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第26話 材木の森
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可愛い雑貨に満ちたイノブン北山店。そこに思わぬお客がいた。ティーカップを手に取って眺めている、白い髪を綺麗にセットしたあのご婦人は……。
「白河さん?」
「ああ、北村さんかいな」
白河さんは美希の隣の武田氏にも微笑みかける。
「そちらさんが偽装彼氏さんどすな? 初めまして。下鴨女子寮の大家の白河と言います」
「え?」
何でご存知なんだろう。白河さんはティーカップを持ったまま笑みを深くする。
「女子寮の噂は耳に入ってきますえ。手の空いてる寮生を誘ってお茶会してますし」
「お茶会……」
「ウチ、紅茶にうるさいんやけど、こだわって淹れたお紅茶を一人で飲むのもつまらへん。せやから女子寮のメンバーを誘うんやわ。そうやって最新の話題にアップデートしてんねん」
洋館に住むだけあってハイカラな方だ。
「せや。偽装彼氏さんは武田さんて言うんでしたな。今度ウチにお茶飲みに来はりませんか?」
氏の咽仏がゴクリと動いた。美希はてっきり断るものとばかり思っていたが……。
「あのハーフティンバーの邸宅の内部に僕を入れていただけるんですか?」
「そうどす。建築学科の人には面白おますやろ」
「それはもう。あの建築、烏丸丸太町に昭和初期に建てられた『大丸ヴィラ』を意識してませんか?」
「そうそう。大丸百貨店の社長はんが建てはったアレ。ヴォーリズさんの設計やそうで。ウチの主人もヴォーリズ建築のファンで出来るだけ似せましたんや」
氏は話題に置いてきぼりの美希に気を使ってくれた。
「ヴォーリズは元々キリスト教の宣教に熱心な人物だが建築も出来て、多くの作品が日本に残っている。四条大橋のたもとにある東華菜館もそうだ」
「へえ……」
「そうだ。今度見に行こう。そういえばまだあの近くの喫茶ソワレにも行っていない」
白河さんがコロコロと笑った。
「建築学科の人とデートするのは楽しおますやろなあ」
「はい!」
隣で氏が真っ赤になって狼狽えている。ただの偽装彼氏なのだからそんなに照れることもないだろうに。
「建築が専門の学生さんなら、ウチの資料も面白いんやないかなあ」
「資料が残ってるんですか?」
「ええ、ウチの設計図だけやのうてヴォーリズ関係の資料もようけありますえ。この北山通には一時期『けったいな』建築が並んでましたけど、変なもんは取り壊されたりしてますやろ。せやけど、うちの主人はちゃんとしたモンを建てようとしたさかい、色々調べてましたんや。見に来はりませんか?」
氏は即答だ。
「ぜひ!」
「じゃあ、日時はまた決めましょ。それより今日はこれからどうしますのん?」
これには美希が答えた。
「南西の安藤忠雄さん設計の陶板名画の庭に行って、それから、中には入れませんが磯崎新さん設計の京都コンサートホールの外観を見て……」
「もちろん植物園にも行きますやろな」
「時間があれば……」
白河さんが商品の陳列されている素敵な木製テーブルをそっと指で撫でた。
「行かはった方がエエわ。建築学科の人は、杉とか檜とか樫とかの材木がどないな風に生えてるのかも知っといた方がええやろうし……」
ふふふ、と京女らしい含み笑いが零れる。
「植物園は静かで落ち着いた場所ですわ。建築の話だけやのうて、もっと北村さんと話すこともありますやろ?」
氏はとても真剣な顔でうんうんと首を縦に振った。
「ええ。植物園をじっくり見て回ります」
そうだろう。研究熱心な氏なら材木を知るのに生えている木の状態も把握したいに違いない。
