
だが、藤原さんは「でも……」ともの言いたげだ。
金田さんが「でも?」と先を促した。年長の金田さんに遠慮があるのか、藤原さんは自分の意見というより、美希の意向を尋ねてきた。
「美希ちゃんはどうしたい?」
「私は……清水さんに連絡するの怖いです」
「なんで?」
「私に連絡したくない時に私から連絡したら、不愉快に思われて嫌われてしまいそうで……」
「うーん?」
「それに、清水さんは自宅生です。清水さんのご家族にどう思われるかも心配です。男性に積極的だと思われて、だから下宿する女の子は『ふしだら』だと思われたりしたら……」
「『ふしだら』て大げさな」
「母は女性の一人暮らしにいい顔をしません。きちんとした家の子じゃないと言います」
新市さんが「そんなの」と言いかけたが、朝子さんが「私たち世代は何も思わなくても年配の人だとありえなくもない感覚かな」とコメントした。
それに、と美希は続ける。
「女性の私から働きかけるのを清水さん自身も『はしたない』と思うかもしれませんし、物欲し気に見られてしまいそうで……」
金田さんが肩を竦める。
「『はしたない』と思われるかどうかなんか気にすることないけど、『物欲しげ』だと思われるとナメられるから良くない」
藤原さんがやはり美希の意向を確認する。
「連絡を取らなくて不安にならない?」
「私から連絡することで悪く思われるリスクの方が怖いです。それに」
美希はこの間から考えていたことを話そうと思った。
「考えてたんです……清水さんは私より黒田さんの方が好きなのかどうか……」
皆が気まずそうに黙った。この展開で誰もが思い浮かべるからだろう。
「でも、美希ちゃんが何をしたわけでもないのに清水さんの方から美希ちゃんを好きになったと告白してきたんだからさ。美希ちゃんを好きなのは確かだよ」と言う藤原さんに、筧さんも「本当は黒田さんが好きなのに、代わりに美希ちゃんに交際を申し込むなんて、そんなあくどいことはしないでしょう」と言い添える。
美希はテーブルの上で両手を組んだ。
「ありえないはずです」
ここにいる皆に口に出すことで、自分に対しても言い聞かせたかった。
「そうだよ、そこまで清水さんも酷いことをするような人じゃない……」
「私は黒田さんの代わりになりえません」
「……」
「私は黒田さんみたいな威厳もないし、大人っぽくもない。黒目勝ちの大きな目でもありません」
筧さんは黒田さんに似た服を一緒に選んでくれたことがある。
「まあ、同じ西都大の文系でも服の趣味からして違うタイプみたいだもんね」
「ええ、違います。黒田さんと黒田さんの彼氏さんは二人とも華やかでわゆる『リア充』な方々。お似合いです。けれど清水さんは……」
続きは河合さんが「地味でモテなさそうな男性だ」と引き取る。
「そうです。どう考えても黒田さんとは別世界の人です。あんなに女性に縁のない清水さんがここで私をふってしまうと、今後もいつ女性と交際できるか……」
「……」
「ゆえに清水さんが現時点で私をふる可能性も小さいと考えられます。清水さんなら、同じ異性と縁のない地味な世界の住人どうし、私で我慢するだろうと思うんです」
藤原さんが「我慢?」と聞き返した。
「はい、私で『手を打つ』というか『妥協する』というか」
皆がそれぞれに何かを言いたげな顔をしながら、それでも言葉が見つからないと言った様子で沈黙する。
藤原さんがふうと息を吐いた。
「要は『女性にモテない清水さんなら自分で満足するはずだ』と推測してるんだね。なんか……チェスとか将棋の対局みたいに相手の手の内を読もうとするんだねえ」
筧さんもうーんと唸り、炭川さんが「漫画にしづらいなあ。王道ラブコメの主人公には似合わない台詞だ。いや、別に美希ちゃんが悪いわけじゃないけど」と手にしていたメモを机に置いた。
藤原さんが美希をじっと見つめる。
「あのさ。『我慢』とか『手を打つ』とか『妥協』とか、自分のことをそんな風に言うのよしなよ。美希ちゃん、可愛いんだしさ」
金田さんは腕を組んでいた。
「私も藤原さんに部分的に賛成。その言い方は美希ちゃんが確かに卑屈になりすぎだと私も思う」
一方で……と金田さんはこうも言った。
「ただ、美希ちゃんも、清水さんのことをどうせモテない男性だって軽く見てはいるけどね」
その先も自分が批判されるのかと美希はそれを恐れたが、金田さんは「ふん」と鼻を鳴らした。
「いいじゃん。彼は彼で随分とナメた真似したんだからおあいこだ。これでバランスが取れる」
「まあまあまあ」と大きな声を出したのは炭川さんだった。
