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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、典侍に戸惑う(二)
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典侍の無言に、姫宮は「しまった」という顔を翠令に向けられる。
これまでも、姫宮について「女君だというのに理屈っぽいのは困ったもの」と嘆く者は多かった。
姫宮は典侍の話に矛盾があると思ったから素直に尋ねただけなのだが、大人に口答えするかのような姫宮の態度を、典侍も「はしたない」と思ったのかもしれない。
典侍は目をしばらく瞑ってから口を開いた。特に怒っている風はない。相変わらず感情が外に出ないが、しいて言えば悲しんでいるように見える。
「宮様の御年は十歳と承知しておりますが……」
「ええ、そうよ」
「……」
梨の典侍はまた無言となり、どこか心あらずといった様子で視線を彷徨わせた。まるでここに居ない誰かを無意識に探すかのように……。
「あの……梨の典侍? ええと、子どもの間は好きな服を着てもいいということなのかしら?」
典侍は少し返答に困ったようだった。
「宮様はこの昭陽舎の主でいらっしゃいます。典侍が服装を指図するなど差し出たことでございましょう。お好きに……動きやすい服でお過ごしなさいませ」
翠令は「答えになっていない」と思う。
この御所で貴人の振る舞いとして望ましいのは動かないことだと先ほど典侍が言ったばかりではないか。それなのに、動きやすいから燕風の服で過ごしてよいと前言を翻すようなことを言い出すのはどういうことか。
姫宮も何か言いたそうで、しかし言いあぐねていらっしゃる。
典侍も、自分の態度がこの少女を納得させていないことは分かっているようだった。
「燕風の服をお好みなのは、円偉様がお喜びやも知れません」
「円偉……先ほど帝と一緒に居た人ね?」
典侍は頷く。
「円偉様は大学寮の大変優秀な学生であられました。特に燕の書籍に通じておられます。この国の政も燕に倣って整えられたのですから、次の帝となられる宮様が燕風に馴染んでいらっしゃるのは、円偉様もお喜びになられましょう」
典侍は自分に言い聞かせるかのように、姫宮から視線を落とし、眼前の床を見つめて口にした。
「宮様、貴女様は東宮であらせられる。ただの女宮ではいらっしゃらない……。円偉様のような男君の家臣と政を行うお立場ゆえ、燕服を着てお過ごしでもそれで良いのかもしれません」
「……そう……」
そのまま典侍が女たちを指図して就寝の準備が整えられる。姫宮は、御帳台と呼ばれる寝台をお使いになり、翠令も廂の間に寝所を得て身を横たえた。
けれども、眠ろうとしても今日一日の出来事に頭が冴えて寝付けない。
考えることは色々ある。まず警備を担う者としての気がかりは服装の違いについてだった。
姫君はどうやら当面の間、燕服をお召しになるようだ。これまでどおり、自由に動き回ってお過ごしになることだろう。
けれど、この御所では貴い女君は御簾の内にこもるのが当然で、立ち歩くことさえ想定されていない。錦濤の大陸風の邸宅とは造りも全く違う。
そんな中で姫宮だけが燕風の衣装でこれまで通りに動き回るのはいつまで許されるのだろうか。まさか大人になってもこのままというわけにはいかないだろう。姫宮一人のために、御所の造りや仕える女房達全ての振る舞いを変えるのは現実的ではない。
――そもそも、御所風の暮らしを指導するはずの典侍はいったい何を思って矛盾するかのような態度を取るのだろう?
宮中での貴人は動かぬものと言う一方で、それでも姫宮には動きやすい燕服でも構わないと言う。その典侍の思惑が分からぬことには、翠令にとっても先の見通しが立たない。
――だが、典侍本人は何も言いたくはなさそうだ……。
「明日、近衛の方々に聞いてみよう……」
明日は翠令が近衛府に出向くことになっている。佳卓の許で正式な近衛舎人に任官されることになっているからだ。
これまでも、姫宮について「女君だというのに理屈っぽいのは困ったもの」と嘆く者は多かった。
姫宮は典侍の話に矛盾があると思ったから素直に尋ねただけなのだが、大人に口答えするかのような姫宮の態度を、典侍も「はしたない」と思ったのかもしれない。
典侍は目をしばらく瞑ってから口を開いた。特に怒っている風はない。相変わらず感情が外に出ないが、しいて言えば悲しんでいるように見える。
「宮様の御年は十歳と承知しておりますが……」
「ええ、そうよ」
「……」
梨の典侍はまた無言となり、どこか心あらずといった様子で視線を彷徨わせた。まるでここに居ない誰かを無意識に探すかのように……。
「あの……梨の典侍? ええと、子どもの間は好きな服を着てもいいということなのかしら?」
典侍は少し返答に困ったようだった。
「宮様はこの昭陽舎の主でいらっしゃいます。典侍が服装を指図するなど差し出たことでございましょう。お好きに……動きやすい服でお過ごしなさいませ」
翠令は「答えになっていない」と思う。
この御所で貴人の振る舞いとして望ましいのは動かないことだと先ほど典侍が言ったばかりではないか。それなのに、動きやすいから燕風の服で過ごしてよいと前言を翻すようなことを言い出すのはどういうことか。
姫宮も何か言いたそうで、しかし言いあぐねていらっしゃる。
典侍も、自分の態度がこの少女を納得させていないことは分かっているようだった。
「燕風の服をお好みなのは、円偉様がお喜びやも知れません」
「円偉……先ほど帝と一緒に居た人ね?」
典侍は頷く。
「円偉様は大学寮の大変優秀な学生であられました。特に燕の書籍に通じておられます。この国の政も燕に倣って整えられたのですから、次の帝となられる宮様が燕風に馴染んでいらっしゃるのは、円偉様もお喜びになられましょう」
典侍は自分に言い聞かせるかのように、姫宮から視線を落とし、眼前の床を見つめて口にした。
「宮様、貴女様は東宮であらせられる。ただの女宮ではいらっしゃらない……。円偉様のような男君の家臣と政を行うお立場ゆえ、燕服を着てお過ごしでもそれで良いのかもしれません」
「……そう……」
そのまま典侍が女たちを指図して就寝の準備が整えられる。姫宮は、御帳台と呼ばれる寝台をお使いになり、翠令も廂の間に寝所を得て身を横たえた。
けれども、眠ろうとしても今日一日の出来事に頭が冴えて寝付けない。
考えることは色々ある。まず警備を担う者としての気がかりは服装の違いについてだった。
姫君はどうやら当面の間、燕服をお召しになるようだ。これまでどおり、自由に動き回ってお過ごしになることだろう。
けれど、この御所では貴い女君は御簾の内にこもるのが当然で、立ち歩くことさえ想定されていない。錦濤の大陸風の邸宅とは造りも全く違う。
そんな中で姫宮だけが燕風の衣装でこれまで通りに動き回るのはいつまで許されるのだろうか。まさか大人になってもこのままというわけにはいかないだろう。姫宮一人のために、御所の造りや仕える女房達全ての振る舞いを変えるのは現実的ではない。
――そもそも、御所風の暮らしを指導するはずの典侍はいったい何を思って矛盾するかのような態度を取るのだろう?
宮中での貴人は動かぬものと言う一方で、それでも姫宮には動きやすい燕服でも構わないと言う。その典侍の思惑が分からぬことには、翠令にとっても先の見通しが立たない。
――だが、典侍本人は何も言いたくはなさそうだ……。
「明日、近衛の方々に聞いてみよう……」
明日は翠令が近衛府に出向くことになっている。佳卓の許で正式な近衛舎人に任官されることになっているからだ。
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