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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、竹の宮の姫君の話を聞く(一)
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翌日の昼を回ってから翠令は左近衛府に出向いた。近衛大将ともあれば午前中は 御政務があろうと思ったからだった。
建物に入ると同時に、中にいた中肉中背の男がぱっと振り返る。敏捷な身のこなしからしてなかなかの武人らしい。思わず翠令も身構える。
けれども、その男は翠令を見るなり、ふやけたと言ってよいほど柔らかい笑みを浮かべて見せた。
「ああ、貴女が女武人の翠令ですね。はじめまして。ええと、私は左衛門督を拝命している朗風って言います」
新参の翠令は膝をついて相手に礼を取り、困った顔で見あげた。
「翠令にございます。あの、私は近衛府に来たつもりなのですが……ここは衛門府でしょうか? 不慣れで場所を間違えたのでしたらお許しを」
朗風と名乗る男は笑みを深くする。
「いえいえ大丈夫、ここが近衛府ですよ。私も佳卓様に会いに来たところです。私が案内しますから、ついて来て下さい」
翠令は歩き出した朗風の後に続いた。
「私は佳卓様の乳兄弟でしてね。よくここに遊びに来るんです。今日は名高い女武人に会えると聞いて楽しみにしていました」
「名高い……」
「錦濤の姫宮の邸宅でじゃんじゃん賊を退けてたんでしょう? 勇敢ですねえ。その上、山崎の津では佳卓様に剣を向けたそうじゃないですか」
「それは……」
屋内の最奥に衝立があった。そちらに歩み寄る朗風の背中に翠令が尋ねる。
「理由はあれど、近衛大将ほどの貴人に刃を向けてしまって……私にお咎めはないのでしょうか?」
その問いには朗風ではなく、衝立の奥から応答があった。
「愚問だね」
朗風がその声の主に呑気な声を掛ける。
「あれ? 佳卓様もういらしてたんですか? 食事はどうされたんです?」
朗風が何の遠慮もなく衝立の向こうに行ってしまうので、翠令もその後に続く。
「やあ、翠令」
紙の束や木簡などが山と積まれた机の向こうの椅子に、佳卓が斜めに座っていた。足を組んで机に近い方の肘をつき、もう一つの手に何かの書類を持っている。その文面から視線を移すことなく、淡々と彼は言葉を発する。
「仕事が溜まっていてね。何かを食べている暇もない。山崎の津の一件なら翠令に理がある。何も咎める必要はない」
翠令はここでも膝をつく。見れば佳卓の格好は貴人の装束。この朝廷の重臣であることを改めて突き付けられて、どうして畏まらずにいられるだろうか。彼女は床に跪いた。
「ご挨拶申し上げます。この度──」
「いや、いいよ」
「は?」
「挨拶は抜きだ。無駄だろう」
翠令としても要らぬ儀礼に拘泥する気はない。自分一人のことなら、そのまま挨拶抜きで済ませても良いかもしれない。しかし……。
「私は錦濤の姫宮の従者として京に上って参りました。礼節を弁えない田舎者よと笑われては、姫宮の名誉にかかわります」
佳卓が翠令の方に視線を向け、細い眉を跳ね上げる。
「いいよ、堅苦しい挨拶がしたいのならそうしても。つきあってもいい。けれど、私は時間の無駄のように思うけどね。そんなことより、どうだね、初めて上がった内裏の感想は?」
朗風が相変わらずにこやかな顔で囁く。
「さあ、立って」
「でも……。私の感想などよりも……」
佳卓が翠令に向き直った。そして、男にしては細く長い指を卓上で組んで見つめてくる。
「では質問を変えよう。翠令から見て、姫宮の新しいお住まいに警備上の問題は何かないかね?」
翠令は心の中で「ああ」と呟きながら立ち上がった。挨拶の要不要より、近衛としての業務の方に関心がおありなのだ。この貴人はとんでもなく実際的な人間らしい。
「そのようなお話でしたら、ちょうど私から姫宮の警護の在り方について質問がございました」
「ほう?」
佳卓の、黒々とした瞳に興味深そうな光が宿る。