植物園の西の入口から北に向かうと鬱蒼とした森が続く。常緑樹の葉が茂り、落葉樹の葉が色合いを変えている。街中だというのにとても静かで人もいない。人里離れた山の中で二人きりになったかのようだ。
しばらく無言で歩いた後で、氏が言葉を選びながら「北山通のけったいな建築」を話し始めた。
「北山通は市の中心から外れた場所で、比較的近年まで田畑が多かったくらいだ。昔は地下鉄も北大路までだったしね。それが北山を通って国際会館まで延伸されることになって、八十年代頃に商業ビルなどが建てられ始めた。バブル期と同じ時期だな」
「それが『けったい』だったんですか? 京言葉で『奇妙な』の意味ですよね?」
「ポストモダン建築の時代でね。機能優先の無味乾燥なモダン建築から脱しようと、奇抜なデザインのものが多かった」
「過去形ですか?」
「うん。取り壊されたものもあるからね」
氏のその声には、単に建築史の栄枯盛衰を語る以上に深い感情が込められているようだった。
「建築家が良かれと建てた作品でも歴史の風雪に耐えられるかは分からない。自分の作品が否定されるのは辛いだろうな」
「……」
「俺は甘ったれたことを言っているのかもしれない。どんな職業でも社会人となったら仕事がずっと順風満帆なだけではなく、こっぴどく辛い目に遭うことだってあるだろう。だから人は……傍に支えてくれる理解者を持ちたいと願うんだろうな」
前半と後半とで話題に飛躍があるような気がするが、それはともかく。
「少なくとも私は武田さんが建築にとても真摯な方だと知ってます。私が偽装彼女じゃなくなっても、私は武田さんを応援します」
氏は立ち止まった。森の向こうに明るい広場が垣間見える。その広場の縁にはベンチが据えられていた。
「座って話そうか」
「はい」
二人はベンチに並んで座る。そう言えば偽装とはいえ彼氏と彼女なのに、こうして二人で喋るためだけに腰を落ち着けたことはない。偽装デートはいつも、氏が苦手な世界の見学ツアーであり、美希はそのガイド役だった。
初めて何をする訳でもなく二人きりになった氏が何を話すのかと思えば、それは少女漫画の話だった。
「『べるばら』と『ガラかめ』を読んで思ったんだが」
「はい?」
美希の首は傾げられ、そして語尾も子犬のしっぽのように巻き上がる。いったい何の話だろう?
「女の子はみんな白馬の王子様を待っているだけかと思っていた。だけどオスカルは革命の理想に燃え、北島マヤは女優への道を進んでいく。アンドレも紫の薔薇の人も良き理解者としてヒロインを支えていて……。で、俺は安心したんだ」
「何にですか?」
「王子様には俺はなれない。俺は未熟な若造でしかないし、これからだって年齢相応に欠陥もあるオヤジにしかなれないだろう。だから王子様は俺には無理だ」
「……」
「だけど、夢や理想を持って自分で進む女性の伴走者にはなれるかもしれない」
美希はその前の話題とのつながりを探る。
「さっき、自分の建築が否定されて辛くても傍にいて支えてくれる理解者がいたらいいのにとおっしゃってましたね。そうですね、それぞれ一生懸命自分の人生を生きてそして励まし合える関係だといいですよね」
氏はコクコクと頷いた。美希はちゃんと氏の言わんとするところを汲み取っているらしい。だが、次の展開はあまりに唐突でついていけない。
「シェヘラザードって知ってる?」
「は? ええと、千夜一夜物語の? あまり詳しくは……アラジンとかシンドバッドとかと並んで納められてる話でしたっけ?」
「千夜一夜物語の中の登場人物だが、アラジンやシンドバットとは立ち位置が異なる」
「はあ……」
「昔の中東の暴虐な王様が、女性と一夜を過ごしてはすぐに殺していた。だが、シェヘラザードという女性はは毎夜次回に続く面白いお話をする。続きを聞きたい王は彼女を殺すことなく生かし続け、最後に正式な后にするんだ。アラジンとかの話はこのシェヘラザードが王様に語った物語だ。劇中劇というか」