「なんか金田さんも、美希ちゃんも考えすぎだって。さすが西都大学だけあって頭がいいからそうなるんだろうけどさあ。頭でっかち過ぎるよ。美希ちゃんが拗ねて連絡しないのはアリだと思うし、向こうから連絡してきたら思う存分喧嘩すればいいじゃん。うん、ケンカップルってのも漫画のパターンだ」
「はあ……」
新市さんが「そうだ」と何かを思いついた。
「今年の夏は東京の実家に帰らないんでしょう? 白河さんが家庭教師のバイトを探してたからやってみたらしたら? 気が紛れるよ」
筧さんが「いいじゃん」と賛成した。
「彼のことは向こうが連絡するまで脇に置いておいて、お金を稼いだ方が建設的だよ」
「連絡してこないままなら、どうなるんでしょう……」
「……」
その静寂を破ったのは、朝子さんのいつもどおりののんびりした声だった。
「まあ、ここで考えても仕方のないことは考えないでおこうよ」
こういう切り替えが人の命を預かる医療従事者に必要なことなのかもしれない。社会人経験もある朝子さんに敬意を表して、この場はお開きとなったのだった。
その男性が大きく笑った。この人が笑うのを初めて見た。心底愉快そうに面白げに笑う。彼は一重瞼で、しかもそれが重たげなので人相が悪く見えるのだが、笑うとその眼が糸のように細くなってとても優しそうに見える。
「それはタツノシキだからだよ」
「は?」
それはタツノオトシゴの仲間か何か?
「俺が君を見つけたのは『文化博物館』の正面玄関だ。君が最初に見た『小さな東京駅』は三条烏丸交差点にある『みずほ銀行』に違いない。三条烏丸から三条通を東にまっすぐ歩けば文化博物館の前に出る。この二つは別の建物だ」
「でも、そっくりです。両方とも東京駅に似ています」
「それは建築家が同じだからだよ。みずほ銀行と文化博物館と東京駅、この三つの建物は全て辰野金吾《たつのきんご》という建築家による設計なんだ」
「そうなんですか」
「彼の建築は赤煉瓦に白い帯が特徴的でね。それを俗に『辰野式』と呼ぶ」
「ああ!」
「君は別に妖にたぶらかされたわけじゃないよ。泣き出しそうでも建築の特徴を掴んで正しく辰野式を見分けたんだから、なかなかの観察力だな」
その人は面白そうな顔で続ける。
「赤煉瓦なら途中に中京郵便局もあったと思うけど」
「左手のクラシックな建物ですね? でも、この建物は地面から高い位置まで白い石が使われていて赤煉瓦はその上です。そして横縞でもありません」
「ほうほう」
「赤煉瓦でしたら今出川通の同立大学のキャンパスにもありますけど、それとも雰囲気が違いますし……」
「どう違うと思う?」
「ええと。バスから見える建物は少し幾何学的で真面目な感じです。やはり大学の学び舎だからでしょうか。それに比べて辰野式というのは華やかだと思います」
「君が見たのは隣接する女子大の栄光館だね。うん、なるほどね。その感想ももっともだ」
実際、その人はうんうんと首を縦に振った。
「あのキャンパスには他にも個性の異なる様々な建築がある。下鴨に住んでるなら出雲路橋を渡れば近いから見に行ってみたらいい。同立大に知り合いがいたら有名な建築を教えてもらえると思うが……」
「あ! 知り合いいます。ウチの寮委員長さんが同立大です!」
「ええと、同立大の人と同じ寮なの?」
「ウチの寮は色んな大学から女子学生が集まっているんです」
その人の両目が再び糸のように細くなる。
「へえ、楽しそうだな」
「はい。資格取得に熱心な人も京都経済大学の人もいますし、えーと何て名前の大学か忘れましたが漫画学科の人もいます!」
「ああ宝華大だね。漫画学科があることは知っていたけどリアルに知り合いはいないなあ」
「寮で一緒だととても楽しいですよ。娯楽室の漫画から面白そうなのを選んでくださいますし」
「娯楽室?」
美希は娯楽室というものがあって漫画がたくさんあること、寮生はできるだけ紙媒体で購入して皆で共有していること、同じ部屋の和田さんも漫画好きだということなどを話した。
「その和田さんは西都大の法学部の先輩?」
「はい。他にも教育学部や理学部の人、あ、看護師さんで医学部に社会人入学をしてきた人もいます」
「いいなあ! 色んな大学の色んな専門の人がいて自分の分野の先輩もいて! 視野が広がりそうな理想の環境じゃないか」
「ありがとうございます!」
本当に興味深そうにその人は女子寮の話を聞いてくれる。会話が弾み、いつの間にか北大路駅を出てもバスに乗らずに一緒に東に歩き、あっという間に寮に着いてしまった。
「あの、ここです」
