24 / 110
第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、痛みを覚悟する(一)
しおりを挟む
ガターンという大きな音が屋内から聞こえた。
これを好機に翠令は男達に「失礼します」と言い置いて中に入り、相手に何も言わせないよう大急ぎで戸を閉めてしまう。
書庫の中に戻ると椅子が倒されており、その傍に姫宮が立っていらした。
「翠令が困ってるみたいだったから、とりあえず大きな音を立ててみたけど……」
翠令は一礼して申し上げる。
「助かりました。どうあしらったらいいのか考えあぐねておりました」
正智《せいち》も心配そうな面持ちだ。
「帰り道は気を付けた方がいいでしょう。いや、学生相手なら翠令殿がやっつけておしまいでしょうけどね。大学で学ぶお坊ちゃんには下男がついていることもあるんですよ。場合によっては手荒なことも辞さないような乱暴者も召し抱えてたりします」
「分かりました。姫宮、日が暮れないうちに早く帰りましょう」
姫宮は名残惜しそうな顔をなさる。
「じゃあ、この本のこの部分だけ読み終えていい?」
内容に引き込まれている読書を中断するのは辛いものだ。翠令は特に読書家ではないが、それくらいのことは分かるので「よろしゅうございます」と微笑んだ。
翠令が書庫から外に出ると日が随分と傾いていた。西の空が朱く染まり、大路の東の奥には既に薄青い翳が漂い始めている。
翠令と姫宮は大学寮の門から外に出て大路を足早に歩く。聳え立つ巨大な朱雀門さえくぐれば、もう大内裏だ。
築地塀に凭れていた柄の悪そうな男三人連れが翠令の目に止まった。そして、彼らは翠令と目が合うとにやりと笑い、身を起こすとこちらに歩き始める。
幅の広い大路だというのに、翠令達の近くですれ違おうとしている彼らを、もちろん翠令は警戒した。
そして、無事にやり過ごせたと思って翠令が息をついた時。
「……!」
後ろから男の一人に羽交い絞めにされてしまった。「翠令!」という姫宮の高い声が耳に飛び込み、別の男が翠令の頬に拳を叩きこもうとしているのが目に入る。
翠令は体を柔らかくして身を落とし、背後から締め付けて来る男の腕をすり抜けた。
「お?」
翠令を殴ろうとしていた男の拳は急には止まらない。
「げっ!」
翠令に見舞われるはずだった一撃は、翠令を抱えていた味方の男に命中する。
「この女!」
「同士打ちさせやがって!」
翠令は素早く立ち上がったが、男はもう一人いた。脚を上げ、翠令を蹴り倒そうと足を振る。翠令は横っ飛びに跳んで避けた。その先で身構えると、腰に佩いた刀を抜く。
だが、相手の男たちは動じない。
「おお? こりゃあ勇ましいこって」
「錦濤の姫宮の守刀なんだってな。へえ、いい剣持ってるじゃねえかよ」
「だが、こんなところで刀なんか振り回してていいのかよぉ」
「……?」
眉根を寄せる翠令に、男たちはだらしなく笑いかける。
「こんな御所の近くで流血沙汰かあ?」
翠令は吠える。
「それはお前たちが襲い掛かってくるからだろう!」
「こっちは刀なんか使ってない。拳の喧嘩だというのに剣で血を流すのかぁ?」
翠令は唇を噛んだ。貴い姫宮を連れているのだから当然剣でお守りするまで。しかし、姫宮の存在は極秘だ。ここで翠令が剣を使うと、ただ掴みかかってきた相手にいきなり斬りつけたということになってしまう。
びゅんと空気を切って、また拳が翠令を襲う。
「……!」
躱した。だが、別の男も襲い掛かる。身を翻してそれも避けた。
「翠令!」
男の一人がしゃがんで姫宮を抱きかかえていた。
「な……!」
男がヘラッと笑う。
「おい、大人しくしてろ。でないとこの餓鬼に手を掛けるぞ」
「やめろ!」
「こっちも子どもに用があるんじゃない。あんたに用があるんだ」
「女の分際で東宮の近衛なんか生意気なんだよ」
「女は腕っぷしで男に勝てない。それを証明するんだ」
男達は翠令ににじり寄る。
「お前が痣だらけになって骨の一本でも折れてみりゃあ、女武人なんか護衛の役に立たねえことが一目でわかる」
「とりあえずお前は御所から出ていけ。東宮も武人を身の周りに置くなんてことはあきらめてもらおう」
「武官の佳卓《かたく》って奴より、文官の円偉《えんい》って方の方が偉いんだろ? 俺の主公が言ってたぜ」
やはり円偉を崇める学生の手の者だったのか。翠令は目を瞑る。
彼らは、翠令が近くにいることで東宮が佳卓を贔屓することを怖れていた。ならば、佳卓を取り立てるきっかけになりそうな翠令を排斥すればいいと考えたのだ。
翠令は歯を食いしばった。姫宮を人質にとられている以上できることはない。痛みはただ耐えるだけだった。
ゴツっと骨がぶつかる音は、しかし外から聞こえた。