「へええ」
「話を面白く語ることができる人間はとても魅力的だ。まず、登場人物に立体感を持たせるには他人に興味を寄せてその行動を注意深く観察する能力が備わっていなければならない。また、話している間も、聴き手の心の動きを丁寧に汲み取る能力が必要だ」
「ああ、自分の話がウケてるのかどうか確かめないといけませんしね」
「……その表現では些か話の格調が落ちる気もするが、まあ、そうだ。そして俺が言いたいのは、王様はシェヘラザードに本当に恋をしたのだろうということだ」
「……」
「面白くいろんな話を聞かせてくれる、話し上手な女性はとても魅力的だ。だから王様は本当の恋をしたんだ」
「恋ですか」
この四角四面な武田氏からそんな単語が出てこようとは。しかも、氏にしてはかなり踏み込んだ内容の質問をする。
「君は清水という男性のどこが好きだったんだ?」
氏の質問にも驚くが、その答えを胸の中に探そうにもほとんど何もないことにも美希は驚く。
「清水さんのどこがと言うより……。あの人は私を『可愛い』って言って下さったので。私が男の人から『可愛い』と評価されることなんて想像もしてなくて、それで……」
「『可愛い』と言われて好きになるなら、俺も言う」
そう宣言するわりに、氏はオタオタと視線を泳がせてつっかえつっかえだ。
「その……何だ……俺だって君を、か、か、可愛いと思う」
「無理してお世辞を言わなくてもいいですよ。私はこんな地味な顔立ちですし」
氏ははっきりと溜息をついた。
「炭川さんが可愛いかどうかは造形だけでなく、雰囲気や人柄によると言っていたんだろう?」
「ですが客観的な美しさを私が備えているわけでは……」
「俺も君を絶世の美女とは言わん。だが、建築だってその良さを決めるのはデザインだけじゃない。美しいというより、好ましいと思われる建築が生き残る」
「好ましい……。でも、私性格も今一つですよ?」
そうだ、氏こそが美希の傲慢さを見抜いたではないか。
「大学近くの交差点のことを忘れたんですか? 私は男の人は女の子から頼みごとをされたら鼻の下を伸ばして引き受けるだろうと考えてた傲慢な人間です」
氏は淀みなく答えた。
「その件を俺も色々考えてみた。君は、君自身が今、道端でサドルの下げ方が分からない誰かに頼まれたらどうする?」
考えるより先に答えが口をついて出る。当然のことだ。
「教えてあげますよ。だって、今の私は自転車の椅子をサドルと呼ぶことも、レバーを引いてクルクル回せばいいことも知ってますから」
「そう、君ならそうするだろう。だから、他人も人が自分と同じような行動を取るだろうと君が思うことは全く悪くない」
「ええと……」
「君は親切で優しい人間だ。だから相手も親切で優しいだろうと思う。現に俺の友人も別に嫌だったわけじゃない。ただ、あいつはバイトの面接だったから……」
「人の時間は限られているのに手を煩わせようとした私が悪いんです……」
「それは友人が『今忙しいから』と断ればよかった話だ。君が、自分も他人も頼まれればサドルを下げてあげた方がいいと考えること自体は、正しくて善くて美しいことだ。あの一件は俺の行き過ぎだったと反省している」
これだけ能弁に語るのだから、氏はあの出来事を何度も思い返してくれたのだろう。
「君は自分をブスで性格が悪いと思っている。それは『歪んだ認知』だと寮で言われたんだろう? 認知を変えることは確かに難しい。しかし、君が『可愛く優しい魅力的な女性だ』と正しく扱われる経験を重ねれば変わっていくことが見込まれる。俺も最初は君のことを誤解したが、今は君のことを優しい女性だと思っている」
ここまで流れるように話すのに、氏は突然どもってしまう。
「だ、だ、だから。き、君は魅力的な女性で、だから俺……いや、僕は……」
