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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、典侍に戸惑う(一)
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「東宮様。燕の書を学ぶ際には私だけでなく、どうぞ佳卓殿もお召しあれ。あの方も学問に深く通じておられますゆえ」
円偉はここにはいない佳卓を褒め、そして重用するよう姫宮に進言した。
「そうなの? 佳卓がとっても武芸が上手くて、それで盗賊を捕まえる所は私も見たけど」
「武にも長けているのでしょうけれども、文にも大変優れた方。私もあの方と書物について会話を交わすのが楽しみなのです。今日は東宮様とご一緒かと思ったのですが……」
その声音には真実、佳卓に会えなかったことを惜しむ響きがあった。
「ええと……」と姫宮は翠令に顔を向けてお尋ねになった。
「佳卓はどうしてよそに行ったのだっけ?」
「佳卓様は……捕えた賊の件で、色んな役所に出向かなければならないとおっしゃっていました」
翠令が説明している間に円偉は翠令の方を見やったものの、翠令が話し終わるとさっさと視線を外した。
円偉は嘆く。
「佳卓殿は近衛の大将を拝命している以上そのような雑事に煩わされる。あれほどの人材がもったいないことです」
「でも……盗賊を取り締まるお役目も大事よ」
「東宮様」
円偉が口調を改めた。静かに落ち着いた声だが、それでいて有無を言わせぬ圧がある。
「どうか徳を積み仁政をなさいませ。さすれば賊や謀反など無くなります。帝が覇道ではなく王道を行けば武力など国から不要となるのです」
「ええと……?」
「良き帝の治世では賊など生まれません。天子が仁道を施せば世は平和となります。そう、武人などこの世に要らなくなるのです。きちんとした世となれば佳卓殿も刀を振り回すなど野蛮なことに時間を浪費せず、本来の学識深さでご活躍なさるはず」
「……分かったわ」
翠令はどこか釈然としない気持ちでそれを聞いた。確かに武人など必要としないような平和な世になることは望ましいだろう。円偉様は何も間違ったことは言っていない。……だが、何か違和感を翠令は覚える。だって……。
だが、翠令の中で考えが纏まる前に、御簾の内から女性の声がした。やや嗄れれた声からするに、少し年配の女のようだった。
「主上」
帝は母屋の中、御簾の向こうに振り返られた。
「ああ、梨の典侍か。こちらにおいで」
そして、姫宮に向かってその女君をご説明なさる。
「内侍司の典侍だよ。後宮のことを取り仕切る女官だ」
その梨の典侍と呼ばれた女君は、自分も御簾をかきあげて廂の間に姿を現した。
しかし、翠令は相手の衣装や髪型に驚く。姫宮も同じお気持ちで目をぱちくりとさせておいでだ。
一方、双方の装束の違いに驚いているのは梨の典侍も同様だった。
典侍は鬢の毛に白いものが混じり、頬のたるんだ初老の女だが、それだけの年数を生きて来た彼女にとっても姫宮の装いは思いがけないことだったようで、不意を突かれたような呟きを漏らす。
「これはなんと……東宮様は大陸風の装いでいらっしゃる……」
そう、姫宮を始め錦濤の女の衣装は大陸の大国「燕」のものだ。
対する典侍の格好こそ、翠令には珍しく感じる。
大振りでゆったりとした衣を何枚も重ね、引きずるようなその衣装。髪も結わず垂髪で、立っていても床に届きそうなほど……。
円偉が「ああ」と声を出した。
「姫宮は大陸の古式ゆかしい装束をお召しだ。姫宮、当世の御所ではこのように裾の長い服を着るのです。五衣唐衣裳などと申します」
姫宮が心から不思議そうに、髪も衣も後ろに引きずる典侍にご質問なさる。
「そんな服ではお外に行けないのではなくて? お庭にも降りられないんじゃないかしら?」
翠令も同感だ。あまりにも動き辛そうに見える。
梨の典侍は静かに、静かすぎるほど静かな口調で申し上げた。
「女君は外で遊ぶことなど、なさらぬものでございます」
帝がおっしゃる。
「姫宮は錦濤という遠いところでお育ちだからね。ご存知ないことも多い。宮中のしきたりなど、梨の典侍がお教え申し上げるように」
梨の典侍は平伏して「畏まりました」とご返答申し上げた。
そしてそのまま顔を上げることなく、囁くような小声で帝に申し上げる。
「オオトノアブラ参るほどまでに、ショウヨウシャにご案内差し上げたく存じます」
「ああ、そうだね」
姫宮が何か言いたそうに口を開け、さりとて何もおっしゃれないまま帝と典侍とに交互に視線を投げかけられる。円偉がそっと説明を加えて申し上げた。
「『大殿油参るまでに昭陽舎へ』。つまり、明かりを灯さねばならないほど日が暮れてしまう前に東宮御所にご案内したいと典侍は申しているのですよ」
「え? ああ、そうなの。じゃあ、お願いします、梨の典侍殿」