「ああ、このハーフティンバーの御屋敷の裏にボロい寮があるんだっけ?」
「はい」
その人は白河さんの御屋敷をじっと見つめた。
「この建築は……」
しかし、その男性が何かを言いかける前に、白河さんの家の前で立っている二人の背に藤原さんの「あれ、美希ちゃんもう帰ってきたの?」という声がかかった。
「あ! こちらが清水さんですね? 初めまして」
「いや、俺は清水という名ではなくて」
「は?」
そうだった。今日は清水さんと宵山デートのはずだった。それを思い出した美希の気分が一気に沈みこむ。
「俺は武田といいます。この人が連れの人とはぐれて道に迷ってしまったところに行きあわせました。俺も下宿に帰るところだったので一緒に帰ってきたんです」
言葉に詰まっている藤原さんに、武田と名乗った男性は存外に紳士的な辞去の挨拶を述べた。
「では。女子寮の前に男性が長居をするのも憚られるでしょうから、ここで失礼します」
美希は武田氏――なんとなく敬称を「氏」とつけたくなる――に慌ててお礼を言う。
「あ、あの、ありがとうございます」
「いや。交差点での自転車のサドルの件。初心者だというのにキツいこと言って悪かったと思っていたから。少し借りが返せてよかったよ」
武田氏があの出来事をそんな風に記憶していたとは意外だった。
氏は「じゃあ」と踵を返して歩き始めたが、途中で上半身だけ振りむいて片手を振る。美希が小さく片手で応えると、一つ頷いてから立ち去って行った。
そして――。
寮の食堂で寮生たちが美希を取り囲む。皆の顔に共通するのは当惑した表情だ。
藤原さんが「私の着付けのせいで時間に遅れたわけじゃないよね?」と念を押し、美希は首を横に振って「それはありません」と否定した。
由梨さんも口にする。
「清水さんの不機嫌な様子を見てスマホを確認したら待ち合わせ時刻ぴったりだったのだもの。こちらは何も悪くない」
新市さんは慎重な口ぶりだ。
「まあ、清水さんが言った通り、黒田さんに何か深刻なトラブルが降りかかっていたのかも知れない」
炭川さんが眉間に深い皺を刻む。
「だからって、普通自分の彼女を置いて行っちゃいます? それはおかしいですよ!」
「すごく緊急性が高いように見えたとか」
「だけど、美希ちゃんは京都の街を全く知らないんですよ? はぐれたら大変じゃないですか。現に道に迷って困ってたんだし!」
金田さんが息を吐いた。
「まあ、今のところは清水さんがどんな言い訳をしてくるのか、それを待とうか」
しかし、清水さんは何も連絡をしてこなかった。
翌日も、その翌日も、その次の日も。
寮のみんなは「今日は電話あった?」「メッセージは?」と心配してくれるが、音沙汰がない以上どうしようもない。
一週間、十日と経過するうち、寮生の間でも少し意見が分かれ始めてきた。
気になるならこちらから連絡すればいいのではないかというシンプルな意見ももちろんある。
だけど、金田さんをはじめとする何人かは「こちらから連絡するな」と言い張った。理由は「ナメられる」からだ。
「既に軽く見られてるわけじゃん。こちらから何も働きかけることはない。向こうが早く謝ってくるべき」
今日は看護師の朝子さんもいて「こっちが大人しくしてるとつけあがる人っているからねえ~」と言い、隣で由梨さんも頷いている。
だが、藤原さんは「でも……」ともの言いたげだ。
金田さんが「でも?」と先を促した。年長の金田さんに遠慮があるのか、藤原さんは自分の意見というより、美希の意向を尋ねてきた。
「美希ちゃんはどうしたい?」
「私は……清水さんに連絡するの怖いです」
「なんで?」
「私に連絡したくない時に私から連絡したら、不愉快に思われて嫌われてしまいそうで……」
「うーん?」
「それに、清水さんは自宅生です。清水さんのご家族にどう思われるかも心配です。男性に積極的だと思われて、だから下宿する女の子は『ふしだら』だと思われたりしたら……」
「『ふしだら』て大げさな」
「母は女性の一人暮らしにいい顔をしません。きちんとした家の子じゃないと言います」
新市さんが「そんなの」と言いかけたが、朝子さんが「私たち世代は何も思わなくても年配の人だとありえなくもない感覚かな」とコメントした。
それに、と美希は続ける。
「女性の私から働きかけるのを清水さん自身も『はしたない』と思うかもしれませんし、物欲し気に見られてしまいそうで……」
金田さんが肩を竦める。
「『はしたない』と思われるかどうかなんか気にすることないけど、『物欲しげ』だと思われるとナメられるから良くない」
藤原さんがやはり美希の意向を確認する。