一人称を「俺」から「僕」に変える氏に軽く驚いている美希のカバンの中から、スマホの着信音が流れてきた。
母だ。美希は氏にはそうと断り、スマホを取り出した。氏は素早く「スピーカーにして」と言う。
母は自宅にいるらしく声が大きい。植物園の静寂の中にその声が響く。こうして聞く母の粘ついた声は、どこか醜く感じられた。
「美希? ママね、京都に行こうかと思うのよ。そろそろ紅葉の季節でしょう?」
「お父さんは元気?」
母は一瞬「お父さん?」と怪訝そうな声を上げ、それから慌てて取り繕うかのように続ける。
「ああ、今は元気。会社にも毎日出かけているわ。でも一緒に旅行は無理よ。それでね……」
母はとりとめなく自分の身の回りのことを一方的に喋る。美希はただただ聞いているしかない。
氏が「彼氏とデート中だって言って。それから俺が出る」と囁いた。そうだ。母に偽装とはいえ彼氏がいるとアピールしなければ。
「あのね。今、か、か、彼氏とデートなの」
偽装だというのに何故か気恥しくつかえてしまう。そんな美希とは対照的に、電話を替わった氏は先ほどまでと打って変わって落ち着いた声だ。
「初めまして。武田と申します。美希さんとお付き合いさせていただいています」
母の声は一オクターブ高くよそ行きのものとなると同時に、狼狽が伝わってくる。
「先ほど下鴨女子寮の大家さんからお茶に誘われたんです。お母様もご一緒しませんか?」
「え……でも……」
以前に母と電話したとき、母は白河さんをはっきり苦手だと言っていた。
「京都まで観光に来ておいて、お嬢さんが世話になっている大家さんに挨拶しないわけにもいかないでしょう。お嬢さんのお住まいもご覧になりたいでしょうし」
「そ、そうですね」
母はとても体裁を気にする。こう言われてしまっては白河さんへの好悪を脇に置いて、女子寮に出向かざるをえない。
電話を終えた氏は、ちょっと考えてから美希に尋ねた。
「ここから下鴨女子寮まで歩いて十五分くらいかな?」
「え? そうですね」
「今から帰ってみんなで作戦会議をしよう」
「白河さん?」
「ああ、北村さんかいな」
白河さんは美希の隣の武田氏にも微笑みかける。
「そちらさんが偽装彼氏さんどすな? 初めまして。下鴨女子寮の大家の白河と言います」
「え?」
何でご存知なんだろう。白河さんはティーカップを持ったまま笑みを深くする。
「女子寮の噂は耳に入ってきますえ。手の空いてる寮生を誘ってお茶会してますし」
「お茶会……」
「ウチ、紅茶にうるさいんやけど、こだわって淹れたお紅茶を一人で飲むのもつまらへん。せやから女子寮のメンバーを誘うんやわ。そうやって最新の話題にアップデートしてんねん」
洋館に住むだけあってハイカラな方だ。
「せや。偽装彼氏さんは武田さんて言うんでしたな。今度ウチにお茶飲みに来はりませんか?」
氏の咽仏がゴクリと動いた。美希はてっきり断るものとばかり思っていたが……。
「あのハーフティンバーの邸宅の内部に僕を入れていただけるんですか?」
「そうどす。建築学科の人には面白おますやろ」
「それはもう。あの建築、烏丸丸太町に昭和初期に建てられた『大丸ヴィラ』を意識してませんか?」
「そうそう。大丸百貨店の社長はんが建てはったアレ。ヴォーリズさんの設計やそうで。ウチの主人もヴォーリズ建築のファンで出来るだけ似せましたんや」
氏は話題に置いてきぼりの美希に気を使ってくれた。
「ヴォーリズは元々キリスト教の宣教に熱心な人物だが建築も出来て、多くの作品が日本に残っている。四条大橋のたもとにある東華菜館もそうだ」
「へえ……」
「そうだ。今度見に行こう。そういえばまだあの近くの喫茶ソワレにも行っていない」
白河さんがコロコロと笑った。
「建築学科の人とデートするのは楽しおますやろなあ」
「はい!」