典侍から無機質な声が返される。
「典侍を呼ぶのに『殿』など不要にございます」
何の表情も読み取れない顔だった。
「ごめんなさい」
典侍は顔のしわ一つ動かさず、淡々と答える。
「お謝りなることなど……。宮様とあろう方が、たかが女官にそのような態度をなさってはなりません」
「……分かりました」
典侍はそうっと立ち上がり、衣擦れの音だけをたてて滑るように歩き出す。姫宮がパタパタと小さな足音を立てて後に続かれた。
翠令も殿上に上がっても良いとの勅免をいただいたばかり。階を見つけて廊に上がる。どうしても武人の癖が抜けず床を踏みしめてしまうせいか、ギシリギシリと木材のきしむ足音がする。
典侍はいくつか橋のような廊下を渡り、ある建物に着いたところで歩みを止めた。
「こちらが昭陽舎にございます」
御簾の中に数人の女がいたが、彼女達も揃って典侍同様に袖が大きく裾の長い装束で垂髪だ。そして床にひれ伏したままぴくりとも動かない。
「これらの者が宮様にお仕えする女房にございます。さあ、中にお入りくださいまし」
梨の典侍は姫宮と翠令に中に入るように促す。しかし、錦濤での大陸風の邸宅と異なり部屋の中に倚子というものがどこにもない。ただ、床の上に畳が敷かれているだけだ。
姫宮が少し困惑された顔で、その畳の上に膝を折ってお座りになる。翠令もとりあえず姫宮の斜め前方に腰を据えてみた。
典侍は姫宮の正面、翠令よりやや遠くに両手をついて座り、やはり彫像のように口元以外の何も動かさずに声を発した。
「典侍より、これまで内裏でお育ちあそばされなかった宮様にいくつか宮中で心得ていただきたいことを申し上げます」
「……」
「宮様がおみ足を使ってお歩きになる場面など極力少なくなさいませ。何か用事がありましたら近くの者にお申しつけなさいますよう。また、常に御簾の中にお入りになり、決してお外にお出になってはなりません」
翠令は内心で溜息をついた。この後宮での装束がこうも裾が長く、引きずるようなものである理由が分かる。立ち歩くことを良しとせず、殿上から外に降りることなどないがゆえの衣装であろう。
姫宮がお尋ねになる。
「私もこの御所では梨の典侍と同じような服を着なくちゃいけないかしら……?」
典侍はここで少し顔を歪めた。苦笑したもののようだった。
「そのご衣裳は……動きやすうございましょう。さきほどもパタパタと楽し気な足取りで歩いていらっしゃいました」
「動きやすいから、着ていてもいいの……?」
姫宮は小首を傾げてお続けになった。
「宮中では、動いてはいけないって言ったわよね……?」
「……」
ここで初めて典侍の顔に動揺が見られた。
円偉はここにはいない佳卓を褒め、そして重用するよう姫宮に進言した。
「そうなの? 佳卓がとっても武芸が上手くて、それで盗賊を捕まえる所は私も見たけど」
「武にも長けているのでしょうけれども、文にも大変優れた方。私もあの方と書物について会話を交わすのが楽しみなのです。今日は東宮様とご一緒かと思ったのですが……」
その声音には真実、佳卓に会えなかったことを惜しむ響きがあった。
「ええと……」と姫宮は翠令に顔を向けてお尋ねになった。
「佳卓はどうしてよそに行ったのだっけ?」
「佳卓様は……捕えた賊の件で、色んな役所に出向かなければならないとおっしゃっていました」
翠令が説明している間に円偉は翠令の方を見やったものの、翠令が話し終わるとさっさと視線を外した。
円偉は嘆く。
「佳卓殿は近衛の大将を拝命している以上そのような雑事に煩わされる。あれほどの人材がもったいないことです」
「でも……盗賊を取り締まるお役目も大事よ」
「東宮様」
円偉が口調を改めた。静かに落ち着いた声だが、それでいて有無を言わせぬ圧がある。
「どうか徳を積み仁政をなさいませ。さすれば賊や謀反など無くなります。帝が覇道ではなく王道を行けば武力など国から不要となるのです」
「ええと……?」
「良き帝の治世では賊など生まれません。天子が仁道を施せば世は平和となります。そう、武人などこの世に要らなくなるのです。きちんとした世となれば佳卓殿も刀を振り回すなど野蛮なことに時間を浪費せず、本来の学識深さでご活躍なさるはず」
「……分かったわ」
翠令はどこか釈然としない気持ちでそれを聞いた。確かに武人など必要としないような平和な世になることは望ましいだろう。円偉様は何も間違ったことは言っていない。……だが、何か違和感を翠令は覚える。だって……。
だが、翠令の中で考えが纏まる前に、御簾の内から女性の声がした。やや嗄れれた声からするに、少し年配の女のようだった。
「主上」
帝は母屋の中、御簾の向こうに振り返られた。
「ああ、梨の典侍か。こちらにおいで」
そして、姫宮に向かってその女君をご説明なさる。
「内侍司の典侍だよ。後宮のことを取り仕切る女官だ」
その梨の典侍と呼ばれた女君は、自分も御簾をかきあげて廂の間に姿を現した。
