錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術

washusatomi

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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、大学寮に赴く(二)

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「もちろんだ。我々は書物の世界に閉じこもっていては駄目だ」

「京の都にじっとしてるのではなく、鄙に出て民たちと触れ合わなければならん」

 そして、彼らは円偉の名を挙げた。

「今の朝廷には円偉様という素晴らしい方がいらっしゃるぞ。燕の難解な書籍に通暁してらっしゃる上で、実地に民と交流を持とうとなされる」

「円偉は大学寮で目覚ましい成績を上げられたにもかかわらず、ご自分の学識に驕り高ぶることがない。むしろ無学な民の心の中にこそ正義や善があるとお思いだ」

「あの方の紀行文こそ読むべきだ。円偉様が純粋な心をお持ちだから、鄙に住む素朴な人々とも心温まる交流が生まれる。うん、仁の心があれば民に慕われるという哲学の素晴らしい実践例だ」

 翠令はため息をついた。円偉の紀行文なら読んだ。円偉が善良な鄙の民を愛しているのも分かった。だが、彼の愛情は一方的で、相互の理解に欠けているように思える。円偉の思い入れは分かるが、その土地のことは分からない。姫宮のお言葉でいえば「あちこちの国に旅行に行ったのは分かるんだけど、その土地のことが今一つ良く分からない」のだ。

「東宮様も民の暮らしを知りたいとお思いです、だから風土記を借りようと……」

 男達がせせら笑う。

「円偉様はそんな実用書を読む暇があれば燕の優れた君主論を読むよう後輩の学生におっしゃるね。風土記などのような冷たい観察ではなく、民にどのように温かい気持ちを持つかが、国の政治を行う上で大事なことだからね」

「うんうん。民を心で理解しなければね。地図や数字なんかの資料ばかり眺めていても、そこに仁は説かれていないのだし」

 事実を客観的に記述する史資料を冷たい観察に過ぎないといい、そんな観察者の立場を離れて民と心のこもった交流をするべきだと学生たちは言うが……。だが、そういう者達は相手を観察すらしていないと翠令は感じる。

 自分たちがいかに徳を備えた人物であり得るかが直接の関心事であり、民は自分たちの徳の高さを彩る脇役だとしか思っていないのではないか。そして、それを独善と言わないだろうか。もっと、現実の民が必要としていることに思いを致すべきではないのか。

「実用的な知識も必要ではないですか? 民に安寧と豊かさをもたらすためには」

 翠令の問いかけは、ここでも相手と噛み合わない。

「安寧や豊かさ? 鄙びた土地は京の都のように俗にまみれていなくて、人間らしい暮らしが息づいているじゃないか。確かに着るものや食べ物が粗末だったりするかもしれないが、人間の幸せは物質的な豊かさじゃない。便利で快適になれば表面上の幸せは得られるかもしれないが、本当の人間らしさを忘れてしまうものだよ」

「そうだそうだ。本当に大事なのは心の豊かさだよ」

 翠令は徒労感を覚え始めるが、賛成できない意見には賛成できかねると返すしかない。

「心の豊かさも大事でしょう。ですが……」

 苛立っているのは相手も同じようだった。

「さっきから口答えばっかりだな、女」

 相手は、これまでの話題と関係がない翠令の服装に気を留めた。

「お前、その格好は武人のつもりか?」

「ああ、聞いたぞ。女武人が東宮と一緒にいるって」

 そして、話は翠令の思ってもみなかった方向に向かう。

「武人だから佳卓びいきなのか?」

「は?」

「円偉様の立派さを理解できないなんて。佳卓側の人間だな」

「……」

 円偉自身は佳卓に好意的であり、佳卓も円偉を評価している。しかし、下っ端連中はこの二人を対立させて考えがちだとは翠令も聞いていた。

 ──そうか、こういうことか。

 自分たちに同調しない人間を前にしたとき、そこで自分たちの方に改善点があると考えるよりも、相手が誰かに唆されていたり騙されていたりすると考える方が快適なのだ。円偉と対立する誰かを仮想敵と見立てて攻撃することで、自分たちの欠けたところから目を逸らそうそしている。

「佳卓は大学寮で円偉様と同じような成績を上げたこともあったそうだが、学問に背を向けて下らぬ戦ごっこに精を出している」

「同じ土俵で争いたくないから逃げているんだ」

「身分で劣る円偉様が自分以上の才能の持ち主なのが妬ましいんだろうな」

 佳卓は奇矯な人物だが、そうだからこそ、そんな分かりやすくありきたりな感情など持ちそうにない。彼が皮肉な笑みを浮かべて「嫉妬?」と鼻で笑う光景が目に浮かぶようだ。

「あのお方はそんなつまらぬ嫉妬はなさらない」

 男達は取り合わない。

「お前は武人だから佳卓の息がかかっているんだろう。まあ、お前はどうでもいい。だが、お前みたいなのがいると東宮まで佳卓びいきになるんじゃないか」

「そんな……。東宮様は依怙贔屓すまいとお考えだ」

 男は翠令を指さし、低い声で唸るように言った。

「いいや。既にお前が東宮の『守刀』などと持ち上げられて特別扱いされている」

 もう一人も妙に据わった目を翠令に向ける。

「女の身で武人になろうとするくらいだから、武人の長におもねるだろう。東宮にも佳卓を引き立てろと頼むに違いない」

 彼らの目の色と口調が最初の頃から変わっていることに翠令は気づいた。翠令を学のない相手と見下していたその余裕が今は消え、自分たちの何かが脅かされているという不安と緊張が態度に滲む。

 円偉と双璧と称される佳卓。その佳卓が、東宮と結びついて権力を掌握したらどうなるか。彼らが円偉に追従することで得られるはずの地位や名望、それに収入……つまり安寧と豊かさが失われてしまうのだ。彼らはそんな恐怖に取りつかれているに違いない。

「……」

「……」

 先程まで滑らかに動いていた彼らの口が閉ざされている。その沈黙が不穏なものをはらむ。

 しかし、翠令にも発すべき言葉は見つからない……。
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