「連絡を取らなくて不安にならない?」
「私から連絡することで悪く思われるリスクの方が怖いです。それに」
美希はこの間から考えていたことを話そうと思った。
「考えてたんです……清水さんは私より黒田さんの方が好きなのかどうか……」
皆が気まずそうに黙った。この展開で誰もが思い浮かべるからだろう。
「でも、美希ちゃんが何をしたわけでもないのに清水さんの方から美希ちゃんを好きになったと告白してきたんだからさ。美希ちゃんを好きなのは確かだよ」と言う藤原さんに、筧さんも「本当は黒田さんが好きなのに、代わりに美希ちゃんに交際を申し込むなんて、そんなあくどいことはしないでしょう」と言い添える。
美希はテーブルの上で両手を組んだ。
「ありえないはずです」
ここにいる皆に口に出すことで、自分に対しても言い聞かせたかった。
「そうだよ、そこまで清水さんも酷いことをするような人じゃない……」
「私は黒田さんの代わりになりえません」
「……」
「私は黒田さんみたいな威厳もないし、大人っぽくもない。黒目勝ちの大きな目でもありません」
筧さんは黒田さんに似た服を一緒に選んでくれたことがある。
「まあ、同じ西都大の文系でも服の趣味からして違うタイプみたいだもんね」
「ええ、違います。黒田さんと黒田さんの彼氏さんは二人とも華やかでわゆる『リア充』な方々。お似合いです。けれど清水さんは……」
続きは河合さんが「地味でモテなさそうな男性だ」と引き取る。
「そうです。どう考えても黒田さんとは別世界の人です。あんなに女性に縁のない清水さんがここで私をふってしまうと、今後もいつ女性と交際できるか……」
「……」
「ゆえに清水さんが現時点で私をふる可能性も小さいと考えられます。清水さんなら、同じ異性と縁のない地味な世界の住人どうし、私で我慢するだろうと思うんです」
藤原さんが「我慢?」と聞き返した。
「はい、私で『手を打つ』というか『妥協する』というか」
皆がそれぞれに何かを言いたげな顔をしながら、それでも言葉が見つからないと言った様子で沈黙する。
藤原さんがふうと息を吐いた。
「要は『女性にモテない清水さんなら自分で満足するはずだ』と推測してるんだね。なんか……チェスとか将棋の対局みたいに相手の手の内を読もうとするんだねえ」
筧さんもうーんと唸り、炭川さんが「漫画にしづらいなあ。王道ラブコメの主人公には似合わない台詞だ。いや、別に美希ちゃんが悪いわけじゃないけど」と手にしていたメモを机に置いた。
藤原さんが美希をじっと見つめる。
「あのさ。『我慢』とか『手を打つ』とか『妥協』とか、自分のことをそんな風に言うのよしなよ。美希ちゃん、可愛いんだしさ」
金田さんは腕を組んでいた。
「私も藤原さんに部分的に賛成。その言い方は美希ちゃんが確かに卑屈になりすぎだと私も思う」
一方で……と金田さんはこうも言った。
「ただ、美希ちゃんも、清水さんのことをどうせモテない男性だって軽く見てはいるけどね」
その先も自分が批判されるのかと美希はそれを恐れたが、金田さんは「ふん」と鼻を鳴らした。
「いいじゃん。彼は彼で随分とナメた真似したんだからおあいこだ。これでバランスが取れる」
「まあまあまあ」と大きな声を出したのは炭川さんだった。
「なんか金田さんも、美希ちゃんも考えすぎだって。さすが西都大学だけあって頭がいいからそうなるんだろうけどさあ。頭でっかち過ぎるよ。美希ちゃんが拗ねて連絡しないのはアリだと思うし、向こうから連絡してきたら思う存分喧嘩すればいいじゃん。うん、ケンカップルってのも漫画のパターンだ」
「はあ……」
新市さんが「そうだ」と何かを思いついた。
「今年の夏は東京の実家に帰らないんでしょう? 白河さんが家庭教師のバイトを探してたからやってみたらしたら? 気が紛れるよ」
筧さんが「いいじゃん」と賛成した。
「彼のことは向こうが連絡するまで脇に置いておいて、お金を稼いだ方が建設的だよ」
「連絡してこないままなら、どうなるんでしょう……」
「……」
その静寂を破ったのは、朝子さんのいつもどおりののんびりした声だった。
「まあ、ここで考えても仕方のないことは考えないでおこうよ」
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無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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