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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、異変に覚悟を決める(二)
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「翠令様!」
姫宮の下男が刀を片手に船を飛び移ってきた。彼は普段、錦濤の邸宅の雑用係だ。
「無事か? 怪我はないか?」
「大丈夫です。……申し訳ありません、私には賊を止めることが出来ず……」
翠令は首を振った。
「いや、よく頑張った」
商家の下男に過ぎない彼は、今まで刀を振り回した経験などないだろう。持ち慣れない手つきで剣を握り、姫宮を護ろうとしている意気だけでも褒めてやるべきだ。
下男は苦しげな顔をした。
「いえ、姫宮をお守りしなければ。……こうなったのも自分たちのせいですから!」
そして叫ぶ。
「申し訳ありませんっ! 翠令様の方が正しかった……」
予定より半日早く山崎津に来ても、港に接岸せずに夜を過ごすべきだ、と翠令は主張した。まさに、このように陸から賊に襲われる事態を懸念したからに他ならない。
しかし、下男や侍女たちが限界だと訴えた。狭い船室に籠る時間が長く続き、揺れない地面で寛ぎたくてたまらないと悲鳴を上げたのだ。確かに、船酔いでぐったりしている者もいた中、岸を目前にして苦痛に耐えろと命じるのは翠令にも酷に思えた。
姫宮も彼らにご同情なされ、「私だってずっと座りっぱなしで、そろそろ地面を駆け回りたいくらいだもの。皆も辛いわよね」とおっしゃった。
そして、翠令の意見も容れながら「他の船は接岸して各々適当に地面で休む。姫宮の船はその外側に停める」という折衷案を示されたのだった。
下男が言葉を絞り出す。
「翠令様は危険だと分かっていらした。それが……姫宮が私たちを気遣って下さったばかりにこのようなことに……」
松明の朱い光に背を向けて立つ下男の顔色は、夜目にも分かるほど蒼白だ。
翠令は彼にも自分にも言い聞かせるように、強い口調で言い切った。
「過去は変えようがない。今を最善の状態にすることを考えよう」
それよりも、と彼女は下男の肩を左手で掴んだ。
「他の武人はどこにいる?」
下男のような素人に頼らずとも他に護衛はいたはずだ。陸から襲われても対応できるよう、翠令が武人を配置しておいたのだから。
「山崎津の兵士はどうした?」
今夜は山崎津の官府から、警護の兵士たちを数十人借り受けていた。
「それが……先ほどから彼らの姿が見えなくて……」
「何?」
翠令は眉を顰め、下男の肩をゆすって確かめる。
「たまたま見かけないのではなく?」
下男は真剣な顔で首を横に振り、翠令は驚きの余り声を張り上げる。
「まさか! 誰もいないのか? 誰一人?」
「いないんです、本当に。助けて欲しくてあちこち探したんです。それなのに誰も見つからない……」
下男は嗚咽混じりに言い終えるとその場にへたり込んだ。彼が手にしていた剣もまた、からんと弱々しい音をたてて甲板に倒れる。
「……」
翠令は息を呑んだ。官府の兵士が賊と戦うことを厭い、姫宮を放り出して逃げたとは……。彼女は愕然と立ち尽くすよりない。
――姫宮は侮られている
御所に呼ばれた姫宮のお立場は必ずしも盤石ではない。
先帝は漁色家であったにもかかわらず、子はただ一人。その親王が即位して今上帝となられたが、ご病弱で若いこの方には御子はおらず、他に相応しい血筋の皇族もいないゆえに、先々帝の孫である姫宮が東宮となった。
だが、もし今の帝に皇子が生まれればそちらに東宮の地位が移るだろうと、誰でも容易に想像がつく。だから、今から既に「錦濤の姫宮など仮の東宮に過ぎない」という陰口も囁かれているのだ。
翠令は唇を噛む。
――将来が不安定な女宮など身を挺してまで守る価値がないとでも思っているのか!
憤る翠令の耳にカタカタと床が鳴る音が聞こえた。
「……?」
下男が腰を抜かしたまま、自分が取り落とした刀を引き寄せていた。体が震えているので手にした剣も甲板の上で音を立てる。
「す、翠令様。残っている我々だけでも姫宮をお守りしないと……」
「ああ、そうだな」
翠令は片手で下男の肘を掴んで立ち上がるのを助けてやった。
「よし、姫宮の船室に向かってくれ。今は乳母殿と二人だけだから」
「は、はい……」
下男が自分の足で奥へ入って行ったのを見届けて、翠令は外から扉を閉めた。
彼の意気は評価するが、賊に立ち向かう役割は期待できない。
山崎津の兵士が逃げたなら、この船に武人は翠令ただ一人。
何としても姫宮を京にお届けして差し上げたい。
そのためにはどうすればいい? できることは? やらなければならないことは?