隣で氏が真っ赤になって狼狽えている。ただの偽装彼氏なのだからそんなに照れることもないだろうに。
「建築が専門の学生さんなら、ウチの資料も面白いんやないかなあ」
「資料が残ってるんですか?」
「ええ、ウチの設計図だけやのうてヴォーリズ関係の資料もようけありますえ。この北山通には一時期『けったいな』建築が並んでましたけど、変なもんは取り壊されたりしてますやろ。せやけど、うちの主人はちゃんとしたモンを建てようとしたさかい、色々調べてましたんや。見に来はりませんか?」
氏は即答だ。
「ぜひ!」
「じゃあ、日時はまた決めましょ。それより今日はこれからどうしますのん?」
これには美希が答えた。
「南西の安藤忠雄さん設計の陶板名画の庭に行って、それから、中には入れませんが磯崎新さん設計の京都コンサートホールの外観を見て……」
「もちろん植物園にも行きますやろな」
「時間があれば……」
白河さんが商品の陳列されている素敵な木製テーブルをそっと指で撫でた。
「行かはった方がエエわ。建築学科の人は、杉とか檜とか樫とかの材木がどないな風に生えてるのかも知っといた方がええやろうし……」
ふふふ、と京女らしい含み笑いが零れる。
「植物園は静かで落ち着いた場所ですわ。建築の話だけやのうて、もっと北村さんと話すこともありますやろ?」
氏はとても真剣な顔でうんうんと首を縦に振った。
「ええ。植物園をじっくり見て回ります」
そうだろう。研究熱心な氏なら材木を知るのに生えている木の状態も把握したいに違いない。
植物園の西の入口から北に向かうと鬱蒼とした森が続く。常緑樹の葉が茂り、落葉樹の葉が色合いを変えている。街中だというのにとても静かで人もいない。人里離れた山の中で二人きりになったかのようだ。
しばらく無言で歩いた後で、氏が言葉を選びながら「北山通のけったいな建築」を話し始めた。
「北山通は市の中心から外れた場所で、比較的近年まで田畑が多かったくらいだ。昔は地下鉄も北大路までだったしね。それが北山を通って国際会館まで延伸されることになって、八十年代頃に商業ビルなどが建てられ始めた。バブル期と同じ時期だな」
「それが『けったい』だったんですか? 京言葉で『奇妙な』の意味ですよね?」
「ポストモダン建築の時代でね。機能優先の無味乾燥なモダン建築から脱しようと、奇抜なデザインのものが多かった」
「過去形ですか?」
「うん。取り壊されたものもあるからね」
氏のその声には、単に建築史の栄枯盛衰を語る以上に深い感情が込められているようだった。
「建築家が良かれと建てた作品でも歴史の風雪に耐えられるかは分からない。自分の作品が否定されるのは辛いだろうな」
「……」
「俺は甘ったれたことを言っているのかもしれない。どんな職業でも社会人となったら仕事がずっと順風満帆なだけではなく、こっぴどく辛い目に遭うことだってあるだろう。だから人は……傍に支えてくれる理解者を持ちたいと願うんだろうな」
前半と後半とで話題に飛躍があるような気がするが、それはともかく。
「少なくとも私は武田さんが建築にとても真摯な方だと知ってます。私が偽装彼女じゃなくなっても、私は武田さんを応援します」
氏は立ち止まった。森の向こうに明るい広場が垣間見える。その広場の縁にはベンチが据えられていた。
「座って話そうか」
「はい」
二人はベンチに並んで座る。そう言えば偽装とはいえ彼氏と彼女なのに、こうして二人で喋るためだけに腰を落ち着けたことはない。偽装デートはいつも、氏が苦手な世界の見学ツアーであり、美希はそのガイド役だった。
初めて何をする訳でもなく二人きりになった氏が何を話すのかと思えば、それは少女漫画の話だった。
「『べるばら』と『ガラかめ』を読んで思ったんだが」
「はい?」
美希の首は傾げられ、そして語尾も子犬のしっぽのように巻き上がる。いったい何の話だろう?