「ぜひ聞こう」
「都の女君はとても長い裾の装束で過ごすもののようです」
「ああ、姫宮も翠令も大陸風だね、そう言えば」
「梨の典侍という方は、この御所では御簾の中に閉じこもって立ち歩いてもならないのがしきたりだと当初言われました。しかしながら、姫宮が『自分も御所風の長い服に改めるべきか』とお尋ねになると、『動きやすい格好でお過ごしになればいい』と答えられる。矛盾しているように思えてなりません」
「……」
「我らは錦濤の暮らし方を押し通そうと思っているわけではありません。御所のしきたりに馴染まなければならないのなら、そうすべきでしょう。但し、姫宮がこれまでどおり自由に庭に下りたり外に出かけたりされるのか、それともずっと邸内でお過ごしなのかどうかで警備の範囲も異なります。いったい梨の典侍の真意はどのようなものなのでしょうか?」
佳卓がほんのわずかに首を傾げた。
「本人に聞こうとは思わなかったのかね?」
「なんとなく憚られましたので……。鄙育ちに分かるまいなどと姫宮を軽んじていらっしゃるわけでは全くなさそうでしたが、どことなく悲しそうで……。姫宮がご活発に動かれるならそれでもよいと覚悟されたご様子でもありました」
「なるほどね……」
それきり佳卓が押し黙る。先ほどまでとは打って変わって重苦しい表情だ。
ふと見れば、朗風までもが苦々し気な表情を浮かべていた。
立ち入ったことを聞いてしまっただろうか、と翠令は思う。
「あの……障りがあるなら無理に答えてもらわなくても構いません。幸い私は殿上に昇ることを許されましたし、姫宮のお傍にさえいられればどのような状況でもお守り申し上げるまでですから、警備の都合など私の方でどうとでも致します」
佳卓はしげしげと翠令を見つめた。
「翠令は思慮深いね。梨の典侍の心情を思いやり、姫宮の警護は詰まるところ己の問題だと割り切って不要な好奇心を引っ込める」
「私が思慮深いかはともかく……。私などの耳に入れるべきことではないなら強いて伺おうとは思いません」
いや、と佳卓は首を振った。
「翠令に秘密にしようと思っている訳じゃない。ただ、口にするとなるととても気が重い話なのでね……」
さて、どのように語ろうか。佳卓一つ前置きをし、そして壁にある連子窓から少し空を見上げた。
建物に入ると同時に、中にいた中肉中背の男がぱっと振り返る。敏捷な身のこなしからしてなかなかの武人らしい。思わず翠令も身構える。
けれども、その男は翠令を見るなり、ふやけたと言ってよいほど柔らかい笑みを浮かべて見せた。
「ああ、貴女が女武人の翠令ですね。はじめまして。ええと、私は左衛門督を拝命している朗風って言います」
新参の翠令は膝をついて相手に礼を取り、困った顔で見あげた。
「翠令にございます。あの、私は近衛府に来たつもりなのですが……ここは衛門府でしょうか? 不慣れで場所を間違えたのでしたらお許しを」
朗風と名乗る男は笑みを深くする。
「いえいえ大丈夫、ここが近衛府ですよ。私も佳卓様に会いに来たところです。私が案内しますから、ついて来て下さい」
翠令は歩き出した朗風の後に続いた。
「私は佳卓様の乳兄弟でしてね。よくここに遊びに来るんです。今日は名高い女武人に会えると聞いて楽しみにしていました」
「名高い……」
「錦濤の姫宮の邸宅でじゃんじゃん賊を退けてたんでしょう? 勇敢ですねえ。その上、山崎の津では佳卓様に剣を向けたそうじゃないですか」
「それは……」
屋内の最奥に衝立があった。そちらに歩み寄る朗風の背中に翠令が尋ねる。
「理由はあれど、近衛大将ほどの貴人に刃を向けてしまって……私にお咎めはないのでしょうか?」
その問いには朗風ではなく、衝立の奥から応答があった。
「愚問だね」
朗風がその声の主に呑気な声を掛ける。
「あれ? 佳卓様もういらしてたんですか? 食事はどうされたんです?」
朗風が何の遠慮もなく衝立の向こうに行ってしまうので、翠令もその後に続く。
「やあ、翠令」