――明日、明日まで踏みとどまればいい。明日の朝にさえなれば……。
朝が来れば近衛大将が麾下を引き連れて山崎津までやってくる。いくら何でも近衛大将の身分で東宮を無視するはずはなく、そしてその職を拝命する人物の驍名は錦濤でもよく知られている。確か──佳卓というお名前だったはず。
――その為人、鬼神のごとし
彼は先年まで朝廷に何かと盾突く東国に派遣され、見事に平定して名を上げた。そして先帝の暴政で荒れた京に呼び戻され、跋扈する盗賊の退治に乗り出している。
近衛とは文字通り帝の近くをお守りするものだが、他に佳卓に比肩する武人はいないゆえ、武門の長 として内裏の外の盗賊退治も担っている。
京の街の盗賊では、”白い妖”が率いる集団が最も恐れられているという。しかし、鬼神のごとき佳卓が京に戻ってきたことで、その妖の盗賊団もめっきり鳴りを潜めているらしい。
――これほどの武将が京を護っているのなら姫宮のことは安心だ。
帝が住まう内裏の奥。平時であればとうてい賊など忍び込めるような場所ではない。
姫宮は今後、国を代表するような秀でた武人に護られてお過ごしになる。姫宮にはもう、たかが地方のお転婆娘に過ぎなかった翠令など必要ない。そろそろ姫宮の守刀としてのお役目も終わりだ。近衛大将になら安心して姫宮を託すことができる。
翠令は都の方角に一礼した。
――どうか、姫宮をお願い申し上げる。
翠令は剣の切っ先を挙げた。柄 の部分を両手で強く握りしめる。
――私はここで息絶えても構わない。この局面さえ切り抜けることができたなら!
この大勢を自分一人の力で退けられるとは思えない。力尽き、そして敵の刃に倒れて果てるのかもしれない。だが、ここで姫宮を護らぬ女武人翠令などありえない。
翠令が覚悟を決めて駆けだそうとしたとき、視界にひっかかるものがあった。
――誰だ?
船溜まりの光が届かぬ闇の中、姫宮の船の舳先に長身の男が立っていた。
火の灯りは男の足元の暗い水面に落ち、船の揺れがつくる不規則な波に朱色の光を添えるのみで消えていく。船の上に立つ男を照らすのは空から注ぐ青白い月の光のみ。
翠令は「ああ」という声を漏らす。
――これが白い妖か……。
姫宮の下男が刀を片手に船を飛び移ってきた。彼は普段、錦濤の邸宅の雑用係だ。
「無事か? 怪我はないか?」
「大丈夫です。……申し訳ありません、私には賊を止めることが出来ず……」
翠令は首を振った。
「いや、よく頑張った」
商家の下男に過ぎない彼は、今まで刀を振り回した経験などないだろう。持ち慣れない手つきで剣を握り、姫宮を護ろうとしている意気だけでも褒めてやるべきだ。
下男は苦しげな顔をした。
「いえ、姫宮をお守りしなければ。……こうなったのも自分たちのせいですから!」
そして叫ぶ。
「申し訳ありませんっ! 翠令様の方が正しかった……」
予定より半日早く山崎津に来ても、港に接岸せずに夜を過ごすべきだ、と翠令は主張した。まさに、このように陸から賊に襲われる事態を懸念したからに他ならない。
しかし、下男や侍女たちが限界だと訴えた。狭い船室に籠る時間が長く続き、揺れない地面で寛ぎたくてたまらないと悲鳴を上げたのだ。確かに、船酔いでぐったりしている者もいた中、岸を目前にして苦痛に耐えろと命じるのは翠令にも酷に思えた。
姫宮も彼らにご同情なされ、「私だってずっと座りっぱなしで、そろそろ地面を駆け回りたいくらいだもの。皆も辛いわよね」とおっしゃった。
そして、翠令の意見も容れながら「他の船は接岸して各々適当に地面で休む。姫宮の船はその外側に停める」という折衷案を示されたのだった。
下男が言葉を絞り出す。
「翠令様は危険だと分かっていらした。それが……姫宮が私たちを気遣って下さったばかりにこのようなことに……」
松明の朱い光に背を向けて立つ下男の顔色は、夜目にも分かるほど蒼白だ。
翠令は彼にも自分にも言い聞かせるように、強い口調で言い切った。
「過去は変えようがない。今を最善の状態にすることを考えよう」
それよりも、と彼女は下男の肩を左手で掴んだ。
「他の武人はどこにいる?」
下男のような素人に頼らずとも他に護衛はいたはずだ。陸から襲われても対応できるよう、翠令が武人を配置しておいたのだから。
「山崎津の兵士はどうした?」
今夜は山崎津の官府から、警護の兵士たちを数十人借り受けていた。
「それが……先ほどから彼らの姿が見えなくて……」