「女の子はみんな白馬の王子様を待っているだけかと思っていた。だけどオスカルは革命の理想に燃え、北島マヤは女優への道を進んでいく。アンドレも紫の薔薇の人も良き理解者としてヒロインを支えていて……。で、俺は安心したんだ」
「何にですか?」
「王子様には俺はなれない。俺は未熟な若造でしかないし、これからだって年齢相応に欠陥もあるオヤジにしかなれないだろう。だから王子様は俺には無理だ」
「……」
「だけど、夢や理想を持って自分で進む女性の伴走者にはなれるかもしれない」
美希はその前の話題とのつながりを探る。
「さっき、自分の建築が否定されて辛くても傍にいて支えてくれる理解者がいたらいいのにとおっしゃってましたね。そうですね、それぞれ一生懸命自分の人生を生きてそして励まし合える関係だといいですよね」
氏はコクコクと頷いた。美希はちゃんと氏の言わんとするところを汲み取っているらしい。だが、次の展開はあまりに唐突でついていけない。
「シェヘラザードって知ってる?」
「は? ええと、千夜一夜物語の? あまり詳しくは……アラジンとかシンドバッドとかと並んで納められてる話でしたっけ?」
「千夜一夜物語の中の登場人物だが、アラジンやシンドバットとは立ち位置が異なる」
「はあ……」
「昔の中東の暴虐な王様が、女性と一夜を過ごしてはすぐに殺していた。だが、シェヘラザードという女性はは毎夜次回に続く面白いお話をする。続きを聞きたい王は彼女を殺すことなく生かし続け、最後に正式な后にするんだ。アラジンとかの話はこのシェヘラザードが王様に語った物語だ。劇中劇というか」
「へええ」
「話を面白く語ることができる人間はとても魅力的だ。まず、登場人物に立体感を持たせるには他人に興味を寄せてその行動を注意深く観察する能力が備わっていなければならない。また、話している間も、聴き手の心の動きを丁寧に汲み取る能力が必要だ」
「ああ、自分の話がウケてるのかどうか確かめないといけませんしね」
「……その表現では些か話の格調が落ちる気もするが、まあ、そうだ。そして俺が言いたいのは、王様はシェヘラザードに本当に恋をしたのだろうということだ」
「……」
「面白くいろんな話を聞かせてくれる、話し上手な女性はとても魅力的だ。だから王様は本当の恋をしたんだ」
「恋ですか」
この四角四面な武田氏からそんな単語が出てこようとは。しかも、氏にしてはかなり踏み込んだ内容の質問をする。
「君は清水という男性のどこが好きだったんだ?」
氏の質問にも驚くが、その答えを胸の中に探そうにもほとんど何もないことにも美希は驚く。
「清水さんのどこがと言うより……。あの人は私を『可愛い』って言って下さったので。私が男の人から『可愛い』と評価されることなんて想像もしてなくて、それで……」
「『可愛い』と言われて好きになるなら、俺も言う」
そう宣言するわりに、氏はオタオタと視線を泳がせてつっかえつっかえだ。
「その……何だ……俺だって君を、か、か、可愛いと思う」
「無理してお世辞を言わなくてもいいですよ。私はこんな地味な顔立ちですし」
氏ははっきりと溜息をついた。
「炭川さんが可愛いかどうかは造形だけでなく、雰囲気や人柄によると言っていたんだろう?」
「ですが客観的な美しさを私が備えているわけでは……」
「俺も君を絶世の美女とは言わん。だが、建築だってその良さを決めるのはデザインだけじゃない。美しいというより、好ましいと思われる建築が生き残る」
「好ましい……。でも、私性格も今一つですよ?」
そうだ、氏こそが美希の傲慢さを見抜いたではないか。
「大学近くの交差点のことを忘れたんですか? 私は男の人は女の子から頼みごとをされたら鼻の下を伸ばして引き受けるだろうと考えてた傲慢な人間です」