しかし、翠令は相手の衣装や髪型に驚く。姫宮も同じお気持ちで目をぱちくりとさせておいでだ。
一方、双方の装束の違いに驚いているのは梨の典侍も同様だった。
典侍は鬢の毛に白いものが混じり、頬のたるんだ初老の女だが、それだけの年数を生きて来た彼女にとっても姫宮の装いは思いがけないことだったようで、不意を突かれたような呟きを漏らす。
「これはなんと……東宮様は大陸風の装いでいらっしゃる……」
そう、姫宮を始め錦濤の女の衣装は大陸の大国「燕」のものだ。
対する典侍の格好こそ、翠令には珍しく感じる。
大振りでゆったりとした衣を何枚も重ね、引きずるようなその衣装。髪も結わず垂髪で、立っていても床に届きそうなほど……。
円偉が「ああ」と声を出した。
「姫宮は大陸の古式ゆかしい装束をお召しだ。姫宮、当世の御所ではこのように裾の長い服を着るのです。五衣唐衣裳などと申します」
姫宮が心から不思議そうに、髪も衣も後ろに引きずる典侍にご質問なさる。
「そんな服ではお外に行けないのではなくて? お庭にも降りられないんじゃないかしら?」
翠令も同感だ。あまりにも動き辛そうに見える。
梨の典侍は静かに、静かすぎるほど静かな口調で申し上げた。
「女君は外で遊ぶことなど、なさらぬものでございます」
帝がおっしゃる。
「姫宮は錦濤という遠いところでお育ちだからね。ご存知ないことも多い。宮中のしきたりなど、梨の典侍がお教え申し上げるように」
梨の典侍は平伏して「畏まりました」とご返答申し上げた。
そしてそのまま顔を上げることなく、囁くような小声で帝に申し上げる。
「オオトノアブラ参るほどまでに、ショウヨウシャにご案内差し上げたく存じます」
「ああ、そうだね」
姫宮が何か言いたそうに口を開け、さりとて何もおっしゃれないまま帝と典侍とに交互に視線を投げかけられる。円偉がそっと説明を加えて申し上げた。
「『大殿油参るまでに昭陽舎へ』。つまり、明かりを灯さねばならないほど日が暮れてしまう前に東宮御所にご案内したいと典侍は申しているのですよ」
「え? ああ、そうなの。じゃあ、お願いします、梨の典侍殿」
典侍から無機質な声が返される。
「典侍を呼ぶのに『殿』など不要にございます」
何の表情も読み取れない顔だった。
「ごめんなさい」
典侍は顔のしわ一つ動かさず、淡々と答える。
「お謝りなることなど……。宮様とあろう方が、たかが女官にそのような態度をなさってはなりません」
「……分かりました」
典侍はそうっと立ち上がり、衣擦れの音だけをたてて滑るように歩き出す。姫宮がパタパタと小さな足音を立てて後に続かれた。
翠令も殿上に上がっても良いとの勅免をいただいたばかり。階を見つけて廊に上がる。どうしても武人の癖が抜けず床を踏みしめてしまうせいか、ギシリギシリと木材のきしむ足音がする。
典侍はいくつか橋のような廊下を渡り、ある建物に着いたところで歩みを止めた。
「こちらが昭陽舎にございます」
御簾の中に数人の女がいたが、彼女達も揃って典侍同様に袖が大きく裾の長い装束で垂髪だ。そして床にひれ伏したままぴくりとも動かない。
「これらの者が宮様にお仕えする女房にございます。さあ、中にお入りくださいまし」
梨の典侍は姫宮と翠令に中に入るように促す。しかし、錦濤での大陸風の邸宅と異なり部屋の中に倚子というものがどこにもない。ただ、床の上に畳が敷かれているだけだ。
姫宮が少し困惑された顔で、その畳の上に膝を折ってお座りになる。翠令もとりあえず姫宮の斜め前方に腰を据えてみた。
典侍は姫宮の正面、翠令よりやや遠くに両手をついて座り、やはり彫像のように口元以外の何も動かさずに声を発した。
「典侍より、これまで内裏でお育ちあそばされなかった宮様にいくつか宮中で心得ていただきたいことを申し上げます」
「……」
「宮様がおみ足を使ってお歩きになる場面など極力少なくなさいませ。何か用事がありましたら近くの者にお申しつけなさいますよう。また、常に御簾の中にお入りになり、決してお外にお出になってはなりません」
翠令は内心で溜息をついた。この後宮での装束がこうも裾が長く、引きずるようなものである理由が分かる。立ち歩くことを良しとせず、殿上から外に降りることなどないがゆえの衣装であろう。
姫宮がお尋ねになる。
「私もこの御所では梨の典侍と同じような服を着なくちゃいけないかしら……?」
典侍はここで少し顔を歪めた。苦笑したもののようだった。
「そのご衣裳は……動きやすうございましょう。さきほどもパタパタと楽し気な足取りで歩いていらっしゃいました」
「動きやすいから、着ていてもいいの……?」
姫宮は小首を傾げてお続けになった。
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「……」
ここで初めて典侍の顔に動揺が見られた。
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