「何?」
翠令は眉を顰め、下男の肩をゆすって確かめる。
「たまたま見かけないのではなく?」
下男は真剣な顔で首を横に振り、翠令は驚きの余り声を張り上げる。
「まさか! 誰もいないのか? 誰一人?」
「いないんです、本当に。助けて欲しくてあちこち探したんです。それなのに誰も見つからない……」
下男は嗚咽混じりに言い終えるとその場にへたり込んだ。彼が手にしていた剣もまた、からんと弱々しい音をたてて甲板に倒れる。
「……」
翠令は息を呑んだ。官府の兵士が賊と戦うことを厭い、姫宮を放り出して逃げたとは……。彼女は愕然と立ち尽くすよりない。
――姫宮は侮られている
御所に呼ばれた姫宮のお立場は必ずしも盤石ではない。
先帝は漁色家であったにもかかわらず、子はただ一人。その親王が即位して今上帝となられたが、ご病弱で若いこの方には御子はおらず、他に相応しい血筋の皇族もいないゆえに、先々帝の孫である姫宮が東宮となった。
だが、もし今の帝に皇子が生まれればそちらに東宮の地位が移るだろうと、誰でも容易に想像がつく。だから、今から既に「錦濤の姫宮など仮の東宮に過ぎない」という陰口も囁かれているのだ。
翠令は唇を噛む。
――将来が不安定な女宮など身を挺してまで守る価値がないとでも思っているのか!
憤る翠令の耳にカタカタと床が鳴る音が聞こえた。
「……?」
下男が腰を抜かしたまま、自分が取り落とした刀を引き寄せていた。体が震えているので手にした剣も甲板の上で音を立てる。
「す、翠令様。残っている我々だけでも姫宮をお守りしないと……」
「ああ、そうだな」
翠令は片手で下男の肘を掴んで立ち上がるのを助けてやった。
「よし、姫宮の船室に向かってくれ。今は乳母殿と二人だけだから」
「は、はい……」
下男が自分の足で奥へ入って行ったのを見届けて、翠令は外から扉を閉めた。
彼の意気は評価するが、賊に立ち向かう役割は期待できない。
山崎津の兵士が逃げたなら、この船に武人は翠令ただ一人。
何としても姫宮を京にお届けして差し上げたい。
そのためにはどうすればいい? できることは? やらなければならないことは?
――明日、明日まで踏みとどまればいい。明日の朝にさえなれば……。
朝が来れば近衛大将が麾下を引き連れて山崎津までやってくる。いくら何でも近衛大将の身分で東宮を無視するはずはなく、そしてその職を拝命する人物の驍名は錦濤でもよく知られている。確か──佳卓というお名前だったはず。
――その為人、鬼神のごとし
彼は先年まで朝廷に何かと盾突く東国に派遣され、見事に平定して名を上げた。そして先帝の暴政で荒れた京に呼び戻され、跋扈する盗賊の退治に乗り出している。
近衛とは文字通り帝の近くをお守りするものだが、他に佳卓に比肩する武人はいないゆえ、武門の長 として内裏の外の盗賊退治も担っている。
京の街の盗賊では、”白い妖”が率いる集団が最も恐れられているという。しかし、鬼神のごとき佳卓が京に戻ってきたことで、その妖の盗賊団もめっきり鳴りを潜めているらしい。
――これほどの武将が京を護っているのなら姫宮のことは安心だ。
帝が住まう内裏の奥。平時であればとうてい賊など忍び込めるような場所ではない。
姫宮は今後、国を代表するような秀でた武人に護られてお過ごしになる。姫宮にはもう、たかが地方のお転婆娘に過ぎなかった翠令など必要ない。そろそろ姫宮の守刀としてのお役目も終わりだ。近衛大将になら安心して姫宮を託すことができる。
翠令は都の方角に一礼した。
――どうか、姫宮をお願い申し上げる。
翠令は剣の切っ先を挙げた。柄 の部分を両手で強く握りしめる。
――私はここで息絶えても構わない。この局面さえ切り抜けることができたなら!
この大勢を自分一人の力で退けられるとは思えない。力尽き、そして敵の刃に倒れて果てるのかもしれない。だが、ここで姫宮を護らぬ女武人翠令などありえない。
翠令が覚悟を決めて駆けだそうとしたとき、視界にひっかかるものがあった。
――誰だ?
船溜まりの光が届かぬ闇の中、姫宮の船の舳先に長身の男が立っていた。
火の灯りは男の足元の暗い水面に落ち、船の揺れがつくる不規則な波に朱色の光を添えるのみで消えていく。船の上に立つ男を照らすのは空から注ぐ青白い月の光のみ。
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