紙の束や木簡などが山と積まれた机の向こうの椅子に、佳卓が斜めに座っていた。足を組んで机に近い方の肘をつき、もう一つの手に何かの書類を持っている。その文面から視線を移すことなく、淡々と彼は言葉を発する。
「仕事が溜まっていてね。何かを食べている暇もない。山崎の津の一件なら翠令に理がある。何も咎める必要はない」
翠令はここでも膝をつく。見れば佳卓の格好は貴人の装束。この朝廷の重臣であることを改めて突き付けられて、どうして畏まらずにいられるだろうか。彼女は床に跪いた。
「ご挨拶申し上げます。この度──」
「いや、いいよ」
「は?」
「挨拶は抜きだ。無駄だろう」
翠令としても要らぬ儀礼に拘泥する気はない。自分一人のことなら、そのまま挨拶抜きで済ませても良いかもしれない。しかし……。
「私は錦濤の姫宮の従者として京に上って参りました。礼節を弁えない田舎者よと笑われては、姫宮の名誉にかかわります」
佳卓が翠令の方に視線を向け、細い眉を跳ね上げる。
「いいよ、堅苦しい挨拶がしたいのならそうしても。つきあってもいい。けれど、私は時間の無駄のように思うけどね。そんなことより、どうだね、初めて上がった内裏の感想は?」
朗風が相変わらずにこやかな顔で囁く。
「さあ、立って」
「でも……。私の感想などよりも……」
佳卓が翠令に向き直った。そして、男にしては細く長い指を卓上で組んで見つめてくる。
「では質問を変えよう。翠令から見て、姫宮の新しいお住まいに警備上の問題は何かないかね?」
翠令は心の中で「ああ」と呟きながら立ち上がった。挨拶の要不要より、近衛としての業務の方に関心がおありなのだ。この貴人はとんでもなく実際的な人間らしい。
「そのようなお話でしたら、ちょうど私から姫宮の警護の在り方について質問がございました」
「ほう?」
佳卓の、黒々とした瞳に興味深そうな光が宿る。
「ぜひ聞こう」
「都の女君はとても長い裾の装束で過ごすもののようです」
「ああ、姫宮も翠令も大陸風だね、そう言えば」
「梨の典侍という方は、この御所では御簾の中に閉じこもって立ち歩いてもならないのがしきたりだと当初言われました。しかしながら、姫宮が『自分も御所風の長い服に改めるべきか』とお尋ねになると、『動きやすい格好でお過ごしになればいい』と答えられる。矛盾しているように思えてなりません」
「……」
「我らは錦濤の暮らし方を押し通そうと思っているわけではありません。御所のしきたりに馴染まなければならないのなら、そうすべきでしょう。但し、姫宮がこれまでどおり自由に庭に下りたり外に出かけたりされるのか、それともずっと邸内でお過ごしなのかどうかで警備の範囲も異なります。いったい梨の典侍の真意はどのようなものなのでしょうか?」
佳卓がほんのわずかに首を傾げた。
「本人に聞こうとは思わなかったのかね?」
「なんとなく憚られましたので……。鄙育ちに分かるまいなどと姫宮を軽んじていらっしゃるわけでは全くなさそうでしたが、どことなく悲しそうで……。姫宮がご活発に動かれるならそれでもよいと覚悟されたご様子でもありました」
「なるほどね……」
それきり佳卓が押し黙る。先ほどまでとは打って変わって重苦しい表情だ。
ふと見れば、朗風までもが苦々し気な表情を浮かべていた。
立ち入ったことを聞いてしまっただろうか、と翠令は思う。
「あの……障りがあるなら無理に答えてもらわなくても構いません。幸い私は殿上に昇ることを許されましたし、姫宮のお傍にさえいられればどのような状況でもお守り申し上げるまでですから、警備の都合など私の方でどうとでも致します」
佳卓はしげしげと翠令を見つめた。
「翠令は思慮深いね。梨の典侍の心情を思いやり、姫宮の警護は詰まるところ己の問題だと割り切って不要な好奇心を引っ込める」
「私が思慮深いかはともかく……。私などの耳に入れるべきことではないなら強いて伺おうとは思いません」
いや、と佳卓は首を振った。
「翠令に秘密にしようと思っている訳じゃない。ただ、口にするとなるととても気が重い話なのでね……」
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