「……?」
これを好機に翠令は男達に「失礼します」と言い置いて中に入り、相手に何も言わせないよう大急ぎで戸を閉めてしまう。
書庫の中に戻ると椅子が倒されており、その傍に姫宮が立っていらした。
「翠令が困ってるみたいだったから、とりあえず大きな音を立ててみたけど……」
翠令は一礼して申し上げる。
「助かりました。どうあしらったらいいのか考えあぐねておりました」
正智《せいち》も心配そうな面持ちだ。
「帰り道は気を付けた方がいいでしょう。いや、学生相手なら翠令殿がやっつけておしまいでしょうけどね。大学で学ぶお坊ちゃんには下男がついていることもあるんですよ。場合によっては手荒なことも辞さないような乱暴者も召し抱えてたりします」
「分かりました。姫宮、日が暮れないうちに早く帰りましょう」
姫宮は名残惜しそうな顔をなさる。
「じゃあ、この本のこの部分だけ読み終えていい?」
内容に引き込まれている読書を中断するのは辛いものだ。翠令は特に読書家ではないが、それくらいのことは分かるので「よろしゅうございます」と微笑んだ。
翠令が書庫から外に出ると日が随分と傾いていた。西の空が朱く染まり、大路の東の奥には既に薄青い翳が漂い始めている。
翠令と姫宮は大学寮の門から外に出て大路を足早に歩く。聳え立つ巨大な朱雀門さえくぐれば、もう大内裏だ。
築地塀に凭れていた柄の悪そうな男三人連れが翠令の目に止まった。そして、彼らは翠令と目が合うとにやりと笑い、身を起こすとこちらに歩き始める。
幅の広い大路だというのに、翠令達の近くですれ違おうとしている彼らを、もちろん翠令は警戒した。
そして、無事にやり過ごせたと思って翠令が息をついた時。
「……!」
後ろから男の一人に羽交い絞めにされてしまった。「翠令!」という姫宮の高い声が耳に飛び込み、別の男が翠令の頬に拳を叩きこもうとしているのが目に入る。
翠令は体を柔らかくして身を落とし、背後から締め付けて来る男の腕をすり抜けた。
「お?」
翠令を殴ろうとしていた男の拳は急には止まらない。
「げっ!」
翠令に見舞われるはずだった一撃は、翠令を抱えていた味方の男に命中する。
「この女!」
「同士打ちさせやがって!」
翠令は素早く立ち上がったが、男はもう一人いた。脚を上げ、翠令を蹴り倒そうと足を振る。翠令は横っ飛びに跳んで避けた。その先で身構えると、腰に佩いた刀を抜く。
だが、相手の男たちは動じない。
「おお? こりゃあ勇ましいこって」
「錦濤の姫宮の守刀なんだってな。へえ、いい剣持ってるじゃねえかよ」
「だが、こんなところで刀なんか振り回してていいのかよぉ」
「……?」
眉根を寄せる翠令に、男たちはだらしなく笑いかける。
「こんな御所の近くで流血沙汰かあ?」
翠令は吠える。
「それはお前たちが襲い掛かってくるからだろう!」
「こっちは刀なんか使ってない。拳の喧嘩だというのに剣で血を流すのかぁ?」
翠令は唇を噛んだ。貴い姫宮を連れているのだから当然剣でお守りするまで。しかし、姫宮の存在は極秘だ。ここで翠令が剣を使うと、ただ掴みかかってきた相手にいきなり斬りつけたということになってしまう。
びゅんと空気を切って、また拳が翠令を襲う。
「……!」
躱した。だが、別の男も襲い掛かる。身を翻してそれも避けた。
「翠令!」
男の一人がしゃがんで姫宮を抱きかかえていた。
「な……!」
男がヘラッと笑う。
「おい、大人しくしてろ。でないとこの餓鬼に手を掛けるぞ」
「やめろ!」
「こっちも子どもに用があるんじゃない。あんたに用があるんだ」
「女の分際で東宮の近衛なんか生意気なんだよ」
「女は腕っぷしで男に勝てない。それを証明するんだ」
男達は翠令ににじり寄る。
「お前が痣だらけになって骨の一本でも折れてみりゃあ、女武人なんか護衛の役に立たねえことが一目でわかる」
「とりあえずお前は御所から出ていけ。東宮も武人を身の周りに置くなんてことはあきらめてもらおう」
「武官の佳卓《かたく》って奴より、文官の円偉《えんい》って方の方が偉いんだろ? 俺の主公が言ってたぜ」
やはり円偉を崇める学生の手の者だったのか。翠令は目を瞑る。
彼らは、翠令が近くにいることで東宮が佳卓を贔屓することを怖れていた。ならば、佳卓を取り立てるきっかけになりそうな翠令を排斥すればいいと考えたのだ。
翠令は歯を食いしばった。姫宮を人質にとられている以上できることはない。痛みはただ耐えるだけだった。
ゴツっと骨がぶつかる音は、しかし外から聞こえた。
「……?」
0
あなたにおすすめの小説
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる