京都市左京区下鴨女子寮へようこそ!親が毒でも彼氏がクソでも仲間がいれば大丈夫!

washusatomi

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第24話 夢は大きく!

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 長楽館を出たのは夕方だ。褐色の日差しが桜を主とする円山公園の樹木を照らしていた。秋を迎えて気の早い何本かはもう色づき始めている。

 美希はこの辺りに来たことがない。観光の名所だが、逆に言えば観光目的でもなければ来ることもない。せっかくだから武田氏と別れたら少し散策してみよう。そう思ったのは氏の方も同じで「ちょっと歩いて帰ろうか」と声を掛けてくれた。美希は嬉しくなって「いいですねえ」と微笑んだ。

 円山公園を抜け、知恩院の豪壮な三門の前を通り、青蓮院前の楠の巨木を右に見やりながら坂を下っていくと、北に続く道の先に平安神宮の巨大な鳥居が目に入る。その近辺は岡崎公園といい、東京の上野公園のように美術館やホールなどの文化施設が立ち並ぶ。

 神宮道の疎水を渡ると、氏が右と左の建物を指さした。

「左にあるのが国立近代美術館」

「現代的なデザインですね」

「右が京都市立美術館で、今は京セラ美術館という」

 二人がさらに北に歩くと、京セラ美術館の中央入口の正面まで来た。

「なんだか、この建物は東京の国立博物館に似ていますね」

 氏の瞳に興味深そうな光がさし、「どんなところを見てそう思う?」と尋ねてきた。

「ええと。西洋風の建物に日本の瓦屋根を載せているところが同じです」

 うんうんと氏は頷く。

「そうだ。これを帝冠様式と呼んだりする。この呼称や建築史上の位置づけについて語るべきことは多々あるが、ともあれ、東京国立博物館と類似性があるという君の認識は正しい」

「はい」

 こちらが……と氏は近代美術館の北隣に立つ建物を指した。クラシックな外壁を持つものの、その背後は近代的なビルになっている。

「府立図書館だ。もとは武田五一の設計でそれが今でも壁面保存されている」

「部分的でも残って良かったですね」

「長楽館は明治の時点での伝統的な建築様式を取り入れたものだ。だが、この府立図書館はそれより新しいセセッションの影響を受けている」

「セセッション?」

「セセッションとは分離派といい、伝統から離れて新しい建築を模索する動きだ。この府立図書館でも古典的な意匠が平面的で抽象的な表現に変わっている。ええと、つまりなんとなく絵画っぽい印象を受けないか?」

「あ、そう言われれば平べったい……。でも、その分軽快な印象ですね」

 氏は「そうそう」と楽し気に頷く。

「建築史をざっくり把握してもらうため、細部の正確性を犠牲にして説明するなら」

「はい」。

「長楽館の伝統的な様式の次に府立図書館のセセッション。そして、日本では鉄筋コンクリートに瓦屋根を載せる帝冠様式が一時期流行する。そして戦後は近代建築の時代だ。ここで俺は『近代建築』を古典的な装飾がないという意味で使うが」

 氏は府立図書館の北の児童公園を斜めに抜けて、その先の建物を指す。

「あの建物が京都会館。今はロームシアター京都という。前川國男の近代建築だ」

「ああ、確かにこれはクラシックな装飾はないですもんね。これが近代建築。そしてさらに新しい現代建築がさっき見た国立近代美術館ですね?」

 氏は我が意を得たりと目を細める。

「すごいですねえ。岡崎公園って建築作品の巨大展示場のようです」

「な? 見どころだろう?」

 公園を見渡す氏の視線はどこか愛情深く、美希もその気持ちが理解できる気がした。

「それぞれに魅力的な個性があるんですね。私一人だったら、ここに来ても各々の特徴に気づかず全部大雑把に『昔の建物』と一括りにしてぼうっと通り過ぎていたでしょう。もったいないことをするところでした」

 美希はぴょこんと頭を下げ、弾む声でお礼を言った。

「ありがとうございます!」

「どういたしまして。これでまた一段と君の解像度が上がったのに役に立てれば俺も嬉しい」

「ええ、もちろんです! 明治から現代までの建築史が実物と一緒に頭に入りました!」

 嬉しそうだねと微笑む氏もまた何かに喜んでいる風だった。

「君は新しいことを知るのが本当に楽しそうで、何かを教えた側のこちらも楽しくなる」

「私も誰かに新しいことを教えるの好きです」

 氏が寮に帰ったらみんなに話してみるといいと提案してくれて、美希も必ずそうしようと思う。きっと、皆も面白がってくれるだろう。
 
 二人は最寄りの東山二条のバス停で206系統を待つ。この路線は西都大学のキャンパスを通って北に出るものだ。

「武田さんが西都大学を出て建築家になったら、自分の作品が岡崎公園に並ぶかも、ですね」

 氏は少し顎を引く。

「言うことが気宇壮大だなあ」

「そうですか?」

「大胆不敵。荒唐無稽。誇大妄想……の域だぞ」

 色んな四字熟語が出てくるが、最後の「妄想」はどうかと思う。

「妄想じゃなくて夢です。夢は大きく持たなくちゃ!」

「夢、夢かあ。まあ、夢のスケールは大きい方がいいかもなあ……」

 氏は視線を外して東大路の向こう側を見やり、それから真面目な顔を美希に向けた。

「あんなところに並ぶような建築を手掛けられるなどと大それたことは思っていないが、俺にも、時代を画するような作品を作ってみたいという野望はあるんだ」

「いいじゃないですか!」

「大学院の修士を終えたら、実験的な試みができる環境からスタートしたい。小さくても個性的な作品に挑戦しているような事務所に就職したいんだ。大手に就職するより経済的には厳しいかもしれないが……」

「収入が少なくたってやりくりすれば大丈夫です。FPの筧さんにアドバイスを貰いましょう」

「そうだな。俺は食べていければそれで十分だ。是非、筧さんに節約生活のノウハウを教わろう」

 そういえば、美希は大事なことを聞いていなかった。

「これまで私の少女趣味ばかり聞かせて、武田さんのご趣味はお聞きしてませでしたね。武田さんはどんな建築をしたいですか?」

 氏は腕を組んで考え込む。

「確かに俺は個性的な建築をやりたい。だが、個性って言うのは俺単独の個性じゃなくて……。まだ学部の二回生に過ぎない俺の個性なんて固まってもいないし、若造と呼ばれるうちなんてそんなものだろう……」

「……」

 氏が身体ごと向き直って、眼光鋭く美希を見据えた。これは真剣な話なのだ、と美希も身をぐっと引き締める。

「俺は、俺の個性を超えたものをつくりたい。施主さんの個人的な趣味を最大限活かして、それでいて普遍的な芸術性を備えたようなものを造りたいんだ。相手と互いに互いの創造力を最大に引き出せるような関係性の中から、誰も見たことのない新しいものを見つけていきたい」

 そこまで一息に言い終わると、氏は少し顔を赤らめて視線を外した。

「キザかな」

 美希は即座に首を振る。

「いいえ、いいえ!」

 単なる格好つけだなんて全く思わない。いい建築家を目指して氏が地に足のついた努力をしていることを美希は既に知っている。美術史に建築法規。たくさん勉強してきた人だ。その上ウィリアム・モリスの世界を見るためイノブンの前で頑張っていた。苦手な「女の子らしい」世界にも足を踏み入れて、良さを理解しようとするその努力。涙ぐましいと言わずして何と言おう。

 この人はきっと新しい建築を見つけていく。そうであってほしい。

「武田さんの頑張りはとてもカッコイイです。きっときっといい建築家になれます!」

 氏は「ありがとう」と礼を言いながらも、苦い顔で頭を掻きむしる。

「だが、施主さんたちと協調して作品を作り上げたいと大言壮語するくせに、俺ときたらある種の女性を苦手としている」

「……」

「女性の施主さんが長楽館のロココのような部屋を所望されるかもしれない。そんな施主さんと俺は上手くやっていけるのか。自分と異質な相手ともコミュニケーションを図り、その中から創造的な建築を生み出すのが優れた建築家だと俺は思っているのに、それなのに俺は……」

 美希は思わず両手の拳を小さく握って励ます。

「これからじゃないですか。私が、偽装彼女のこの私が! 武田さんの苦手な世界にどんどん連れて行ってあげますから! まだ二回生なんですから二人であちこちに行きましょう!」

「……そうだな」

「まずはマンガミュージアムで『ベルばら』を読みましょう。あ、そうだ! 武田さんが写真撮影できない女性の空間と言えば……」

 美希は自分のスマホを取り出した。氏に良かれと思って撮影した写真がある。

「長楽館の女性トイレに素敵なステンドグラスがあったので写真を撮っておきました。ほら」

 美希が画面をかざす。

「お、おい、ちょっ!」

 氏は歩道からはみ出すほど遠くに後ずさった。

「俺にそんな写真を見せようとするな! 俺は女性用トイレを覗くような変質者じゃないっ!」
 
 その日の夕食。美希の食卓に寮生が集まっていた。

 新市さんが美希のスマホの画像をスワイプしていく。

「で。その長楽館の女性トイレのステンドグラスの写真を、男性の武田氏が目にして大丈夫かどうか下鴨寮生で審議してくれ……と?」

「はい。第三者かつ複数の女性の許可が欲しいんだそうです。女子トイレの画像を所有するなんて猥褻だとおっしゃって……」

 横から筧さんが手を伸ばす。

「まあ、確かにねえ。考えようによっちゃ、まるで武田氏が美希ちゃんを使って女子トイレを盗撮したかのように受け取られかねないからね」

 筧さんも画像を一通り見た。

「どの画像にも女性の姿も個室の中も写り込んでない。ただの窓しかないから大丈夫だと思うけど」

 由梨さんが筧さんの手の中のスマホを覗き込む。

「それでも女性用トイレに入った人しか撮影できない画像ではあるわね。男性としてはそれを自分で所持しているのが落ち着かないかも。ねえ、氏のローカルPCではなく、私たちと共有のファイルを作ってそこに保存しておけばどうかしら?」

 金田さんも「そうだね、皆がアカウントを持ってるならグーグルとかで」と言い添えた。

 炭川さんが美希を見る。

「ねえ。ファイルの共有と一緒に氏にメッセージを送れたら、私からお礼を言いたいんだけど」

「何のお礼ですか?」

「漫画を描く資料写真もいろいろ制約があるのよ。既に出版された本の写真をそのまま使うとパクリとかトレスとか言われかねないし。美希ちゃんが私的に写真を撮って来てくれて助かったんだ。で、その費用は武田氏持ちだからお礼を言わなくちゃ」

「そうですね……」

 由梨さんが炭川さんに声を掛けた。

「そう言えば、炭ちゃん、著作権法のことを和田さんに相談してたことなかったっけ?」

「ああ、去年の夏に聞いた聞いた。その時に著作権法入門的な本は何冊か買ったよ。そう言えば、フランソア喫茶室で、武田氏が具体例に接したら美希ちゃんの学習意欲が湧くだろうって言ったってね。貸そうか?」

「ぜひ!」

「うへへ。西都大の人に勉強の本を貸すとはね~。自分が偉くなったような気がするよ」

 筧さんも言う。

「FPの試験勉強でも法律はちょくちょく出てくるからさ。該当箇所に付箋貼って後で部屋まで持って行くよ」

「お願いします!」

 新市さんが「部屋と言えば」ともっと根本的なことを指摘する。

「武田氏の言うとおり同室の和田さんに聞いてみなよ。こういうことがあるから専門の近い人同士を同じ部屋にしてるんだし」

「はい!」
 
 和田さんに電話をしてみた。そろそろ院試が近いが相変わらず朗らかな声だ。

「ああ、抽象的な基本がとっつきにくいのって分かりますよ~。その武田さんの言うとおりです。私も炭ちゃんや筧さんと話していて、著作権や金融関係の個別具体的な分野での法律の役割を知って面白かったですし、そうすることで基本的な法学の勉強の必要性を改めて感じました」

「先輩もそうだったんですね」

「私のベッドの足元の収納スペースに本をしまってあります。院試に使わないですから自由に読んでみて下さい」

「勝手に見ていいんですか?」

「もちろんです。あ、段ボール箱に詰めちゃってますけど開けていいですから」

「ありがとうございます」
 

 部屋で和田さんの収納庫から段ボールを出していると、誰かが部屋をノックした。炭川さんが本を数冊持っている。さっき言っていた著作権関係だ。受け取って机の隅の本棚に並べる美希に、炭川さんが話しかけてきた。

「あのさ、武田氏のことで思ったんだけどさ。氏も独立志向なんだよね?」

「そうですね」

「私もフリーランスのマンガ家志望だからさ。だからこそ学生の内から著作権法とか知っとかないとって思うんだよ。それに、将来デビューしたらさ。漫画家って読者に夢を売る仕事じゃん? ヘンな不祥事なんか起こさないように気をつけなきゃとも思ってる」

 美希は手を止めて、どちらかと言えば童顔に見える彼女を見つめた。

「炭川さん、もう社会に出てからのことを考えてるんですか」

「会社に勤めたい人は、社会人としてのお作法とか会社が教えてくれるから大学生活はモラトリアムだろうけど、フリーランスはそうじゃない。自分で大学時代から準備しておかないとね」

「炭川さん、偉いです……とても」

「えへへ。そう言われると嬉しいなあ。それ、武田氏にも言ってあげなよ。女子用トイレの画像に慎重なのもさ、将来信用第一の職業を目指しているからだと思うんだ。未来の建築家に女子トイレの盗撮疑惑なんてあったら困るからね」

「そう、ですか。そうですね」

 大人だなあと思う。炭川さんも、武田氏も。

「武田さんって意外に思慮深い男性なのかもよ。ちょっと言動が変わってるけど」

「真面目で一生懸命な人だと思います。少し空回り気味なところもありますが」

 空回りという言葉に炭川さんは吹き出した。

「なんか健気な人だよねえ。私たちも氏のために出来ることをしてあげたくなるよ。あ、由梨さんが共有ファイル用意してくれたよ。リケジョだからウチの寮で一番ITに強いんだ」

 そうだった。

「一緒にマンガミュージアムに行ったときに伝えておきます」

「うん、そうしなよ」
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