氏は淀みなく答えた。
「その件を俺も色々考えてみた。君は、君自身が今、道端でサドルの下げ方が分からない誰かに頼まれたらどうする?」
考えるより先に答えが口をついて出る。当然のことだ。
「教えてあげますよ。だって、今の私は自転車の椅子をサドルと呼ぶことも、レバーを引いてクルクル回せばいいことも知ってますから」
「そう、君ならそうするだろう。だから、他人も人が自分と同じような行動を取るだろうと君が思うことは全く悪くない」
「ええと……」
「君は親切で優しい人間だ。だから相手も親切で優しいだろうと思う。現に俺の友人も別に嫌だったわけじゃない。ただ、あいつはバイトの面接だったから……」
「人の時間は限られているのに手を煩わせようとした私が悪いんです……」
「それは友人が『今忙しいから』と断ればよかった話だ。君が、自分も他人も頼まれればサドルを下げてあげた方がいいと考えること自体は、正しくて善くて美しいことだ。あの一件は俺の行き過ぎだったと反省している」
これだけ能弁に語るのだから、氏はあの出来事を何度も思い返してくれたのだろう。
「君は自分をブスで性格が悪いと思っている。それは『歪んだ認知』だと寮で言われたんだろう? 認知を変えることは確かに難しい。しかし、君が『可愛く優しい魅力的な女性だ』と正しく扱われる経験を重ねれば変わっていくことが見込まれる。俺も最初は君のことを誤解したが、今は君のことを優しい女性だと思っている」
ここまで流れるように話すのに、氏は突然どもってしまう。
「だ、だ、だから。き、君は魅力的な女性で、だから俺……いや、僕は……」
一人称を「俺」から「僕」に変える氏に軽く驚いている美希のカバンの中から、スマホの着信音が流れてきた。
母だ。美希は氏にはそうと断り、スマホを取り出した。氏は素早く「スピーカーにして」と言う。
母は自宅にいるらしく声が大きい。植物園の静寂の中にその声が響く。こうして聞く母の粘ついた声は、どこか醜く感じられた。
「美希? ママね、京都に行こうかと思うのよ。そろそろ紅葉の季節でしょう?」
「お父さんは元気?」
母は一瞬「お父さん?」と怪訝そうな声を上げ、それから慌てて取り繕うかのように続ける。
「ああ、今は元気。会社にも毎日出かけているわ。でも一緒に旅行は無理よ。それでね……」
母はとりとめなく自分の身の回りのことを一方的に喋る。美希はただただ聞いているしかない。
氏が「彼氏とデート中だって言って。それから俺が出る」と囁いた。そうだ。母に偽装とはいえ彼氏がいるとアピールしなければ。
「あのね。今、か、か、彼氏とデートなの」
偽装だというのに何故か気恥しくつかえてしまう。そんな美希とは対照的に、電話を替わった氏は先ほどまでと打って変わって落ち着いた声だ。
「初めまして。武田と申します。美希さんとお付き合いさせていただいています」
母の声は一オクターブ高くよそ行きのものとなると同時に、狼狽が伝わってくる。
「先ほど下鴨女子寮の大家さんからお茶に誘われたんです。お母様もご一緒しませんか?」
「え……でも……」
以前に母と電話したとき、母は白河さんをはっきり苦手だと言っていた。
「京都まで観光に来ておいて、お嬢さんが世話になっている大家さんに挨拶しないわけにもいかないでしょう。お嬢さんのお住まいもご覧になりたいでしょうし」
「そ、そうですね」
母はとても体裁を気にする。こう言われてしまっては白河さんへの好悪を脇に置いて、女子寮に出向かざるをえない。
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